聖母の無原罪

 

母からの遺伝悪外観の法則

街路

 

 

 

1.聖書

2.グリニョン・ド・モンフォール

3.マリア・ワルトルタ

4.スウェーデンボルグ

5.ルイザ・ピッカレータ

6.ベルナルド

7.汚れ無き道

8.カテキズム

 

 

 

 

1.聖書

 

 

雅歌4・7

 

恋人よ、あなたはなにもかも美しく

傷はひとつもない。

 

 

 

雅歌4・12

わたしの妹、花嫁は、閉ざされた園。

閉ざされた園、封じられた泉。

 

 

 

エフェソ5・25−27

 

夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。

 

 

 

 

2.グリニョン・ド・モンフォール

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心158

 

だが、わたしが選ぶのは、この道ではなくて、マリアという名の“汚れ無き道”(詩篇18・30)です。一点のシミもなく、汚れもなく、原罪もなく、自罪もなく、影もなくヤミもない“マリア”という道です。

 

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心168

 

この道は、完全です。そこにはチリもドロもなく、罪のけがれのひとかけらすらないからです。

 

 

 

 

3.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩.P55

 

「私の小さな愛よ!ごらん、今、私は初めて飛ぼうとして泉のそばに落ちた、この小さな雀の子をお前に持って来た。これを、そこへそのまま残したならば、苔に覆われている石にすべって泉の中に落ちたでしょう。しかし、そうなる前に私が、この小鳥を助けた。お前にあげるから、これを思うようにしなさい。ただ、お前に言いたいことは、この雀が危険な目に遭う前に救われた、ということです。神さまは、お前に対して同じようなことをしてくださった。さあ、マリア言ってごらん。私は雀を先に救うことで愛したか、それとも後で水からひろい上げて救うことで、もっと愛したでしょうか?」

 マリアは答える。

「冷たい水にぬれて溺れるのを防いだので、先の愛の方が大きい」

「そのとおりです。神様は、お前がどんな罪も犯さないうちに救われたので、お前はより多く愛されているのです。」

「それなら私は“全く”神さまを愛しましょう。おお、美しい小さな雀、・・・私はお前に似ている。神さまは、私たちを救うことによって同じように愛された・・・今から私は、あなたを養う。後で放して、お前は森の中に、私は神殿の中に神の賛美を歌って言おう。『待っている人々にあなたの“約束したもの”を送ってください』と、おお、父さま、いつ私を神殿に連れて行くの?」

「私の真珠よ、近いうちに。しかし、お前はお父さんから離れるのが辛くないのか?」

「ああ、辛いです! でも父さまは時々いらっしゃるでしょう・・・。それに痛まないなら、何の犠牲でしょう?」

「それなら、私たちのことを思い出してくれるだろうか」

「いつも。エンマヌエルのための祈りの次に、あなた方のために祈るつもりです。神さまが、あなたがたに喜びと長い長い命を与えて後、救い主となるお方が、あなたがたを天のエルサレムへ運んでくださるまで」

 小さなマリアが、父親の腕の中に抱かれたままヴィジョンが終わる。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P272

 

「それなら、神がマリアをあらかじめ救ったとヨアキムはどうして言えるのですか。このことばは、罪に対してマリアが受けた特権を暗示しているではないですか」

「そのとおり、暗示しています。しかし、ヨアキムはすべての預言者たちと同じように、神の口を通して話していました。ヨアキムも聖霊が自分の口に言わせた超自然の崇高な真理は分りませんでした。というのは、ヨアキムはマリアの父となるにふさわしい義人で、謙虚な人だったからなのです。実際、傲慢のあるところに“義”はあり得ません。ヨアキムは義人で謙虚で、父の愛をもって娘を慰めました。神の聖櫃の後見人でしたから、司祭の知恵をもって娘を教えました。また、司祭として、マリアを最も甘美な称号“汚れのない者”に聖別しました。いつの日か、もう一人の白髪の大司祭が、全世界に『マリアは汚れのない者として懐胎された』と告げるはずです。このことによって、異端と悪徳との霧の中にずぶずぶと沈んでいくその時代の世界に、神の最も美しいもの、星の冠をいただき月光をまとうマリアを、信仰の世界に反駁できないまことを与えました」

「では、ヨアキムは予言者だったのですか」

「義人でした。ヨアキムが、神に愛されていた魂に、神が現わしたことをこだまのように伝えたのです」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩/上P45

 

その完全さは、神という配偶者の花嫁にふさわしく、神の程度には至らないが、神のように汚れのないものである。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/復活/P110

 

あなたたちの、肉となるみ言葉を迎える心が、どのようなものであるべきかには、生きる模範がある。原罪なくして私を担った私の母マリアである。ヘルモン山の峰が冬の雪のヴェールにまだ包まれている時、どんなに清らかであるか見なさい。

 

 

 

聖母マリアの詩上P111

 

私はいと高きものが、この世にはびこる悪の原因について、私を照らしてくださったので、幼い時から自分を神にささげて、私のできる範囲において、私からサタンの足跡を消そうとしました。私は自分が何の汚れもない者であるのを知らず、そんなことを考えることさえもできませんでした。そんなことは考えただけでも思い上がり、傲慢にすぎなかったでしょう。と言うのは、人間の親から生まれた私は、この私が汚れのないものとなるために選ばれた者であると考えることも許されていなかったのです。

 

 

 

聖母マリアの詩上P70

 

私には、もはや父も母もありません・・・。この二人を失った時の苦しみの中で、私の中に残っていた人間的なことは、どんなに燃え尽くされたか、永遠なるお方だけがご存知です。今、私には神しかありません。そのために、神だけに絶対的に服従します・・・。まだ父と母が生きていたとしても、そうしたにちがいありません。

