2001さっぽろ美術展


3月7日から18日(日) 札幌市民ギャラリー(中央区南2東6)

 入り口でまず、楢原武正のインスタレーション「大地ノ開墾2001−3」が目に飛び込んでくる。先月、ギャラリー大通美術館で発表したものの縮小バージョンとみなしてよさそうな、樹木のような形をしている。根元を覗いてみると、金属を巻いた木片が多く転がっており、針金をぐるぐる巻いた廃物は、以前に比べて少なく、いくらかすっきりしたような印象を受けた。縮小版とはいえ、巨大な力作であることは疑いない。
 楢原は「彫刻」でエントリーされている。このジャンル分けにうまく当てはまらない作家が徐々に増えてきているのは確かだ。今回、彫刻では、この展覧会でおそらく初めて、具象の人物像が、小野寺紀子「Professeor-U」(小谷博貞の首)だけになってしまったことも特徴的で、「洋画」分野における旧来の具象表現の退潮とともに、静かなうねりが札幌の美術にも押し寄せているということが、あるいは言うことができるのかもしれない。性急な一般化は危険であるとしても。


 「彫刻」で具象作品が激減したのは、昨年の伊藤寿朗、伊藤幸子、大窪恭子らがいないという選考の事情もさることながら、本来ならば裸婦像を出品しそうな鴻上宏子と秋山知子が作風を変えたということが大きい(選ぶ側が狙ったわけではないということだ)。
 鴻上の「雨の器」は、芸術の森美術館で開催中の「北の創造者たち―『美術スル』見方」に出品したインスタレーション的作品の延長線上にあるとみてよいから、さして意外な感じは抱かなかったが、一貫して人物を作ってきた秋山が「しずかにわたす」と題した抽象彫刻を、会場の一番奥にひっそりと置いていたのを見たときは、いささか驚きを禁じえなかった。細長い円錐に似た形を三つつなげて尖頭部を下にし、てっぺんに燃えこげた跡のある蝋を流し込んだこの作品は、隣接して設置されていた佐々木秀明のインスタレーション「雫を聴く」とともに、心の緊張をほどかせる優しい空気を周囲に漂わせていたように思われた。


 話の流れで「彫刻」の他の作品にも言及しておこう。國松明日香「北北東の風」、松隈康夫「解放された形♯1」、丸山隆「不可視コード」が、いずれも、札幌市内のコンチネンタルギャラリーで開催中の企画展に出品されているものと同様の作品。旧来の彫刻概念を支えてきた「量感」を見直している点が、3点に共通しているように思う。國松は、向こう側が透き通って見える構造によって、量感と軽さの双方を共存させようとしているようだ。松隈は上部の三角形に着色を施して、遊びの精神や能動的なエネルギーのようなものを表し、下半分の重い部分と対称になっている。丸山は、ある「形」(たとえばガスボンベ)から切り取った「形」が、まったく別の「形」に変容する不思議さに魅せられているようだ。
 ほかには、鈴木武子「存在証明」が、派手な色彩と形態で、展示室に彩りとエネルギーを与えていた。
 いずれにせよ、彫刻というジャンルの自明性があちこちで疑われ始めていることは、確かなのではないだろうか。絵画よりも、速い速度で。


 「洋画」では、第1室の伊藤鞠子の抽象画大作「Exodus(エクソダス)=罪のうちから魂が出て、浄らかになる」が、深遠な精神性をうかがわせ、圧巻だった。個人的には、今回のベスト。
 昨年夏、札幌の大丸藤井スカイホールで開いた個展では比較的サイズの小さな水彩がほとんどだったが、今回は、小さなキャンバスを27枚つなげ、幅167・5センチ、高さ424・0センチの大作に仕立てている。上の18枚は、黒く塗られ、わずかな明度の差によって模様が付けられている。下の9枚は、マーク・ロスコを思わせるタッチで、シンプルなフォルムが浮かび上がっている。なぜ抽象的な絵が精神的な深みを見るものに感じさせるのか、その心的機制は筆者にも分からないのだが、心を打つ何かを有しているということは言える。
 左隣には端聡の「私達にはなにも必要ない」が並んでいる。男の子の顔が大写しになったモノクロ写真2枚を縦に、ややずらして配し、抽象的な線による文様が顔の右下に重なるように描かれているだけの、インスタレーションと呼ぶにはあまりにシンプルな平面作品である。男の子は同じ人物で、上は目をひらき、下はつむっている。端の作品は、なんらかのメッセージが込められているのだろうが、それが何であるのか明確には分からない。だが、子供の顔を用いていることから、希望とか、少年犯罪とか、いろいろ考えさせることは確かである。答えを見る者に与えるのではなく、問いを投げかけるものが現代美術であるとするならば、この作品はまさに現代美術であるといえると思うが、どうだろうか。ちなみにこの作品と同じネガが、「北の創造者たち」でも使われている。この展覧会と重複する出品者は3人だが、3人とも何らかの関係のある作品ということになった。


