■昭和館■

写真は終戦直後に見られたお馴染みの道具たち。左は家庭用製パン器、右は買い出しに用いられたリュック。中央が「米つき瓶」。玄米を精白する道具である。栄養を考えれば玄米を食べた方が良かったのにと思うのだが、そういう考えが浮かぶのは飽食の時代の我々だけだろう。同じ量ならうまい方がいいに決まっている。

戦争が終わると、人々はとりあえずは空襲で死ぬ不安からは解放された。しかし食糧事情は凶作でむしろ戦時より悪くなり、そこへ外地からの引揚者が憔悴して帰ってきた。人々に今度は「飢え」と「耐乏」との闘いが待っていたのである。

航空機に使っていたアルミは廃棄され、溶かされてこのようなものに再生された。また鉄かぶとは逆さにして鍋に転用された。薬莢の真鍮を利用して5円硬貨が造られたのは今でも広く知られている。

昭和22年頃になると、都市部の小学生に給食が行われた。コッペパン(写真左)そして悪名高い脱脂粉乳(右)。戦争中は雑炊ばかりでうんざり、戦争がおわっても今度は脱脂粉乳でまたうんざり。人間の舌もなかなかわがままさんですねぇ。

「ひろし、いつまで起きてんだよ、明日学校に遅刻するよ」。戦争で夫を亡くした「戦争未亡人」は全国で数十万ともいわれる。女性は残された子供達をまさに「女手一本」で育てあげた。いつの世も女性は強くたくましい。

戦争で打ちひしがれた人々を勇気づけたのは数々の娯楽やスポーツだった。ラジオ番組「君の名は」は空前の大ヒットで、続編、完結編など次々に制作された。放送の始まる時間になると銭湯の女湯が空っぽになったという話は有名だ。写真はそれにあやかって流行した「真知子巻き」のスタイル。

当時を経験した方の証言を収めたビデオ上映を観る女性。
さまざまな実物資料にはそれぞれ持ち主がいたわけで、その人たちは当時どんな想いで生き、そしてその後どうなったのかを考えながら見ていくと、あっという間に時間が過ぎてしまった。こうしたいわば戦争の「ミクロ」の部分に触れ、当時の労苦を偲ぶのもまた大切なことだと感じた(この項終わり)。