(by 石飛洋司)


(by 品川光太郎)


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240)コーチではなくなりました?! 投稿者:やっぱりコーチ 投稿日:07年9月14日(金)19時21分

大変遅くなりましたが、ご報告申し上げます。
5月から高松に引越し、いや出稼ぎにきています。
義理の弟が高松で開院することになったからです。
総勢8名の小さな医院です。この年になって全く違う職種で再スタートをきりました。
住まいも「うなぎの寝床」と呼ぶにふさわしい狭〜いアパートです。
但し、土・日曜は時々高知に帰っていますが・・・・・
やはり慣れない仕事でめちゃくちゃ疲れます。という訳で皆さんにご報告が遅れました。
でこの投稿も医院の事務所からスタッフが帰った後こそ〜としています。
こういう業界もろに人間の生き様を見せ付けられ、ちょっと私には堪えます。毎日オロオロの連続。
今日は悪性リンパ腫の患者さんと話していて、3年後私はもう生きていないだろうと相談され、ひきつりながら励ます私でした。
ありきたりの励ましで申し訳ありませんが、ショースケさん命あっての人生。大丈夫、ショースケさんは乗り切られますよ!ずーと応援してますからね!!ボケのコーチで励ましにはなっていませんが、ふと投稿したくなりました。すんません。


239)暗い投稿ですが 投稿者:ショースケ 投稿日:07年9月13日(木)18時20分

岩坂くん、ありまんさん、ありがとう。
本人は至って意外と元気です。
開き直りが半分あります。
今の所、何とか再生に向けてがんばっています。
後2〜3ヶ月が勝負です。
辛気臭いのでこの辺で。
いずれにしても又結果報告いたします。
投稿は会社からしています。


238)はるかな郷愁・・最終回 投稿者:SHOU-JI−ROU 投稿日:07年9月9日(日)16時28分

丹東のラーメンはあまり美味しいとはいえなかったようだ。みんなは誰一人も食べず浮かぬ表情だった。中国人の彼らは美味しいそうにラーメンを食べていた。
他は、細かく切り刻んだ芋類とか、青菜白菜などを煮込んだ料理があった。味付けは日本のように醤油味、ドレッシング味などを期するものではなかった。どちらかと言えば、すこし腐敗した臭さが残るスープ味に近い。

ガイドの楊さんは、暗茶色した小さな肉を取り寄せ、それをニンニクと酢につけて食べていた。慣れた手つきだった。
この、摩訶不思議な肉がどうも牛とか豚とか鶏とか身近な家畜ではなさそうだ。

はて、何の肉か?アヒルか?まさか、犬の肉とは・・・。ワンワン!
私は試しておそるおそる食べてみた。ウッ!犬特有の臭いが鼻に突いた。
思わず胃の中がひっくり返すそうだった。その臭いをまぎらわすためにビールをとっさに飲んだ。

そういえば、丹東にはすみずみまで犬の姿がいないのだ。
犬一匹たりとも姿を見たことがない。愛犬との散歩だなんて、飼い主と戯れる日常風景はもはやここでは語れない。では、犬の生存権は家畜以下として中国では通用しないのだろうか?
おぞましいことだが、私は犬を少し食べた。感覚的に野蛮な土人が人間の肉を喰ったと変わらない。しかし、かって可愛がっていた愛犬の表情がふい思い出されてしまい、その後ろめたさが人間の尊厳が軽薄せずにすんだ。
この店は、トンコツ(豚骨)ラーメンではなかった。名付けてケンコツ(犬骨)ラーメンといってもいい。
私は、幸運にも平壌冷麺を注文しておいたので難を逃れた。

店を出ると空気がおいしかった。私達は大連に帰るためバスに乗り込んだ。
近くの歩道では浮浪者風の男性数人が数台の古びたリヤカーを囲み談笑していた。
リヤカーの上には男が寝そべっていた。また、別の男は横になっている人に裸足で服装の上をゆすりマッサージをしていた。

この街には人間臭さがつきまとう。人間臭さがかえって濃密なエネルギッシュを生み出す躍動力を秘めているに違いない。
昭和30年代の日本を彷彿させる高度成長時代がこの時代と重なり合い、私は改めてこの国のめざましい発展ぶりを肌で知る事が出来た。
また、いずれにせよ、この街にもやがて近代化に洗われていくだろう。同時に古きよしものは消えていくだろう。しかし、かっての昔を偲ぶことが再び目の前に現れたことで、わたしはおおいなる郷愁にいつまでも忘れないでいるのだ。

もう、二度と訪れることはないだろう。本当にありがとう。

・・・・再見(さようなら)!


