展覧会の紹介
「水脈の肖像2002-日本と韓国、二つの今日」展 | 2002年6月12日〜23日 道立近代美術館(中央区北1西17) 6月25日〜7月21日 Art Warm(石狩市花畔1の1) 6月14日〜29日 北海道東海大学美術工学館ギャラリー(旭川市神居町忠和224) 7月2日〜14日 冨貴堂ギャラリー(旭川市3の8) |
(敬称略)
15日にシンポジウムがあるというので会場の道立近代美術館へ行ったら、もう図録ができている。
昨年12月に開かれた、やはり貸し館の現代美術グループ展HIGH TIDEのカタログは、半年たってもまだできていないのに、なんということだ。
しかも「水脈…」のほうは、一部をのぞいて、出品作品の写真がちゃんと入っているのだからたいしたものだ。
さて「水脈の肖像」展というのは、柿崎煕(石狩市)、荒井善則(旭川市)らが1998年に第1回をひらいた現代美術のグループ展である。そのとき、今回も招かれている朴光烈(パク・カンヤル)、尹東天(ユン・ドンチュン)のふたりの韓国人が出品しており、当初から北海道だけにとどまらない国際的な展覧会を志向していたようだ。
その後、2000年に第2回(筆者は見ていない)を開催し、今回が第3回。ちょうど日韓共催のサッカー・ワールドカップ(W杯)の時期にあわせるように、日韓の作家が“共演”するというのだから、北海道ではめったにない、興味ぶかい試みだ。
道内からは、これまでも出品していた荒井、大滝憲二(札幌)、柿崎、佐々木徹(札幌)、下岡孝之(同)、藤井忠行(旭川)、藤木正則(稚内)に加え、川上りえ(石狩)、佐々木けいし(同)、端聡(札幌)、藤本和彦(同)の計11人。
前者が1943年から52年生まれなのに対し、後者の4人は全員が60年代前半生まれ。ちなみに、佐々木、藤木、端は、HIGH
TIDEのメンバーでもある。
一方、韓国からは、朴、鄭園K、尹、金益模、黄宇哲、安貞敏、崔美娥、李惠暎、張辰卿、金榮勲の10人が出品し、大半が来札した。
こういう比較はたぶん無意味だと思うんだけど、総じて韓国勢のほうが見ていて新鮮にかんじられる。
これは、べつに北海道勢が、作品の水準がひくいということではなくて、これまでの作風の延長線上にある作品が多いというだけのはなしだと思う。
韓国の作家は、大半が初めて見る作家なので、印象も鮮烈なのだろう。
ただ、韓国の作家のほうが、社会やコミュニケーションへの関心がにじみ出ているということは、いえるとおもう。
尹東天(1957−)の映像作品「記憶(80年代式)」は、その最たるものではないか。
重苦しい曇天の映像。かぶさるように響く軍靴の音。
つづいて
「私は
信じる
ひどい現実を」
という字幕が出て、さまざまな映画から引用した戦争のシーンがこれでもかこれでもかというくらいにつづく。
映画館で戦争映画を見るときには、見る側も心の準備ができているから、それほど驚かないのだが、美術館で殺し合いの映像を延々と見せられると、やはりちょっとおどろく。そして、ハリウッドなどは、異様で非日常的な映像を大量に作っているのだなあ、という妙な感慨がわく。おそらく、映画館でのわたしたちのほうが、感覚的に麻痺してしまっているんだろう。
もっとも、残酷な殺し合いという現実の文脈を無視すれば、戦争のシーンはうつくしい。とはいえ、そういう、現実をいったんかっこにくくるというモダニスムの考え方そのものが、筆者には
「なんだかなー」
と否定的にかんじられてくる。
さて、80年代の戦争とは、もちろん光州事件のことである。
「味方が味方を殺す残虐な戦争」(尹さん)。
会場で「どうして『信じる』なのか」という発言があったけど、これは「見た」でも「知っている」でもなくて「信じる」ということばがふさわしい。
光州での蜂起と軍による弾圧は、80年代の全政権下では「暴徒の反乱」であり、事件の存在自体、国民にはあまり知らされていなかった。
