十勝日誌 2002夏 

デメーテルその1  その2
小林満枝 日本画の世界 ▼第2回しかおいウィンドウ・アート展 ▼とかち環境アート
▼池田緑展 ▼とかち広域美術展
十勝の新時代X 池田 緑 展 7月12日−9月16日
道立帯広美術館

 1996年以降の、ジーンズやマスクを用いた立体や写真などに、昨年ニューヨーク滞在中に制作した映像3点をくわえた回顧展。

 彼女の、マスクをつかったインスタレーションとプロジェクトについては、以前「てんぴょう」誌に書いたので、ここではくりかえさないことにする。
 手短に、筆者なりに「MASK SPECIMEN」シリーズの意義を言うなら、彼女の作品系列でほとんど初めて、じぶんの嗜好にのみこだわるのではなく、外部にひらかれたコンセプトをもった作品が登場した、ということである。
 木にマスクをかけるという行為が、劣化をつづける地球環境への警鐘になっているのはいうまでもあるまい。それだけでなく、ゆたかな自然の中に設置した場合には、自然の呼気を凝縮して保存したものとしても見ることができるのだ。
 また、シンプルで、いろんなかたちに応用可能なのは、現代美術として発展の可能性を秘めているということでもあろう。事実、彼女のマスクは、帯広から、サホロのダムへ、ハンブルクやニューヨークへとひろがり、表現方法も、マスクの実物を展示するインスタレーションから、映像やコラグラフ(版画の一種)などへと展開しつつある。

 映像作品「Silent Breath 10/11/2001 NYC(Speak)」「Silent Breath 10/11/2001 NYC(Hand movement)」について。
 題名がちょっと意味不明であるが(「11/9/2001」とか「11 Sep.2001」なら分かるけど。それとも最近は「9月11日」を「9/11」という順番で書くやりかたが米国でも出てきているのか)、ともあれ、作者がニューヨーク滞在中、テロ事件に衝撃を受けて制作した映像作品である。
 この2点は、米国人数十人にテロについてひとこと感想をかたった映像と、無言で、手の動きだけでテロの感想をのべた映像が、対になっている。前者は4分54秒、後者は3分41秒。
「Couldn't Believe」
「Complete sadness」
「Need hope」
「It's a day I'll never forget」
という叫びや、ついに無言の人の表情を見ていると、あらためて米国人の受けた衝撃がつたわってくるが、ちょっと意地悪な見方をすれば、アフガニスタンなどの人々に言及している人が皆無なのも米国らしい。
 もうひとつの「Silent Breath 2001 New York」は1時間。
 男女5人が繰り広げるパントマイムを、緩慢な動きとカメラワークでとらえたもの。
 複数の人間が画面に登場して、ゆっくりと首や視線をうごかしても、けっして視線がまじわらないことからもうかがえるように、しずかにテロの死者への鎮魂をにじませているのだろう。
 1時間でわずか18シーンしかなく、音声も単純な効果音のような音楽だけで、これをじっと最後まで見続けているのは正直なところいささかしんどかった。女性のクローズアップだったのが、だんだんカメラがうつろっていき別の女性のクローズアップになり、さらにカメラが移動してさらに別の女性と男性が画面に入ってきて−というふうに、“次”が予測できないから見ていられるが、それぞれのうごきにどんな意味があるのか読み取れないのがつらい。

 なんだかこの問題にこだわりすぎだと言われそうだが、ふたたび「絵画」と「現代美術」というジャンル分けについて。
 この展覧会を見て、あらためて、彼女がかなり意識的に「絵画」から「現代美術」への領域変更を図っていたのではないかという感想をいだいてしまった。
 なにしろ、平原社展(十勝の公募展)に初出品して最高賞の協会賞を受賞(1980年)、全道展や独立美術でも毎年入賞して会友になっていたことからもわかるように、描写力ではかなりの実力を有していた彼女のこと。そういう技術を無用にしてまで、写真やインスタレーションといった手段をとるようになったのは、やっぱり彼女なりに、より自由な表現というものを模索していたんだろうとおもう。
 まあ、道外の人や美術業界以外の人にはどうでもいいことかもしれませんが、札幌での個展会場のえらびかたにも、そういう覚悟が感じ取れなくもない。
 1993年、95年、97年には、札幌でもっとも入場者の多いギャラリーの一つである札幌時計台ギャラリーを会場にしていた。しかし、98年にはギャラリーミヤシタ、2000年にはTEMPORARY SPACEで個展を開いている。
 両ギャラリーが、おおむね現代美術的な作品に的を絞って作家に発表場所を貸したり企画をしているのにくらべ、時計台ギャラリーは、公立美術館のまだ存在しない時代から現在まで道内の美術にはたしてきた役割の大きさはいくら強調してもしすぎることはないとはいえ、やはり道展や全道展などに拠って絵画や彫刻を発表する作家の個展・グループ展会場というイメージが根強い。
 作家が、以前のような絵画の世界に帰還することはおそらくないだろう。