237)ナイスバティ!! 投稿者:ありまん 投稿日:07年9月6日(木)00時58分

わかるコーチの気持ち。私も一生に一度ぐらいは贅沢したい。かっぱちゃんの骨壷で、使用前に目の保養して 贅沢な気持ちを味わうって流石コーチ。しかし、なんであの世までスリーサイズ問われるんかいな??コーチはボン!キュッ!ボン!に決まってるじゃん!!ちょっとぐらいきつくても息を止めて体をゆすったら、ちゃんと詰めてもらえるっちゃ!!。何もウエストをゴムにしてくれとかそんなこと頼んでないのよ。友達だものそのくらい融通をきかせてもらいたいのぉ。それで・・・かっぱちゃん、ありまんには ボン!ボン!ドーン!のワンサイズの骨壷 お願いしますです。 
これって注文が複数の場合は 急ぐ人から納品するのかい?かっぱちゃんは注文ある限りいつまでも元気で格調高い素敵な作品を描いてもらわないと いけないってことよ。ということで 引き続き「ご予約承り」ましょうかね。そして かっぱちゃんの福岡での初個展にたくさんの方に来ていただいて 嬉しいやら懐かしいやら感謝感謝の楽しい二週間でした。皆さんありがとう。看板娘改め、宴会係のありまんでした。


236)続き 投稿者:コーチ 投稿日:07年8月31日(金)08時18分

あまりにも凄い作品だったので、かっぱちゃんは先生様になってしまった。
ちょと近寄りがたい存在?に一抹の不安を感じた。
それでも「骨壷」が欲しい、とメールしたら骨壷のスリーサイズを教えろと
メールがかえってきた。らしい、と思わず噴出してしまった。なんか嬉かった。ナイスバディ!!の骨壷をお願いしようっと!!


235)はるかな郷愁・・その6 投稿者:SHOU-JI−ROU 投稿日:07年8月31日(金)00時05分

丹東を離れてから、もう1時間たったのだろうか?
しばらくは鴨緑江沿いの景色をながめていた。対岸は北朝鮮だが、どこかローカルな地方風景とさして変わらなかった。しかし、船、橋、車、人の姿さえ動く気配がなく静寂だった。いいようのない静寂すぎるのが私には何かが違う、と恐い気がした。すると、バスがそれて、湾曲した高速のコンクリート橋脚上を通った。まるで、都市高速のように田園の上を走っていたのだ。このとき右手の向こう側に、数百メートルの高さ位の、切り立った断崖の上に城がみえた。あれが虎山長城の楼閣なのだろう。

バスは楼閣の方向へ迂回し、付近の小さな部落に入った。
途中で道が狭くなったため、私達は歩くことになった。そして見ず知らずの村の人々と出会った。久し振りに生まれて初めて異国地に来たような気分になり、村の人々の暮らしをつぶさにみることが嬉しかった。それは中国残留孤児がどんな生活で過ごしていたか、関心を持っていたからだ。
どの農家も古く戦前より受け継いでいるようだ。六畳一間くらい背丈の低い民家だったが、レンガの古さが長年の歳月を物語っていた。
しかし、残念なことに観光地だけに夥しいゴミが散乱していた。生活用水路にも、ほとんどゴミが埋まり水がよどみ腐っていた。中国人は気にせず平然としていた。

おや?どの農家にも表入口には派手な書画に目を惹いた。

「あれは、なんだろうか・・・?」

それは真っ赤な色をした四角い紙に“福”の文字が金色に輝いている。しかし、“福”が逆さまになっているのはどういう意味だろうか。
中国の事情に詳しい(?)知人がもっともらしく話してくれた。