 根が新聞記者なので、どうしても作風が変わった人に目が向いてしまう。ご容喙されたし。
 江川博が変化を見せた。「2859」は、抽象画であるが、従前の2色(おおむね赤と黒)によるエッジの効いた単純な構成を脱し、やや色面の輪郭のあいまいな、4色による構成となった。これまでの連作は、出発点が異なるとはいえ、結果において山口長男の1950年代の作風に似ていたことは正直なところ否めず、それを脱して新しい方向を模索していることは評価したい。
 小谷博貞「雪の碑」も、先日の「予言」通り、近年のやや饒舌でにぎやかな作風を転換させた。茶と黒が主体だった「立棺」などの作品と、白が中心の作品系列との、統合を図っているようにみえる。
 驚かされたのは、明澄な色彩で風景などを描いてきた竹内豊が「沖縄・2000年の夏」という、半ば抽象に近い作品を出していたこと。明るい地の色は変わらないものの、何を描いているかはっきり分かるのは中央の海岸くらいなもので、残りは灰色や、赤と白のストライプ(これは米国旗を思わせる)による構成となっている。これも、単純なメッセージを明示するのではなく、何かを考えさせるという点において端の作品と共通するように思われた。
 茶谷雄司「いつか」は、二人の子供というモチーフ、金箔の使用という点で、一見変わっていないように見えるが、筆致はかなり素早くなっており、単に写実の凄腕を見せる絵から脱しつつあることをうかがわせている。


 これまでの作風をさらに突き詰めている作家にも触れておこう。
 大地康雄「人間模様(饗宴)」は、日本絵画の伝統である装飾性、平面性と、洋画の構成を、止揚しようとして苦闘している。菊地又男「標的」は80代と思えぬ若々しい色彩。同年代の八木保次も、まったく老いを感じさせない。木嶋良治は、写実的な時期と抽象に近い時期を交互に繰り返しており、今回の「北の海」は後者の時期にあたる。画面をぎりぎりまで整理したうえで残る叙情。堤防の左と右で、雪を塗る筆遣いが違うのも面白い。佐藤武は相変わらずうまく、杉山留美子は相変わらず美しい。色彩だけで絵画を成立させながら、なお支持体の存在感があるという不思議さ。富田知子は力強い。人間像はますます抽象的な形に近くなっている。山本勇一の風景もしかり。山川真一は、フォルムが解けてしまい、色彩だけが乱舞するような画面になっている。
 若手は、丹野美香、新見亜矢子、河野満美子。河野のうまさには舌をまくが、その特殊な技法(下地にピンクや青など彩度の高い色を塗っておき、上からブラシのようなストロークで絵の具を塗って写実的に人物や風景を描く技法)が、このままいくとあるいは自己目的化してしまわないかという危惧を抱いてしまうのは筆者だけだろうか。


