十勝日誌 2002夏  1

(文中敬称略)

デメーテル 1
その2
小林満枝 日本画の世界 ▼第2回しかおいウィンドウ・アート展 ▼とかち環境アート
池田緑展 ▼とかち広域美術展
 道内で初めての国際現代美術展。
 といっても、昨秋の横浜トリエンナーレほど大規模ではない。
 2時間もあればたのしめるとおもう。
 とかく、国際展は巨大になりがちだが、このように的を絞ったやり方もあるのだという、ひとつの提案になっている。
 ただ、メーン会場は、作品が厩舎の内外に点在しており、広いです。あるきやすい靴で行くことをおすすめします。 
 あと「ストロボ禁止」という注意書きはあったけど「撮影禁止」とはどこにも書かれていなかったのがうれしかった。
 でも、どこまで載せると著作権にひっかかるのかなあ。

 参加アーティストは10組。
 ほとんど、この展覧会のために、会場の性格を考慮しながら制作された新作だ。

 まず、帯広駅前(北口)にあるヴォルフガング・ヴィンター&ベルトルト・ホルベルト「花力待合室」
 牛乳パックを入れる白いケースを円筒状に積み上げたシンプルな作品。
 バスの待合室としてもつかえるよう、中は空洞で、入れるようになっている。中のテーブルには、ちらし類が置かれていた。

 競馬場会場にも「帯広・ライトマシーン」と題された、2800個の牛乳パック用ケースによる大作が展示されている。
 彫刻というより、つぶれた円筒形をした、トンネルのような作品。じっさいに中をくぐりぬけることができる。
 当初の構想では、もっと入口にちかい地点に設置されるはずだったらしい。そうなれば、会場の内外をむすぶ一種のタイムマシンとしての性格がもっとはっきり出たのではないかとおもう。

 オノ・ヨーコ「skyTV」
 競馬場に設置された9台のカメラが映す空の映像を中継する81台のテレビモニターによるインスタレーション。
 映像のうち、電柱のくぎが端に映ったものがあったのが、おもしろかった。
 とかく「ジョン・レノンの夫人」という紹介のされ方ばかりだったオノ・ヨーコだが、昨年の横浜トリエンナーレなど、さかんな発表活動によって、現代美術のベテラン作家、コンセプチュアルアートの先駆者としての認知度がようやく高まりつつあるのではないか。
オノ・ヨーコ「skyTV」 ともあれ、彼女の作品はシンプルだ。
 今回の作品は、飯村隆彦による評伝「ヨーコ・オノ 人と作品」(水声社)の帯に書かれたことば
「空の美しさにかなうアートなんてあるのだろうか。」
を思い出させる。
 ただし、この夏の北海道は天候が不順で、筆者がおとずれたときも曇り空ばかりだったのがちょっぴりざんねんだった。
 作品は、厩舎内だけでなく、会場のあちこちに点在している。
 野積みになった廃タイヤにまじって、モニターが置かれていたりする。
 そんな光景を見ると、彼女が、空の美しさを称揚するノーテンキなユートピア主義者ではないことがわかるような気がする。
 ユートピアを想像(imagine)し希求することのたいせつさとともに、その思いが現実に根ざしていなければならないということも、訴えているのではないだろうか。
 空は希望のメタファだ。でも、それが現実から逃避した美の聖堂であっては、なんにもならないのだ。

 キム・スージャ/金守子「物乞いの女、ラゴス」「ホームレスの女、カイロ」
 ニューヨーク在住の彼女は、おもに韓国の伝統的な織物でつくられたベッドカバーを用いたパフォーマンスやインスタレーションを発表しており、今回も帯広でパフォーマンスをするという話もあったらしいが、体調不良などで来日は中止になり、ビデオアートの上映となったという。
 どちらも非常にシンプルな作品で、前者はこちらに背を向けて路上にすわりつづけるキムを、後者はやはりこちらに背を向けて路上にじっと横たわるキムを写したもの。
 前者では、彼女の右手にお札らしきものを握らせる人物の一部が登場するが、あとは通行人の一部がちらっと映るだけである。
 後者は対照的に、野次馬のような男たちが彼女を取り囲み、体をつついてみる男もいるが、ほとんどなにもおこらないという点ではおなじである。
 タイトルに地名が入っている。とりわけ発展途上国で、女性が置かれてきた従属的な位置を示唆するかのようだ。
 ちょっと疑問におもったのは、物乞いって、道路の真ん中に、何も敷かずにすわりますかね。
 筆者は、物乞いは道路の端にむしろなどを敷いてすわり、自分の前にお金を入れてもらうための器などを置くのがふつうだとおもっていた。ナイジェリアでは、ちがうのだろうか。

 シネ・ノマド「Three Windows」
 モンゴルのゲルに似たテントのなかで、横にみっつならんだマルチスクリーンに上映されるモノクロームの映像作品。これは、1999年の作品。
 個人的には、いちばん胸にしみた作品だった。
シネ・ノマド「スリー・ウィンドウズ」 老人の日常生活や、汽船の出港をとらえた映像の合間に、電線に止まった鳥や、地面を這う蟻などが映し出される。
 3つの映像は相互に関係していることもあるし、無関係のこともある。老人(ギリシアに住んだニューヨーク生まれの詩人で、作品完成後に亡くなったという)がゆっくりと部屋に入るようすを、前からと、横から写した映像が同時に流れることもある。
 ほとんど動きを感じさせない映像が多い。動くものは風だけだ。ストーリーもない。たとえば、老人がつるはしで岩を割っているシーンがあるけれど、いったい何をしているのか、説明はない。
 BGMもなく、たんたんと映像が続いていくだけである。にもかかわらず、詩的で、飽きさせない。
 シネ・ノマドは、スイス在住のニコラ・ハンベルトとドイツのヴェルナー・ペンツェルによるユニット。
 「ノマド」とは、遊牧民の意味だが、この静謐な映像を見ていると
「人生は移動だなあ」
という感慨がわいてくる。
 テントの外から、どこかとおくの花火の音がきこえてきた。その音におどろいたように、同時に、映像の鳥が飛び立ったのが、おもしろかった。

 インゴ・ギュンター「時折、形を成す210の断片」「馬についての脈絡のない想像の現代キッチュ風シャドーレンダリング」「中国製、インド製、タイ製、その他原産国不明の馬たち」
 ギュンターのこれまでの活躍について述べる能力はじぶんにはないのでかんべんしてください。
 公式ガイドブックには、経歴にこうしるされている。
民間利用が始まったばかりのランドサット衛星の情報を仲間とともに独自に解析した映像は、米国ABCをはじめとする世界各地のニュース番組で放送された。それまで不可侵とされてきた領域に個人が合法的に参入し、政治的決定の過程に影響を与えうることを明らかにし、政治や軍事目的のために国家レベルで集められた地勢データを一般市民として利用できる可能性の大きさを示したのだ。
 もし今回の作品がこの手のものだったら、まさに「現代美術は難解」を地でいくものになっていただろうが、幸い?
 厩舎だから馬
という、わかりやすい発想の作品でした(^.^)
 とりわけ「時折…」は、見えているのに近づけない、骨だけがあって外側がない、という、馬の不在を際立たせた作品になっています。

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