「中国のしきたりでは、天から“福“がこの家にもたらすように、天から降りてくる“福”が逆さまになっているからの意味で、これが普通のようですが・・・。」

しかし、私は納得いかなかった。日本人の正常な感覚を基準とした場合、逆さまがどうもしっくりいかない。直してキチンとやりたいのが正直な気持ちだった。

虎山長城の入り口を通るとすぐに階段があった。そこから私は楼閣のある山のほうへ登り始めた。上をみると、まるで長城が龍の踊りのようにクネクネと蛇行して山頂に延びていた。長城の境内は瓦と同じ構造で昔は相当、人海戦術によって建造したらしい。
ようやく、息は絶え絶えながらもあの断崖の楼閣に辿り着いた。
真下は雄大な鴨緑江支流地域に見惚れ、遠方は空気がかすんでみえなかった。
突然!ブァ〜ン!!ブン蚊が大量に黒い塊となって空気を浮遊しているのではないか!驚いた。私は写真撮影をあきらめて、一刻も早く下へ下へ退避した。

その後、駐車場に待機していたバスに乗り込み、私達は昼食のために丹東へもどることになった。
ガイドの楊さんが案内してくれたのは日本でいうラーメン屋風の大衆食堂だった。
丹東の繁華街の一角にあった。ごく庶民と変わらぬ食事メニューだったが、折りしもみてならぬものをみたのはなんと・・・・。

写真1(虎山長城入り口)
写真2(山頂の楼閣をみる)
写真3(山頂からみた長城)


234)超びっくらこ!! 投稿者:コーチ 投稿日:07年8月28日(火)18時47分

かっぱちゃんの作品の正統派なのにびっくりしたぁ!!!!
もう師匠て感じ。ホンマモン見たかったです。
恐れ多い骨壷ですね。


233)ケイコさんからのメール 投稿者:シタマ 投稿日:07年8月6日(月)13時10分

ケイコさんから
「趣味が高じてダイビングサイト作りました」とのメールが届きました。
「リンクの欄」の「BEST DIVING」からご覧下さい。
ついでに、pdfファイルで送られてきた7月24日付、日経産業新聞の掲載記事を紹介します。

『デザイン会社のアド・シンク(東京・港、上田恵英社長)が立ち上げたのは、ダイビングの総合サイト「BEST DIVING」。国内・海外の約千のショップ情報やツアー情報を一覧できる。利用者がダイビング情報を書き込んで交流する機能も提供し、一年以内に一万人の会員獲得を目指す。 利用者は各地にあるショップの機材や運営状況といった情報や、旅行会社のツアーなどを確認できるほか、ショップのサービス内容などについて感想を書き込み、公開できる。潜った日時、場所、水温や感想などを書き込む「ログブック」をネット上に記録できる機能も用意した。公開、非公開を選べるため、愛好家同士の交流のきっかけにもできる。 (中略) 日本のダイビング人口は百万人を超えるとみられるが、総合情報サイトはこれまでほとんどなかった。新規事業を模索していたアド・シンクは、社内に愛好家が多いことから新サイトの開設を決めた。』

無料ですので、「ダイビング経験なくてもいいので、ぜひ、登録おねがいします」とのことでした。
彼女はダイビングしてたんですねぇ。
アキサンの「青春の一枚」の投稿によるとバイクにも乗り回してたらしいし。活動派なんですね。知らなかった。
そのうち彼女から楽しいダイビングについての書き込みがあればいいですね。
「リンクの欄」は、メンバーの関係するHPを小生の判断(横暴かな)で紹介し、応援できればと考えてます。
HPを持ってる方は是非どうぞ。持ってない人は作ってみたらどうですか。ソフトを使えば簡単ですよ。
正二郎なんかは、「正二郎旅日記」なんてHPがすぐ出来そうやね。
あれだけ詳細に旅の記録してる人少ないやろ。感心します。
あっ、もちろん無料ですからご安心あれ。(笑)


232)ドンマイ!ショースケさん。 投稿者:岩坂 投稿日:07年8月3日(金)12時04分

何年前になるかな、私がお世話になった会社が倒れました。そこの社長は私が仙台に来たときからの付き合いで、一緒に草野球のチームで野球をやったり、嬉しいとき、悲しいとき酒を飲みに行ったり。その彼が脳溢血で倒れた1年後のことでした。手のひらを返すように、彼の周りの人は退いていってしまいました。私は、かなりの額の連帯保証人になっていました。彼は動けなく、後始末は全て私がやることになりました。売掛、買い掛け、ローン、債権者、社員の給料、そして裁判まで。個人的には保証人になっていた金のことや(銀行やローン会社や訳のわからんところからやいのやいの言ってくる)、彼の不動産の売却やアパートの手配、等々。今思うと良くやったなーと思います。確かに心は暗くなりがちでしたが、当時は金なんか働いて返せばいい、命まで取られることはない、と自分に言い聞かせていたように思います。
今、その彼とは、春先や秋口の季候のいい日に酒を酌み交わしています。彼の身体も私の立場も、出会った頃とは違ってしまいましたが、相変わらずの付き合いが出来ています。えらく金はかかりましたが彼との友情は金には換えられないのです。
しなくても良い経験かもしれませんが、この一件でより人に優しくなれたように思います。やまない雨はありません、ドンマイです、ショースケさん。


