■昭和館■

当時の子供達が使った鉛筆やナイフ、セルロイド製の筆箱など。中学の頃ものすごく勉強のできる奴がいて、この写真とまったく同じアイテムで授業を受けていたのを思い出す。あまり関係ないが。

昭和16年、それまでの尋常小学校は「国民学校」と改称し、小学生は「少国民」と呼ばれた。いっそうの「皇国民」への教育が施され、教育の場は「国家主義」的色彩を強めていった。

昭和18年になると学徒動員が本格化し、食糧増産、各種建設、輸送力増強などに勤労学徒として学校単位で従事した。

当時の食事。「おかず」はかぼちゃや大根など野菜の煮物。その他雑炊やふかし芋など、戦局の悪化につれ食糧事情も悪くなっていった。

早見優が映画でこんなカッコしてました。中学生以上、25歳以下の未婚の女性は「女子挺身隊」として軍需工場などへ動員され、女学生ももはや勉強どころではなかった。その工場が爆撃され、多くの悲劇が繰り返された。

もはや空襲が避けられない状況になった都市部では、地方への学童疎開が行われた。農村部でも食糧事情は逼迫しており、食べ盛りの子供達は空腹に耐えかね、写真のようなお手玉の中の大豆やあずき、整腸剤まで口に運んで飢えをしのいだ。親元へ送った手紙なども展示されている。

昭和20年になると、空襲によりもはや「銃後」も死と隣り合わせとなった。頻繁に防空演習が行われ、「バケツリレー」などで消火の訓練に励んだが、何百と来襲するB29の前ではあまりに無力であった。