その後、金ヨルサン政権で民主化が進展して、ようやく事件が明るみに出てきた。現在では、金大中大統領が全羅道の出身ということもあって、事件の評価は180°逆転。偉大な民衆の壮挙ということになってきている。しかし、事件から20年たったいまも、正確な死者数も判明していないのが現状なのだ。
このことひとつとっても、歴史(とくにちかい時代の)を客観的に調べ、語り、見ることのむつかしさがわかる。だからこそ、「信じる」としか言えなかったのではないだろうか。
銃ではなく、ことばや笑顔や握手でコミュニケーションしたいものだ。
李惠暎(1963−)の「Nice To Meet You」には、そういう思いがこめられているように見える。
人のシャツやブラウスの腕の部分をかたどりして、壁からにょきっと生えさせている。
袖のところから値札みたいなのが下がっていて
「nice to meet you」
と書いてある。
この札のおかげで、ぶきみなかんじがなくなる。日韓の出会いを象徴しているようだ。
鄭園K(1960−)のリノカット版画も興味ふかい。
精緻な、写実的な画風の肖像画だが、画面下に書かれている名前と国名が、見る人をはっとさせる。
この4人は、韓国に不法入国して働いている人で、出身国の名が記されているのだ。
なににも属するもののない独立した人間の堂々とした表情と、にもかかわらずついて回るナショナリティーと。グローバリズムの時代について、考えさせられる作品である。
日本側では、藤木正則(1952−)がおもしろい。
コミュニケーションや行為をテーマとしたパフォーマンスやインスタレーションをつづけてきた作家だが、いまは稚内在住。
HIGH TIDEのときは、宗谷海峡がロシアでは「ペルーズ海峡」とよばれていることから、国境線を相対化させるとともに顕在化させるような映像とインスタレーションを発表していた。
「日韓共催」と聞いて、ひらめいた時の藤木さんの表情が目に浮かぶようだけど、稚内の海岸に打ち上げられる、ハングルの記されたペットボトルなどを、展示しているのだ。それと、宗谷海峡の映像をセットにしている。
彼の作品は、コミュニケーションの際に生じそうな障碍とか疎隔感とかを軽々と相対化してしまうようなあざやかさがあって、そこがすきだ。
中堅の彫刻家として、2000−01年の「北の創造者たち」展など、活発な発表活動を続けている川上りえ(1960−)だが、今回は、HIGH
TIDEの伊藤隆介の向こうをはった?ような、映像がらみの作品を発表した。
人がブースに入るとあかりがついて、中央に置かれた卓上の箱から幻燈のように光が奥のスクリーンへと伸び、そこに針金で作った人と犬の彫刻各1点が映し出される。
箱には孔があいていて、中にある針金彫刻がのぞけるのだが、なんと、よく見ると、奥にうつっている作品と異なるものなのだ。
映像という発表形態がすでに「モノ」ではなく、作品の実体とは何かを考えさせられるのだが、これはいっそうややこしい形式で、作品とはなにかを問う「メタ作品」になっているようだ。
荒井善則(1949−)のインスタレーションは、じつは、筆者にとっていつも難解である。
それでも、今回の作品からは、軽さと重みの同居、ノスタルジアなどを感じ取ることができた。
表現しているものがあからさまでないほうが、あるいはたのしく鑑賞できるのかもしれない。
なお、会期中、シンポジウムが行われ、李さんがさいきんの韓国の美術事情について話した。
箇条書きにして特徴をまとめてみると
ということで、じつはあまり日本とちがわないような気がした。
また、写真表現が広まった背景には、IMF管理下の大不況で、美術品が売れなくなり、困窮した作家たちが写真撮影・販売に取り組み始めた、ということもあるという。
スライドをたくさん見せていただいたが、いわゆるホワイトキューブではない会場が多かったのが印象にのこった。ソウルの地下鉄に発光ダイオードみたいな素材をいっぱい取り付けた試みは、なかでも目を引いた。
関係者を除くと3、40人くらいしか出席がなかったのはざんねん。
追記:端聡の作品についてはこちらをおよみください。