展覧会の紹介

札幌の美術2002 -20人の試み展- 3月6日(水)〜17日(日)
札幌市民ギャラリー(中央区南2東6)

(敬称略)

 総論

 これがもっと小さな市町村だったら、話はかんたんだっただろう。
 そのマチ唯一の公民館では、年に一度「市民文化発表祭」と称して、舞台では日本舞踊グループやアマチュアバンドの発表会が行われ、ロビーは即席のギャラリーとなって絵や陶芸に携わる人すべての作品が並ぶ…。こんな感じになるに違いない。
 しかし、人口180万人の大都市・札幌では、そういうわけにいかない。美術ひとつとっても、市内でそれに取り組んでいる人すべてを対象に作品を集めたら、収容できる会場はないだろうし、見るほうもくたびれるだけだ。そこで、何度か試行錯誤が繰り返された後、1992年からは、主に評論家からなる選考委員会が150人ないし200人を毎年選んで1点ずつ出品するという形式になった。
 昨年までの筆者の率直な感想は、
「まあ、よくいろんな新人作家を拾っているなあ」
というものだった。たしかに、ベテランがかなりの部分を占めてはいたが、それでも、公募展にも所属せず、ひっそり個展を開いた人がちゃんと翌春のさっぽろ美術展に出品しているということが一度ならずあったのは、事実だ。もちろん「どうしてオレが選ばれないんだ」式の不満は一部にくすぶっていたようだが、これは致し方ない。どんな選び方をしたって、ぶつぶつ言うヤツはかならずいるんだから。

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 ご存知のかたもたくさんおいでだろうが、今年から、やりかたが大いに変わった。
 出品者が20人に絞られることになった。
 また、昨年まで、出品者の善意に頼る部分が多かったのだが、今回から出品料が作家に支払われることとなり、少なくても材料費ぐらいは負担しなくても済むようになったらしい。
 選ぶ側は6人。初めて、作家がゼロになった。
 このうち、道内唯一の書道評論家・佐藤庫之助が、書家5人を選考。残る15人を、吉田豪介(美術評論家)、柴橋伴夫(同)、吉崎元章(芸術の森美術館学芸員)、柴田尚(アートジャーナリスト)、中村聖司(道立近代美術館学芸員)の5人が、作家を3人ずつ推薦することになった。
 作家の顔ぶれを見ると、選ぶ側がどういう作品が好きなのかが、はっきり見える。
 規模も性格も違うかもしれないが、札幌美術展も、国際美術展とおなじように、キュレーター側が目立つようになってきたかということかもしれない。

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 個々の作品評に入る前に、全体的なことを述べておきたい。
 昨年までの「さっぽろ美術展」も、たとえば道展や書道道展などにくらべれば、相当ゆったりした展示だった。今年はさらに作家をおよそ8分の1に絞り込んだことで、会場にたいへんなゆとりが生じたのはいうまでもない。
 大きなスペースがあてがわれることを知って、今回でなくてはできないような大作に挑んだ作家も多かったのは喜ばしいことだ。
 その一方で、とくに絵画の作家は、新作をそろえるのではなく、回顧展的な構成になってしまった例が散見された。
 昨年までの「さっぽろ美術展」でも、多くの作家が新作を出品していた。札幌の画家のかなりの部分が、毎年、道内の公募展と上野の公募展用に2つ以上作品を制作していたのだから、けっこうな負担だっただろうが、それでも新作を出していたのだから頭が下がる。このことを思い出すと、後退という気がしなくもない。むろん、壁面すべてを新作で埋めるのは無理だとはいえ、もう少し新しい展開を見せてほしかった。 