231)恥を忍んで 投稿者:ショースケ 投稿日:07年8月2日(木)19時02分

お久しぶりです。
ご報告があり、投稿しました。
7月30日に会社が大阪地方裁判所に対して民事再生開始の申立を行い、
同日付けで、弁済禁止を内容とする保全処分の決定が発令されました。
依頼、私は仕入先に対して、おわびと、お願いと、お叱りの毎日を過ごしています。
お盆前に、債権者説明会があり、方針が出ますが、私としては、
いい結果が出ると信じて
再生に向けて資料作りも平行して行っています。
会社の事もそうですが、多大なご迷惑をかけた、川上の方々の為にも何とか、
生き残れるように、がんばるつもりです。
ここ数日で始めてのつらい経験をしています。
又、しばらく連絡できないと思います。


230)はるかな郷愁・・その5 投稿者:SHOU−JI−ROU 投稿日:07年7月14日(土)17時27分

『三千里』の夜を忘れることが出来ないだろう。
素晴らしい踊りと透き通った歌声を披露してくれた彼女たちのことである。
感激した知り合いの数人がお礼としてお金を渡そうとしたのに、それを受け取らずに無視した彼女たちの態度に戸惑った。

何故だろうか? 北朝鮮という国は人間的に冷たい? いや、本来、共産主義の国家だかどうか分からないが、“金銭自体は罪悪の対象”とみなす金日成思想をあとで知った。
もし、そうだとすれば拒否した彼女たちは正しいことをしたと理解できる。
(しかし、そんなことをしたとしても、お金がないと満足のいく生活が何にも出来なくなってしまう・・・)
食事を共にした中国人女性がアタシにお金をちょうだい!と手振りで要求した。
この女性は大分県臼杵市に2ヶ月間滞在していたそうだ。

翌日、宿泊先の「中朕大飯店」で朝食をすませて、少し時間があいたので散歩しようと歩いてみたら、ロビー前の石段のところで一人の農夫に出くわった。年齢からみて40代のようで、世辞にも言えぬ粗末な服装を着ていた。郊外から遠くやって来たらしい。
肩からかついだ天秤棒にはピンポン玉くらい、沢山の果物ナシが詰めていた。
このナシを観察すると、日本人感性から、とても商品価値にならぬ傷物に近い。

ちょうどその時、日本語ガイドの楊さんがそれを十個くらい買い求めた。
その農夫は左手にナシをのせた天秤を持ち、右手はオモリを尺で計っていた。
懐かしい仕切りだった。本当に懐かしい仕切り道具だった・・・。いまどき電卓とか、デジタル計量、ケータイなど使われているなかで、いまだに仕切りがここで健在していたとは・・・・。

子供のころ、記憶していた近所の魚屋さん、仕切りの姿と重なって心が蘇ってしまった。

この農夫のお陰で私は考えが変わった。
なんだか商いの原点をかいま見たような気がした。
粗末な服装でも恥ずかしいことを臆せず、商品価値がつまらなくても、ものを一つ一つ大切にする態度に反省させられた。人間は外見で判断していけない。心の行為をものいうのだ。

私を含めてグループは別行動をとり、鴨緑河鉄橋入り口にある「中共軍の記念群像」公園に向かった。
彼らに入場券を買ってくれるように頼んだ。
すると、お釣りを受け取ってギョッとした。キッタナァ〜イ!!気分が悪くなったのだ。まるでゴミ箱から拾ってきたクズ同然の紙幣だ。他の人も薄汚い紙幣に困惑したのだ。財布にいれずポケットにしまいこんだ。

