この度、11月の築地本願寺の報恩講にて「御示談」を担当したのですが、お寄せいただいたご質問に多く関係する術語の解説をここに記しておきたいと考えました。
改悔批判の一スナップ(2020/01)
浄 土
浄土という語一般の意味では、仏がたの世界ということで、穢土(えど)=汚れた世界の対語ですが、単に清浄な世界・仏土という意味ではなくして、阿弥陀仏の建立された世界、すなわち極楽世界を指す言葉として用いられています。極楽のほか、安楽世界とか安養(あんにょう)などともいわれています。
その浄土のありようは、天親菩薩の『浄土論』によれば、国土の荘厳(17)・仏の荘厳(8)・菩薩の荘厳(4)の三種の、計29の特徴をもって解説されています。いわゆる「三厳二十九種(さんごんにじゅうくしゅ)」と総称されるものです。
これらは、いずれも浄土あるいは阿弥陀如来の完全なるあり方を説くものですから、宗祖親鸞聖人は、阿弥陀仏の完全なるさとりの世界と受け取られました。真実なる、阿弥陀仏のご本願に報いて荘厳せられた世界、すなわち真実報土と考え、「無為涅槃界(むいねはんがい)」と称し、また「無量光明土」とよんでいます。阿弥陀如来の第十八願のはたらきによって、私たちが生まれさせていただくべき世界であり、お名号の衆生救済のはたらき(往還二回向)があらわれ出てくる淵源と申せましょう。
阿弥陀如来
浄土の教主たる存在が阿弥陀仏であります。空間的にも時間的にも限りなく(無量に)救済し続ける仏さまですので、時間的に無限なるありさまを「無量寿如来」と称し、空間的に無限なることを「無量光如来」と称していますが、みな、同じ仏のお名前です。もちろん、不可思議光仏と呼んでも同じ意味です。『無量寿経』の上巻には、無量寿仏の威神光明は、最尊第一なり。諸仏の光明、及ぶことあたはざるところなり。(註p.29)とあり、また下巻には、無量寿仏の威神極まりなし。十方世界の無量無辺不可思議の諸仏如来、かれを称歎したまはざることなし。(註p.43)とありますように、諸仏の中心にましまして、ただひとり諸仏から称讃・讃嘆される仏とされています。
浄土真宗の教章の本尊の項には、「阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)」と示されています。このところの、「南無阿弥陀仏」というお名号こそが本尊である、という意味を考えてみましょう。このお名号は「本願招喚の勅命」と宗祖聖人が示されているものです。平たく申すならば、「われを信じわが名を称えよ。必ずたすける」という如来の呼び声ですから、つねに私たちに向かって呼びかけていらっしゃる仏さま、という意味を示しているのでしょう。単に、お浄土に鎮座しまします仏ではなくして、現に救済活動に従事し今のこの瞬間にもはたらきつつある仏陀、それが阿弥陀如来に他ならないのです。『蓮如上人御一代記聞書』には、当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号といふなり。(註p.1253)とありますが、ここの名号というのも、ただ形が大切だというのではなくして、救いのはたらきを強調してのものでありましょう。
私たちは、木像を拝しても絵像をみても、われこそは弥陀の救いのはたらきのまっただ中にある、と感じつつ念仏することが肝要なのでありましょう。木像・絵像などは念仏を申すための方便なのです。
信 心
親鸞聖人の教えでは、これは他力・本願力によって賜るものです。阿弥陀如来の真実心そのものを、本願招喚の勅命とされる「お名号」のはたらきを通じていただき、自身が罪悪深重(ざいあくじんじゅう)の凡夫(ぼんぶ)で、自力無功(じりきむこう)の存在であることを知り、阿弥陀仏の救いにまかせる心が得られたとき、私たちは「正定聚・不退転」という位に就いているというのです。これを「現生正定聚」といいならわしていますが、臨終一年の夕べには、必ず浄土往生が恵まれ、即座に弥陀同体のさとりが与えられる地位の獲得です。こういうはたらきそのものを「信心」と称しています。
このように、自分の力で作り上げるものではありませんから、「他力回向の信心」というのですし、これ一つで往生・成仏がかなう正(まさ)しき因ですので、「信心正因」と申しております。「正信偈」に、正定之因唯信心(正定の因はただ信心なり)(註p.206)と示されているとおりです。
ただ、この信心は、『無量寿経』では第十八願に、至心・信楽・欲生(我国)(至心信楽してわが国に生ぜんと欲ひて‥‥)(註p.18)と、三種の心で示されていますから、それをめぐって宗祖は非常に奥深い議論をしています。いわゆる『教行信証』信巻の「三一問答」という有名な記述ですが、結局のところ、「信楽(しんぎょう)」の一心におさまり、これこそが天親菩薩の『浄土論』にいうところの「一心」そのものにほかならないのです。あるいは、信心を得た私たちは、必ず御恩報謝の称名念仏をするのですが、この信心と称名念仏とが同じものなのか否かという議論にもつながってゆくのです。
往 生
もちろんのことこれは浄土往生という意味です。すなわち、阿弥陀仏の真実世界、極楽とか安楽世界とかいわれ、また安養(あんにょう)などとも称せられる世界に「往き生まれること」を意味しています。
ここは阿弥陀仏の建立・荘厳された世界で、さとりの世界ですから、親鸞聖人は「極楽涅槃界」「無為涅槃界」と、涅槃(さとりの世界)と称していますし、空間的にも時間的にも無量の救済のはたらきを意味する智慧の光の国土ですから、また「無量光明土」とも名づけています。上の項の「信心」を得た念仏者が、この世の生を終えたなら、その信心の一人ばたらきでこの浄土に往生がかなうわけです。いうまでもなく、ご本願(第十八願)の救いの成就ですね。
この往生を、「往生即成仏」と語るのがわがご法義です。『無量寿経』の第十一願にたとひわれ仏を得たらんに、国中の人天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ。(註p.17)とありますように、正定聚にあるものは「滅度(さとり)」が保証されているからですし、宗祖聖人の表現には、若不生者のちかひゆゑ 信楽まことにときいたり 一念慶喜するひとは 往生かならずさだまりぬ(『浄土和讃』26 註p.561)というものもありますが、それよりも、「臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」といい(信巻 註p.264)、「正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る」(証巻 註p.307)というような、往生という語ではなく「涅槃」とか「滅度」とかのさとりを意味する用語で多く語られています。極楽往生が最終的なゴールではなく、成仏・正覚(さとり)こそが仏道の目的でありますが、往生して即座に成仏せしめられるという浄土真宗の「往生即成仏」の教義があってこそのお示しでありましょう。
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