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 もうひとつは、選ばれる分野の問題だ。
 今回は、作家の名前の前に分野名をかぶせることをやめた。そのため、「洋画・端聡」「彫刻・上遠野敏」といった、珍妙な、実態に合わないジャンル分けは姿を消した。
 それはいいのだが、絵画6人、書5人、彫刻・立体・現代美術9人という顔ぶれに対し、昨年までたくさんの出品者があった版画や工芸がゼロというのは、どんなものだろう。書が5人で、工芸ゼロというのは、均衡を失してないか。たしかに、市内に窯を構えるのが難しいなどの理由で、陶芸家は札幌にそれほど多くないのは確かだが。
 今年はともかく、来年以降、その状態が固定化するようでは、やはりまずいのではないか。
 もうひとつ、「さっぽろ美術展」の時代から、不在のままになっている一つの分野が、ここで浮かび上がる。写真である。
 札幌市写真ライブラリーでは毎年、道内写真家の眼という選抜展を行っている。だが、写真だけを別会場、別形態で展覧するのがいいことなのか、この先もずっと企画選考を勇崎哲史ひとりに委ねていいのか、という問題はとうぜん出てきておかしくない。

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 補足すると、この展覧会は毎晩8時まで開かれている。これは、劃期的なことで、高く評価したい。
 ただし、実際は、夜間の会場は閑散としている。夜間の美術展というスタイルがまだ市民に浸透していないのだろう。
 また、期間中、すべての作家による、ワークショップ(体験講座)、アーティストトーク、座談会などが随時開かれるのも、美術と市民の距離を近づけようという、実行委の意欲的な試みとして評価できる。
 いずれも、昨年までは実施されていなかったことだ。

 作品評

 さて、作品評だけど、結論から言うと、伊藤ひろ子(1970-)と鈴木涼子(同)が抜群に面白く、新鮮だった。
 ふたりとも、平面、版画のフィールドから出てきて、現代美術のほうに軸足を移してきている若い作家で、かつてVOCA展に道内代表みたいな感じで出品しているという点でも共通している。
 しかし、筆者は、そのときは良さがどうもわからなかった。いまとなっては、自らの不覚を恥じねばなるまい。

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 伊藤は、一昨年あたりまではひょろひょろした線でドローイングを書いてたナー、という印象しかない。
 今回の作品は「かげおくり」と題したインスタレーション。
 入り口に近い床に、天然の芝生が島のように何カ所かに配され、白く塗られた小さな物干し竿がおいてある。
 竿竹からは、白い紙の切り抜きが糸でいくつもぶら下がっている。1本の糸に3つ、4つぶら下がっているところも多い。また、ごく細い糸が、切り抜きの間を横断して、つなげている。
 切り抜きは、人間のシルエットのような形が多い。これらは、作家が、知り合いのアルバムの写真をトレースして、画用紙に転写したもの。なるほど、言われてみれば、記念写真みたいなシルエットが多い。でも、よく見ると、馬と一緒だったり、長く伸びる影も同時に切り抜かれていたり、さまざまだ。筆者が好きなのは、高架橋を自転車で渡っている場面の切り抜きである。なぜか、なつかしい。
 作家は、日中はほとんど会場に詰めていて、訪れた人から写真を借りては転写している。会期中、切り抜きが日に日に増えていくのだ。作家と、訪れた人との間にかわされる、ささやかな会話とともに…。
 どの切り抜きも、元はといえばごく個人的な写真である。それが、白いシルエットになることで、個人的な色彩は薄れて、多くの人に共通する普遍性を帯びてくる。そして、作家の手で任意の場所に吊り下げられ、さらにほかの切り抜きと横糸でつなげられることで、まったく新しい物語が紡ぎ始められるのである。ひとりひとりの記憶でありながら、同時に、だれもの記憶に共通する基底層のような、そんな物語が。
 コミュニケーションを題材にしたアートの佳作だと思う。

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(以下改稿)

 鈴木は、血のついた豚の皮ひもで縛ったセルフポートレートなどを昨年の個展などで発表して、注目を集めた。昨秋、東京都写真美術館で開かれた「手探りのキッス 日本の現代写真」展にも出品した。
 ただし、筆者には、自己という存在を追及する表現にしては方法論がナイーブすぎる上に、他者へと関係していく契機を欠いているように感じられて、あまり評価していなかった。
 しかし、今回の「汗」という連作5点(高さ1・8〜2・4メートル、幅1・2メートル)は、注目に値する。
 これは「アニコラ」という、コラージュ、合成写真の一種である。首から上の写真と、下の写真は、別人である。コンピュータによる図像処理の発達で、好きなアイドルの顔写真に別の女性のヌードを合成するなどということが簡単にできるようになった。「汗」も、顔は作家の自画像で、一瞬セルフヌードかとビックリする人もいそうだが、首から下は、美少女アニメに登場するフィギュアの写真なのだ。
 リーフレットの解説文で、中村聖司が次のように指摘している。