 最後に、もっと瑣末な問題について。
 写真作品「トラリの7ヶ月」が、ななめに壁に貼り付けてあった。
 道立美術館というハコが、巨大化する現代美術作品の展示にあわなくなっているきざしでなければいいのだが。
とかち広域美術展 7月13日〜9月23日
音更は8月10日〜9月23日

 デメーテルに協賛して、十勝管内の各町村でも野外美術展などが開かれている。
 まあ、それぞれの会場がとおくはなれているし、時間に余裕のない人以外はまわるのがたいへんそう。公共交通機関ではまずムリでしょう。まあ、新得や芽室は駅から徒歩圏内ではありますが。
 なお、筆者は、幕別には行けませんでした。ごめんなさい。

 ロイ・スターブのワークショップ音更町文化センター前には、先だって札幌アーティスト・イン・レジデンスで札幌に滞在していたロイ・スターブのワークショップでつくられた「よつばのクローバー」が展示されている。
 植物のつるなどを用いて四つの円をまじわらせた、シンプルな作品。
 ちかくに、作品を見下ろせる高い台がしつらえられていますが、写真では見づらいかもしれません。

 芽室の公民館、図書館とその前の広場では「ふれあい現代アート・めむろ」の作品が展開されている。
合田尚美のインスタレーション 公民館のロビーには、合田尚美のインスタレーション「心だけは知っているDNAに刻まれて」。
 藁や枯れ草をここまで積み上げたのは、ごくろうさまです。
 中に入れるようになっていますが、真っ暗な空間に、透明な映像が映し出されており、その意図するところはよくわからない。
 枯れ草の部屋からすこし離れたところに、3台のテレビモニターが置かれて、赤い渦のようなものを映し出していましたが、これとの関係も不明。

 図書館前の広場には、廃物をつかった宮里幸宏のインスタレーション「空(くう)」。
 トタンや廃材でこしらえられた小屋になっており、中に入ると、土でできた舟と、水をたたえたビニールが置いてある。生命を育む水にスポットをあてた作品といえよう。
 すでに、作品内にはくもの巣がはっていたが、それもなにか作品の主旨にあっているような気がした。

処展「あたたかな」 その手前にあったのは、高土居、遠藤ふたりによるユニット「処展(ところてん)」による立体「あたたかな」。
 石でつくられたいすとテーブルとして、風景になじんでいた。
 まるい形の一部に欠落があるが、これは、帯広市西2南8にある作品となにか関係があるらしい。

 また、図書館の中には、津田美由紀「Treasures Box(たからばこ)」が展示されていた。流木を使っているのが、十勝的。

「子技」 7月27、28日におこなわれた高橋英双のワークショップで、26人が参加してできた「子技(こわざ)」も屋外にならんでいる。
 なんだか、砂澤ビッキの彫刻に似ているような…。

 また、筆者が行ったときには、公民館で、北海道版画協会の作品展も開かれていた。
 札幌展より作品数が増えていたので、もう一度見てしまった。

 それにしても、芽室の公民館は、中にも外にも美術品が多い。
 ロビーの絵は、園田郁夫「人物」、一木万寿三「大雪山連峰」、菊地精二「富士」、中村善策「北アルプスと犀岳」など(ただし、表示は「中村善作」になっていた)。
 屋外には、中村俊昭「大地」、斉藤健昭「星の女」など。
 後者はブロンズの裸婦だが、表面はレース編みのような模様になっており、向こう側が透けて見える。なんだかエロティックな感じだ。

佐野まさの「時空の境界」 新得町アートワークは、ちらしには「新得町役場前広場」とあったが、役場からは徒歩4分くらいあるところの空き地に、3つの作品が置いてあった。
 ちらしには7点になっていたのだが、見当たらなかった。
 ドーナツ型なのが、佐野まさの「時空の境界」。
 向こうに見えるのが役場である。
橋本勇の作品 ほかに、橋本勇「自然との共鳴U」(ちらしでは「自然との共鳴2」になっている)、梅田マサノリ「浮遊する生命体2002」。
 左の被写体(橋本)は、どっちから撮影してもバックになにかがうつるので、むつかしかったです。


 ところで、帯広市中心部でも、この広域美術展のひとつで、ビルの遊休フロアを使った「CITY ART ショーケース」、若手アーティスト11組によるデメーテルのシティ・プロジェクト、さらにインディーズアーティスト4組が発表をおこなっていたということだが、筆者は日程のつごうなどで見ることのできなかった作品(森谷緑など)もいくつかあるとはいえ、総じていえば、徒労感がのこった。
 コンセプト的におもしろかったのは、グループ「ロッパコ」によるコースターのプロジェクト。
 市内の飲食店で飲み物をたのむと、アーティストのつくったコースターが敷かれて出てくるというもの。ミニサイズながら、まさに街に浸透していくアートといえるのではないだろうか。大半は道内若手だが、端聡も参加しており、これはほしかったなあ。
 全作品は、NCアートギャラリーに展示してある。
 

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