 先だって、絵画でもジャンルの自明性が疑われているうんぬんということを書いた。あるいは、筆者の考えが誤っているのかもしれないが、今回の展覧でも、旧来の洋画の描き方を失いつつある作家が増えているような気がした。つまり、本来の洋画(後期印象派以前)では、描かれるはずのない線が、そこかしこに見られるのである。そのこと自体に当否をいうつもりはないが。
 筆者の目にとまった線は2種類であり、ひとつは、たとえば川畑和江「眺め」やデュボア康子「巡るめく刻」、村本千洲子「鎮魂」といった作品にみられる輪郭線である。あらためてここで書くまでもないことだが、本来の洋画は、面で空間をつかむものであり、輪郭は画面に登場しないはずである(そして、ここで名を挙げたような方は大丈夫であったとしても、初心者は輪郭で空間を把握してその内部を同一の色で塗るという幣に陥りがちである)。なお付け加えれば、川畑和江は、筆者にはウルトラマリンのイメージが強く、今回のように何種類もの緑が画面を覆う作品は意外であった。
 いまひとつは、谷口明志の変形キャンバス作品「Safety device」や木村富秋「鳥唄」にみられる、純粋に造形要素としての線である。双方とも、各所に走る黒い線が、画面を引き締めるのに大きな効果を上げている。
 繰り返すが、線がナマの形で洋画の画面上に現れること自体に異を唱えているわけでは決してない。ただ、このような絵が増えてくると、たとえば、あえてアカデミズム調の描法を墨守する鵜沼人士「NAO」などの端正さがかえって新鮮に見えてこないこともない。日本の洋画史は、アカデミズム支配の長かったヨーロッパと異なり、後期印象派以降の流派の洗礼を受けた期間の方が長いのであるが、絵画人口全体に占める割合でみても、アカデミズム−外交派−一水会ふうの絵を描く人は徐々に減っているように見受けられる。


 駄弁が長くなったので先を急ごう。
 日本画。浅野天鐘「秋意」は、斜め上から差す赤い光が、この絵をただの花鳥画と異なるものにしている。
 笹山峻弘「インド紀行−ラマユル残光−」は、曼荼羅を描いた細密な部分、筆の跡が息づく城址の風景の部分、背景の平坦な部分と、絵の中にさまざまなタッチのところがあり、力作である。
 これまで中国の、少数民族の人々を題材にしてきた陳曦が「聖」で、ヒマラヤとおぼしき山岳風景に取り組んだのが目を引いた。
 中野邦昭「札幌の夜景夏」は三角山から見た風景。平向功一「迷走都市」はチンパンジーやカメレオンが躍る寓意画。いずれも力作だが、昨秋の「北の日本画展」などに、すでに出品された作品である。


 版画。ここは激戦区である。特に今回は、尾崎志郎をのぞくベテランが勢ぞろいし、選ばれていいはずの顔ぶれがかなり落ちた。
 とはいえ、神田真俊を選出した審査員の目配りを評価したい。「リボルバー」(シルクスクリーン)は、2月の札幌時計台ギャラリーにおける「道都大有志展」に出品された作品だが、コラージュ感覚の充溢した若々しい作品だ。似た傾向の作家に佐々木徹がいるが、今回はいつものコラージュを、木の形に壁に並べた。
 これまで人物を単純化した形に取り組んでいた西村一夫が「内なる風景2001 bP」と題して、彩度の異なる黄色を配した抽象画を出しているのが目を引く。輪郭のあいまいな、四角形の色の塊はどこかロスコを思わせるが、受ける印象は明るい。
 更科eは、これまで鳥のシリーズなどで人間への風刺をきかせたユニークな作品を作ってきたが、昨年あたりからの「バーニング・マーク」は、一原有徳の後追いにすぎないのではないか。道展の指導的な立場にある作家がこれでいいのだろうかと思うので、あえて書いた。


 工芸で問題になるのは、とくに陶芸家などが市内に窯を設けることが難しいために、郊外に居を移すことが多いことだ。したがって、道展などに比べるとやや見劣りするのは否めない。それでも、香西信行「自然灰窯変大壷」など、景色を楽しめる作品があった。中村照子もさすが。


 書は、例年見ごたえがある。かな書でありながら近代詩文にも似た字の配置の感覚で見せる千葉和子、あえて字の上下を断ち切りにした安藤小芳、線のやわらかみがうれしい小黒秋峯、むしろ墨象に近いかたまりの感覚に満ちた島田青丘、近代詩文らしいダイナミズムに満ちた中野北溟、空白を生かして字義(「無為」)の感じを出した藤根凱風、篆書の力動感を出した村上碧舟ら、枚挙にいとまがない。
 辻井京雲の「だれだ花園を荒す者は」は、ことばとしては確かにカッコイイものの、出典は中村武羅夫が戦前、プロレタリア文学の台頭への反発を込めて評論のタイトルにしたものであって、個人的には好きになれなかった。作品そのものは、非常にまとまった近代詩文書であるが。
 





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