美少女フィギュアとは男性のセクシャルな欲望が色濃く投影されたイメージにほかならないが、鈴木が見据えようとするのは、この欲望が往々にして女性を思うままにしたいという男性の権力意志に直結している事実がひとつ。もうひとつは、欲望さえもあまりに市場によって方向付けられていることである。

 視線が、権力を内包しているのは、言うまでもない。男性が女性に視線を向けるという図式は、「美術」の歴史でも一貫していたし(裸婦像と彫刻の氾濫!)、日本のアニメやコンピュータゲームのようなサブカルチャーでも変わらない。女性は、つねに男性の視線にさらされ、権力を振るわれてきた側なのである。
 しかも「アニコラ」が表象するのは、個性ある人格としての女性ではない。肉体さえ(あるいは「萌え要素」さえ)あれば、だれとでも変換可能な、いわば記号としての女性である。そこにおいては、記号の流通のみがなされ、生身の女性はすでに死んでいると言っても過言ではないだろう。
 昨今の美術界での“美少女フィギュア的なるもの”の受容は、村上隆展(東京都現代美術館)をめぐる言説に明らかなように、現代美術の文脈だったはずでありながらなぜか議論は、デュシャンが嫌ったはずの“網膜的”なものに収斂していったきらいがある。“美少女フィギュア”のもつ社会的性格を捨象して、現代アートも何もないもんだと思う。
 同時出品された「untitled」は、「汗」のもつ意味を補完している。これは、美少女系ゲームソフトの広告などの巨大なコラージュである。公衆電話のピンクチラシの集積みたいなものを市民ギャラリーに持ち込んだというだけで偉いと思うが、集められた膨大な表象はすべて少女の絵(写真はない)であり、男性の欲望のありかがどういうところにあるかを饒舌に物語っている。まあ、ここで制服フェティシズムがどーの、エヴァンゲリオンのパロディーがどーの、という話はしませんが、よく集めたものです。
 ともあれ、ジェンダーの問題を鋭く提起したシミュレーショニスティックな作品になっており、高く評価したいと思う。
 今回の作品を、「手探りのキッス」に出しておれば良かったのだ!
 さらにもう1点、蛇足めいた指摘をすれば、美少女フィギュアというのはファインアートに匹敵する美しさを持っていると思ったけれど(もちろん、社会的な性質を捨象して美的側面だけに注目しての話)、この理想化のしかたは、近代の彫刻や絵画に共通するものがあると思った。アングルの「泉」は陰毛をはやしていないし、あちこちにある裸婦彫刻は乳輪をもっていない。近代の彫刻や絵画に表現された裸婦は、しわなどの夾雑物を排して滑らかにデフォルメされているのだ。そのデフォルメのやりかたが、フィギュアにそっくりであり、そのことは、近代美術の裸婦がどういう発想の元に成立したかを暗黙のうちに物語っているとはいえないだろうか(こんなことを書くと、まじめな彫刻家のみなさんは怒るでしょうけど)。

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 つぎに、昨年暮れの現代美術グループ展「HIGH TIDE」で、キレの良い作品を出品していた札幌の2人について述べよう。
 この種の展覧会は常連の端聡(1960-)は、近年ますます平面から離れ、立体のみの、コンセプチュアルな色彩の強い作品を発表するようになった。
 今回のインスタレーション「水は常に流れたがっている」は、カーブした鉄骨を組み合わせた上に、32台の液晶モニターを一列に並べたもの。それぞれのモニターには、人が歩くようすを真横からとらえたスローモーションの映像がランダムに流れる。
 人間は、それぞれ別の歩き方を、別の時間に行うという事実が、提出されている。それを、ばらばらで悲しいことだとみるか、あるいは、個性の発露であって良いことだとみるかは、鑑賞者に委ねられている。
 そして、時折(1分おきくらい)、すべての画面が暗転して日本語ないし英語のテロップが一瞬映る。
 「なるほど、すべては創造だ」
 「ネズミが見つめるだけで、世界が瞬時に変化してしまうなんて信じられない」
 「人間は常に変化したがっている」
 「我々が夜空の月を眺めていないとき、月は存在するか?」
 これらのテキストは、思わせぶりというより、作者の心の底からの疑問であり、発語なのだろうと思う。
 なお、最後の問いは、筆者の答えはイエスである。なぜなら、主語が「我々」だからだ。もし主語が「私」であれば、不可知論を論破することは困難だが、「我々」と口にした時点で、複数の主体が言語を通じて実体の存在を共通に認識していることになるのだ。