巨大な「中共軍の記念群像」の前にしばらく立つと、何となく分かったような気がしてならなかった。実に中国人の懐が深いのだ。

1954年朝鮮戦争のさなか、マッカーサー将軍率いる米軍が仁川上陸作戦の成功をきっかけに、余儀なくされた北朝鮮軍は敗退しつつ、中国領に近い最前線に追い詰められてしまった。
このとき中国は友邦国北朝鮮を放棄する訳にいかない。
共産党は盟友の北朝鮮を擁する覚悟で、中国は国家的軍事行動を踏み切った。

こう、勝手な想像しただけでも理屈ではなく、何となく感じるのだ。
鴨緑河の向こうに米軍の国旗が翻えっていると考えれば、中国人の立場としてやりきれぬ苛立ちを憶えずにいられなくなる。中国と朝鮮とは親戚のようなもの。
日本人である私は、中国人、朝鮮人と言葉は解らなくても、同じアジア民族のルーツとして、兄弟以上、強いきずなを感じたのだ。旅行して不思議に思うのだ。
一生の記念として、巨大な群像をバックにして写真を収めた。

このあと、私達一行はバスに乗って、丹東を離れて虎山長城(万里の長城)に向かうことになった・・・・。


229)確かにあった出来事。 投稿者:TOYO 投稿日:07年7月12日(日)00時27分

イワサカ〜、ケンゴは、「ただの一度もありまんの部屋に行ったことはない。ましてや、誕生日をお祝いしたことはない!」って言ってるよ。私はありまんちで、男子(?)と一緒にごちそうになった記憶がある。なんかのパーティーだったかも知れない。どうして覚えてたかというと、当時ありまんのアパートは男子禁制だったのに、男子を連れ込んでていいのかなぁ??と思いながら、ありまんのお得意のシーチキンサラダを食べてたのをハッキリクッキリ覚えてる!それが何人で、誰だったかはゼンゼン覚えてなかったんだよね〜。
イワサカだったのか!あれだけくっついてたケンゴが一緒じゃないんだったら、イワサカ一人でお呼ばれだったんじゃないのん?とケンゴが言っておりました。ふふぅ〜ん♪
まっ、とにかくありまんのお誕生日を覚えてたのは、すごい!「日にちは違ってるけど、ういヤツ!!とほめてあげて」とありまんにメールしたのじゃ。
あのさ、上村さんちで、手作りのクリームシチューをごちそうになったの覚えてない?これは、田中研の何人かの記憶に残ってると思うよ。小麦粉とバターから作ってくれたシチュー・・・あったかくて、おいしかったよね!

イワサカいじめるの生きがいなんだけど、今回はほめてあげたいTOYOでした。


228)そう 確か?! 投稿者:ありまん 投稿日:07年7月8日(日)01時14分

岩坂、お誕生日覚えていてくれてありがとう。うれしいこと!?豊からメールで「HP見たかい?HPで告白しなくてもエエヤやないかい??って、違うって反論しろって」メールしてきた。私は「うれしいけんいいやんね・・・」と思っていた。実は、誕生日で素敵な縁が続いているのよ。 知り合って以来、この三十うん年、我等三人(有馬と泰介と田頭兄)は、毎年、年に一度の誕生日を祝ってきたのよ。昔は、6日の夜中に飲んで語り明かしたもの。七夕イヴには電話とかメールとかで連絡してきた。・・・で昨日も、例年通りメールそれぞれやり取りしたの。それが豊に言われて、改めて誰がいつの誕生日だったのか なんとも曖昧な記憶になってきた。それで田頭兄に、今日電話してみた・・・そしたら、「僕は今日(7日)だけど泰介のはどうだったか、もう覚えてないと言う。だけど電話だけは昨夜しておいた」と・・・。それで「ありまんから泰介に聞いてみてくれ。」というの。・・・で泰介に電話してみた「僕は今日(7日)が誕生日だ。」っていう。「記憶が曖昧になってきた、我等そんんな年齢なんかいねェ?いやぁ はっはっはっ」って笑ってくれた。・・・彼らは1年違いの7月7日生まれだと判明。正しいスリーセブンよ。で・・・私は7月6日七夕イヴよ。岩坂仙台の七夕 いつか見に行くからねェ。
ありまんより