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 HIGH TIDEでは、揺れて動く飛行機のミニチュアを小型ビデオカメラで撮影し、リアルタイムで壁に投影した、ごくシンプルかつ作品を出品した伊藤隆介(1963−)。鑑賞者にリアルさとは何かを考えさせるとともに、リアルなものが実は不安定であることを鮮烈に印象付けた。
 今回の「Realistic Virtuality」も、基本的な構造は同じである。
 こんどのミニチュアは、某ファストフードの室内。小型カメラが規則的に上下すると、スクリーンの映像も、店内の床近くから見た像から高い位置の映像までを反覆する。じっと見ていると船酔いする、という人もいた。
 それにしても、見事なミニチュアだ。いすなんて、数センチしかないのに、映像だけ見ていると、本物の店内のようだ。「オタク−フィギュア」というとすぐ戦闘美少女系を連想してしまうが、怪獣によって踏み倒される街や学校も「オタク−フィギュア」つながりの産物であったことをあらためて認識させてくれる。
 ただ、難を言えば、これまでの自動車や飛行機と違って、ファストフードの店は動きを見せる必然性のあまりない題材である。

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 坂東史樹(1963-)は寡作である。これだけの作品を見ることができたのは、久しぶりだ。
 今回は、蜜蝋のような液体に閉じ込めた衣服などのミニチュアのシリーズ。リカちゃん人形が着そうなサイズの、衣服だけが、抜け殻のように、黄土色の液体に浮かんで、それが金属の箱に閉じ込められている。
 それらが、暗い空間の壁に、点々と掛けられている光景は、ひそやかな夢の博物館のようでもある。あるいは、すでに人間の去った死の世界のようでもある。
 言い方を変えれば、これまでよりコンセプチュアルではなく、むしろシュルレアリスム的な作品であるといえるかもしれない。

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 杉山留美子の作品とアーティストトーク会場の制約を逃れて、巨大なスケールの作品を出したのが、杉山留美子(1942-)と谷口明志(1961-)である。
 杉山の「From All Thoughts Everywhere」は、幅10メートルにもなる大作である。そして、ため息が出るほど美しい。
 青や緑の水溶性アクリル絵の具を、何度も塗り重ねてキャンバスに染み込ませ、その作業の繰り返しの果てに、深い深い色彩だけの世界が現出する。
 オールオーバーの画面を、ゆっくりと視線を這わせていくときの快感は、なにものにも代えがたいものがあった。こんなことを書くと、ほめすぎだといわれるかもしれないが、その快感と感動は、かつて川村記念美術館でバーネット・ニューマンを見たときのそれよりも大きかったと言ってよい。
 先日行われたアーティストトークによると、杉山は、当初は赤でオールオーバーな画面をつくっていた。京都の伏見稲荷を訪れた際、緑の山の中に続く赤い鳥居に、補色ということもあって、強烈な印象を受けたという。赤は、生命に直結する色であり、内なる宇宙を表しているというのだ。
 ただし、赤い絵ばかりかき続けていると、神経が冴え冴えとしてきて、対極のものをからだが欲してくるようになった。それで、身体を包み込む外宇宙を表す色として、青に取り組むようになった。
 彼女は、タルコフスキーの映画「惑星ソラリス」が大好きで、この絵も最初は「惑星ソラリスの海」という題を付けようかと思ったほどだという。人の意識を物質化するソラリスの海。この絵の深い青も、人の意識を、形ではなく、色彩に抽出したものかもしれない、と筆者は思った。
 たしか、1998年のギャラリーたぴおでの個展で、従来の赤い絵と、青い絵が、両方並んでいたから、このときが転換点になったのだと思う。