227)確か・・・? 投稿者:岩坂 投稿日:07年7月5日(木)10時05分

今年の七夕は7が3つ揃うとマスコミでは騒いでいる。で、その騒ぎに便乗して良いことがあるぞ〜っと、自分に言い聞かせる。なんせスリーセブンなんだから。パチンコのこと良く知らないけど、スリーセブンになったら凄いのでしょう?だからキット良いのよ、ね!そして確か、アリマンの誕生日だったんじゃないかな〜?大学時代、アリマンの誕生日をアリマンの部屋で、二人っきりで祝った・・・ん?豊さん、謙吾、コーチ、石飛や住吉も居たっけかな〜。確かそうでしたよね、確か。
おめでとさんを54回ですか。

良いことあるぞ〜、ミス アリマン!(ミスドの乗りで)

岩坂Yoshiakiでがんした。


226)はるかな郷愁・・その4 投稿者:SHOU-JI-ROU 投稿日:07年6月4日(月)23時44分

鴨緑江鉄橋をあとに、遊覧船は丹東に旋回し帰りはじめた。
この鉄橋が日本人によって造営されたと中国観光案内書に書かれていた。

船上で、土着色した顔つきのたくましいアジュモニ(おばさん)が四角い木箱をかかえて、どっこいとおろして私達に近づいた。
その木箱のなかをのぞくと、何の事か?北朝鮮に関する文化、歴史、科学、そして金日成主席を称える写真集などが入っていた。しかし、興味引くような、何ひとつ期待はなかった。

「金日成主席と金正日総書記」の肖像画、「金日成バッジ」「北朝鮮煙草」「山水画栞」「偉大なる首領様金日成主席・・・」などがそれであった。
その中で、もっとも金正日総書記の肖像画が美青年風に描いていた。しかし、最近のニュースでみると、実像とはずいぶんかけ離れていた。あの頭がチリチリした天然パーマがどうも便器洗いスポンジのようでみえてしかたなかった。

それにしてもアジュモニは中国人観光客がいるにもかかわらず、私達に対して10元でも稼ごうと口も八丁手も八丁ぶりに満州語で喋りまくった。
でも、私は何一つも買わなかった。アジュモニには気の毒だが、こんなものを仮にお土産として日本に持っていたら、一体、誰が喜ぶ人はいるのだろうか?しょせん、それをありがたくもらう人はまずいるまい。買わない方が賢明だと話していたら同乗の年配女性はうなずいた。    

その夜、私達は夕食のためにホテルから少し離れた所に北朝鮮系経営『三千里』大食堂に着いた。
中にはいると、北朝鮮女性ウェイトレスたちは客人混雑きわまる多忙のなか、くまなく動き回っていた。私達が日本人だと知ると先客たちは食事をすませてテーブルから早々退席していった。大きな丸い白いテーブルが印象的だった。そこに私達は彼らと一緒に腰掛けた。
注文に応じた彼女たちは年齢的にも若く、ガイドの話によれば北朝鮮から渡河して来たらしい。
長い黒髪を束ねた彼女たちは次々と朝鮮名物料理を運んだ。
乾杯のビール「鴨緑江麦酒」をはじめ、「青菜白菜」「朝鮮キムチ」「アワビのおかゆ」「冷麺」「小鴨の唐揚」「お好み焼風パジョン」「タイの塩焼き」「ウナギ甘煮」「アゲマキとシャモ」「魚介類のスープ煮」「卵豆腐」「朝鮮餅」と・・・キリがない。まだまだ、新鮮な海の幸が続く。
最後のしめくくりになる果物「スイカ」をのせた皿が運ばれた。
昔、有明海で獲れていた「アゲマキとシャモ」がとても美味しくて感動したのだ。
こんなところで数十年ぶりご馳走いただいて、ひとしお感無量に思う。

やがてチマチョゴリを着た女性がマイクを握りながら、歓迎の挨拶を述べた。
そして彼女たちは、流れる音楽に合わせて歌と踊りを披露しはじめた。
まるで昭和30年代風フォークダンスのようだ。
・・・懐かしい・・・。彼女たちは肩に手を組んで踊っているのをみると、汚れを知らぬ子供たちが純粋な心で踊っているようだった。私は贅沢を知り過ぎ、境遇がいかに恵まれたことを改めて考え込ませられた。彼女たちはお礼の金銭を一銭も受け取らなかったのだ。無関心だった。

お別れに懐かしい歌が流れた。それは「北国の春」だった・・・・。

写真1(筆者が宿泊したホテル)
写真2(鴨緑江鉄橋をみる。右側は京義線)
写真3(北朝鮮の人々たち)


225)はるかな郷愁・・その3 投稿者:SHOU-JI-ROU 投稿日:07年5月13日(日)00時03分

やはり、中国は大地にふさわしい。かって巨大な田舎と比喩された国。はるか見渡せる広大な風景を筆舌では言い表すことが出来ない。
50キロメートル以上遠く離れたところの地平線が肉眼でよく見える。その地平線の上に山脈の姿を全体に捉えることが素晴らしかった。舗装していない手つかずの道がまっすぐ向かって伸びていた。農民は鍬で耕し、牛、馬が放たれていた。
昔と変わらぬ素朴な自然になぜか、感傷的になってしまった。

「日本って、せせこましい国だな」と、隣の知人がつぶやいた・・・・。

「昔、大連駅から汽車に乗って、審陽(シェンヤン)に行ったんだよ。」

シェンヤンはかって満州の首都「新京」と呼ばれていた。

・・・満州国か・・。

私にとって重い、暗澹たる気分になるのだ。
以前、「平和のありがたみ」のように満州に関する書物を目を通して、ある程度知識を得ていたため、ことに満州にまつわる歴史に深い悲しみが込められているからだ。
1945年8月、日本が敗戦と知ったソ連は日ソ中立条約を一方的に打ち破り、満州へ侵入しなだれ込んだ。
国境に近い日本人開拓団の多くはパニックになり、余儀なく食料を捨て何着る物なく幼い子供たちを抱え南へ南へ必死に逃避していった。
が、逃げる甲斐もなくソ連軍は日本人を見つけるなり、機関銃で帰討し多く殺害してしまった。命拾いで助かった赤ん坊、幼い子供たちはやがて大地をさまよい、飢餓してしまうが、中国人にさらわれてしまう。兄弟姉妹ともども引き裂かれて別々に離れてしまう。これが現にいう中国残留孤児なのだ。
けれども、この広い大地のなか、200キロ、500キロも道のりを逃避行した多くの日本人の足跡を想うと胸が痛む・・・。

満州から逃れて朝鮮半島に行き渡る大河、すなわち鴨緑河(ヤールー)につなぐ唯一
の鴨緑河鉄橋を大量の日本人難民はめざしていったのだ。

「知床旅情」作詞作曲で知られる森繁久弥氏。森繁さんは若い頃、新京に住んで放送局に勤務していた。歌手の加藤登紀子さんはハルビン生まれで満州育ち。両氏とも満州を引き合いにして糸が結ばれていたことが分かる。
「国家の品格」の藤原正彦氏、作家の五木寛之氏も満州引き揚げ体験者。

写真(虎山長城の近郊にある農家)


224)はるかな郷愁・・その2 投稿者:SHOU-JI-ROU 投稿日:07年5月5日(土)19時27分

福岡を出発して大連空港に到着したのは昼の1時を過ぎていた。時差の関係で日本時間は午後2時過ぎということになる。
私達一行は待機していたバスに乗った。バスといっても西鉄バスのような大型観光バスではない。中古のマイクロバスだった。日本語ガイド一名とともに丹東に向かうのだが、出発直前に中国人5人の若い男女が乗り、私達はびっくりしてしまった。
なぜ、こうなったのか理由がわからない。現地旅行社に聞いていくより他ない。彼らはガイドの友人だったからである。それで彼らは私達を面倒みて、困ったことは案内してくれると知人から聞いたのだ。

丹東まで4時間かかりますよ、小用を済ませてください。とガイドの忠言に従って済ませた。日本の高速道路のように各サービスエリアは少ないそうだ。
実際に行ってみると、下関から指宿までくらいの長い距離なのに、サービスエリアはたった一ヶ所しかなかったのだ。だから、男性諸君は途中で高速道路上での路肩で小用する羽目となったのだ。

それはそれでいいのだが、彼らは食い物を平気で窓からポイ捨てするのは目に余る。まだまだ美化運動が普及していないようだ。

窓の外を見やると、広大な大地が果てしなく続いている。どこまでもどこまでも耕作した大地の風景が広がっている。見飽きせず、ただ眺めていた・・・。

写真1(中国式サービスエリア)
写真2(流暢な日本語を話すガイド)


223)はじめまして 投稿者:謙吾 投稿日:07年5月5日(土)12時56分

ゴールデンウイークも後半、みなさんいかがお過ごしですか。
青春の一枚がしばらく更新されていないのでなつかしい写真を送ります。
写真実習の時撮影したものです。
住吉、そして初登場の伊藤ちゃん、少し気取っていますが演出によるもので
彼らには責任はありません。それではアップされるまでお楽しみに。