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 一方、谷口は以前から道展でシェイプトキャンバスの絵画を発表して異彩を放っていたが、個展の回数は意外と少なく、今回の高さ6メートルにもおよぶ「思考断片」の2作を見てはじめて
「ははあ、こういうことがやりたかったのか」
という感想を持った。
 2作のうち1作は、ねじったチューブを思わせる形が、激しい動感とともに天へと伸びている。
 もう1作は、やはりチューブのようなフォルムが、L字型になっている。
 ギャラリートークを聞くと、谷口は、フランク・ステラにインスパイアされ、従来の絵画にはない空間を生み出そうと実験を続けているという。また、「絵画はイリュージョンである」と割り切り、図の形を制約しないように矩形のキャンバスからはみ出た絵画をつくっているという。
 ここまで深く絵画を原理的に追求している画家は道内には少ないから、その点だけでも谷口の試行は評価に値するだろう。
 もっとも、個人的な感懐を言わせてもらえば、初期のストライプのころはともかく、それ以降のステラは、すでに抽象表現主義の歴史的役割が終わったにもかかわらず「絵画」という制度を延命させようとしていただけにしか思えない。平面と矩形の限界を感じたからといって半立体に走るというのは、あまりにも「分かりやすすぎ」ではないか。案の定、90年代以降のステラは、ほんとに立体をつくるようになってしまった。
 さらに付け加えるならば、サイトスペシフィックな要素を捨象した上で、巨大な絵画の空間性を考慮することに何か意味があるのだろうかという疑義を禁じえない。今回の出品作は、見ていて勢いを感じる作品であるが、にもかかわらず作者の思考は、ホワイトキューブに展示されることを所与としているようだった。そんな制約に、意味があるのか。絵画だからか。そんなの、どーだっていいじゃん。 

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 そろそろ読むほうも疲れてきたと思うので、以下は簡略に書く。
 この文体は、まじめに見えるという利点はあるが、正直言って、書いていてあまりおもしろくない。
 丸山隆(1954-)は、空間の表と裏を問う作品。充分大きいが、周囲の作品がもっと大きいため損をしている。
 佐々木秀明(1958-)のインスタレーション「雫を聴く」は、これまでと同種の作品だが、氷を入れる漏斗を天井に取り付けることで、より空間をスッキリとさせた。
 書の5人は、正直なところこの選考が妥当なものかどうか、筆者には述べる能力がない。ただ、大家をあえてはずし、個性ある書家を選んだというのは確かなようだ。
 三上三骨(1941-)は、高さ7.2メートルの「宇宙」が圧巻。太田俊勝(1938-)は、正攻法の墨象。千葉和子(1951-)は、かな書家にしては珍しい骨太の筆法。三橋啓舟(1946−)は、太くごつごつした書と、細い線がどこまでも続く書の2種で、漢字作家としてはユニークだと思う。年齢的にはベテランの高橋陌遥(1928-)は、原民喜の詩などを力強く書く。近代詩文としては、かなり読みづらく、臨界に近づいているという印象を受けた。 

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 岡部昌生(1942-)がこれまで為してきた仕事の重要性については、ここであらためて述べるまでもないが、今回の展示に限って言えば、昨年の「ART for the SPRIT」展(道立近代美術館)がひとつの節目となった直後だけに、「小休止」といった感があった。
 というか、今回は、フロッタージュの航空書簡群を、レントゲン写真をイメージさせる白黒反転の写真に撮影して、パネルの形にして並べた作品なのだが、この操作によって、元のフロッタージュ作品の「アウラ」が喪失してしまったのではないかと思うのだ。岡部の手によって地面や壁に当てられこすりだされた紙には、直接地面なり壁と対話した実物のなまめかしさのようなものが漂っていたが、箱のような写真にしてしまったことで、そういう息遣いがすっぽり消えうせてしまっているのである。
 昨年の展覧会をステップに、新たな地平に進みだしてくれることを、口幅ったい言い方ながら、祈願してやまない。
 宮崎むつ(1946-)の絵画は、初めて見た。抽象である。線や色斑のおびただしい重なりが生む深い画面が印象的だった。

昨年の「さっぽろ美術展」の紹介 

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