アップ済み(「青春の一枚 060〜066」)


222)はるかな郷愁・・その1 投稿者:SHOU-JI-ROU 投稿日:07年4月28日(土)23時02分

4月の半ばごろ、中国の丹東に行ってきた。大連からバスでおよそ4時間位かかり、北朝鮮の国境に近い50万人が住む都市だ。
大連の近代的なビル街から一転、昭和30年後半代にタイムスリップしたような錯覚を覚えた。みすぼらしい家屋が密集した街だった。
リヤカーは走るし、果物露天商にたむろする人々、天秤を担ぐ男、わずかな骨董品を物々交換する人々たち、この街はあらゆる生命エネルギーを擬縮する、生きることへのたくましさをまざまざ見せられたのだ。

丹東のホテルに着くと、目の前に流れる大河が鴨緑河(ヤールー)だ。静かな大河の向こう側に北朝鮮が見える。
大河の入り江に無数の船が接岸している。鴨緑河鉄橋は朝鮮動乱の時に米軍に破壊されたまま、橋脚のみが残されていた。
だが、国境とはある意味ではここには無い。自由に出入りが出来る大河が国境なのだ。実際に来て見たのは、地方の県境と変わらぬ日常の感覚を覚えた。
核武装、テロ国家、拉致家族救う会が非難をする其の国のはずだが、韓国の国境のように黒い鉄条網が何百キロメートルものを、半島寸断した国境分断とは全く違う。
それは、地方と変わらぬのどかな平和な風景だったのだ。

中国人観光客と一緒に遊覧船に乗った。鴨緑河を下って北朝鮮に近づいた。
コンクリート護岸、港湾らしい機能もなく貧しい入り江だった。
単なる砂浜だけの入り江で、無数の船が接岸していた。
朽ち欠けたボロ船、年代を感じる船、どの船も年代の古いものだった。
船上には北朝鮮の男たちがこちらを見ていた。

入り江の土手側の村道を少年が駆けていた・・。

写真1(鴨緑橋をみる)
写真2(北朝鮮の姿)
写真3(丹東の街)
写真4(中共軍の記念群像)


221) 何だか、みんな忙しいのかい?書き込みなさいよ、少しは。 投稿者:岩坂 投稿日:07年4月24日(火)18時35分

「人生いろいろ」UKENの奥さんの文章読みましたか?ドラマや小説で良くあるテーマなのだけど、こんなに短い文章で的確にそのことが表現されていることに、しばしディスプレイの前で腕組みをして唸っていました。「そして私が強くなったからです」と言うところで、いろんな意味を込めて胸に迫るものがありました。凄い人です、本当に。

で、書き残したこと。

1、甘食の件/昔食べた、黒い蒸しパン?それをAカップのおっぱいの形にしたもの。
どうでしょうか、ご存じの方、そんな感じですよね。

2、あきさんへの返事の件/魚水は、あきさんの言うとおりだと思います。私の記憶違いみたいです。私事ですが、二宮という奴と勘違いしていたみたいです。でも、あきさんが大宮小学校にいたのなら、私たち二人は小学校時代はすぐ近くにいたことになりますね。ふふ〜ンなんて、思いました。お互い凄い美女、美男だったら話題になってお互い知っていたかも、残念!

仙台は、桜前線が北へ行くと同時にまた寒くなりました。
でもこの季節、仙台市街は緑が芽吹き活き活きとした街に変わって春がやってきます。
定禅寺通りでは、アートプロジェクトが開催され、絵やイラストや音楽や、アートと名が付くもののお祭りが開かれます。街中では、青葉祭の大きな山車がすずめ踊りを従えてにぎやかに街を練り歩きます。
なんてね、春爛漫の仙台なのですが、私は一度も見たことがないのです。この時期は新しい子供(新学年になって張り切っている子供達)と体育館の中で汗を流しているのです。
今年もGWは、そうなるのでしょう。

ところで、TOYOさん、小田和正(漢字はこれでいいですか?)は東北大学だったのですよ。もちろん知っていたでしょうが、彼が通った付近の面影はもう無くなっていると、先日言ってました。

さて、私の次に、書き込む人は誰でしょう?その人にはきっと良いことが訪れます。



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