 

 

 

聖母マリアの詩上P91

 

ヨゼフが

「マリア、私はあわれな無智な人間にすぎず、貧しい労働者でしかありません。学問もなく、財産もない。けれども、あなたの足元に私の宝物として、永久に私の“絶対的”純潔を置きます。“私のいいなずけの姉妹、閉じられた庭園、封じられた泉”神の処女(雅歌4・12)である、あなたのそばにいるにふさわしい者でありますように。私たちの祖先が雅歌を書いた時に、多分あなたのことを書いたのでしょう・・・。私は最も貴重な果物のある香り高い庭園の番人となります。その庭園からやさしく生きる水がほとばしる。」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P283

 

そして今は、私は完全な生贄をもって、また人間に恩寵をもってくるために来たにしても、アダムのわざに対しての裁きは、そのまま残り、それはいつまでも“原罪”と呼ばれるであろう。人間があがなわれ、すべての清めにまさる清めによって洗われるであろうが、凡ての人間は、そのしるしをもって生まれるのである。なぜなら、神が、女から生まれるすべての人にあるべきであるとお定めになったからである。これに例外であるのは、人間のわざによってではなく、聖霊によって造られ、または前もって免除されたもの(聖母マリア)また、前もって聖とされたもの(洗者ヨハネ)だけである。前者は神を産む処女であるためで、後者は救い主の無限の功徳によって、生まれる前に清められて、罪のないものの先駆者となるためであった。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P8

 

 もし聖体が合体を意味するのであれば、マリアは、その全生涯のほとんどを聖体的に生きた。わたしは、人として世に存在する以前に、わたしののうちにいたのだから。人として、もはや世にいなかった時もまた彼女のうちにいることを止めたのではない。わたしたちは、従順がの高みまで聖化された瞬間から、もはや離れたことはないし、わたしは、天使たちのそれにさえなぞらえられぬほど清らかで、わたしを集めているどんな聖体容器もこれほど聖ではないその胎内で肉となったのである。

 マリアの胎に勝る最大の成聖の完璧さがあるのは、の懐のみである。彼女は、三一のの次に、聖人たちの中の聖女である。

もしわたしが、死すべき存在であるあなたたちに、マリアその人の美を見ることを好意的に認めるなら、あなたたちは恍惚のうちに聖化されるだろう。わたしのが何者であるかをあなたたちに語るために比較に耐えるものは宇宙にはない。あなたたちは聖なる者でありなさい。そうすれば彼女を見るだろう。

そしてを見ることが至福者たちの喜びであるなら、マリアを見ることは全天国の喜びである。なぜなら彼女において天使たちの合唱と聖人の群集のみが喜びに浸るのではなく、聖霊が彼女を、その愛の三位一体のこの上無き作品として凝視するのであるから。

 わたしたち二人の間が引き離されていたことはかつてない。彼女は約束されたメシアを待ちつつ、その処女の、無原罪の心の力を傾けてわたしを渇望していた。の深みからわたしを引き付けていた熱望のこの上無く純潔な合体。至福な受胎告知の瞬間から十字架上の死の時に至るまでの最高に生き生きとした合体。

マリアは完全な聖体的霊魂であった。そのを、燃ゆる愛と超天使的純潔と、継続する礼拝でもてなすことを知っていた。わたしを生きていたあの心からどう離れよというのか? 聖体の形色が食べ尽くされた後もわたしは留まっていた。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P121

 

 目を塞いではならない。マリアは、の意志によって、罪の汚れなしに生まれ、この保護は、的確にわたしの到来を準備するために望まれたものだった。しかし特別な意志一つなく、マリアは自然の法則によって結ばれた男女から生まれたのだから。その点では、アダムという原罪の汚れを持つ祖先から出たほかのすべての被造物と異なるわけではない。彼女は旧約時代のほかの多くの人々のように偉大な『義人』ではあったろう。だが、それ以上ではない。もし彼女に原罪があれば、霊魂の生命恩寵彼女のなかで殺されていただろう。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P201

 

 それではどうしてアダムの子孫である女から生まれたイエズスは『死者たちの中の長子』だと言えるのか? たとえ神的受胎によっては彼を生んだとしても、そのは、義人であったとはいえ二人の男女、すなわちアダムから一人ひとりの人間が受け継ぐ原罪により、超自然的生命を欠き、罪に汚れている二人の男女から生まれたのではないか? これぞ多くの人の意義申し立てである。

 その出生からイエズスは二重に『長子』である。なぜなら、すでに超自然的に生きる子らを生めなくなっていたアダムに長子が生まれた時、存在することによって、人がまだ生まれていなかったように生まれたからだ。アダムの子らは、両親がすでに堕落し、三重の色欲にまみれていた時に懐胎され、超自然的生命に対して死んで生まれてきた。そしてアダムとエバ以降、どの父親もどの母親もこのように出産してきた。

 二人共に勝れて義人であったにもかかわらず、アンナとヨアキムもまた、このように出産したのであろう。彼らもまた受け継いだ罪から損害を受けていたし、彼らは単に人間的な普通の在り方でマリアをもうけたのだから。になることを予定されていたマリアの誕生における稀有の出来事といえば、処女の、原罪の汚れから守護された霊魂の、男と女から生まれた万人の霊魂の中で唯一、無原罪であったその霊魂の、未来の使命の観点からが与えた特異な特権による注賦だけであった。

 

 

ふ【賦】[漢字項目]

[音](呉)(漢)
税を取りたてる。租税。「賦役賦税/田賦」
割り当てる。割り当て。「賦課割賦月賦年賦
授け与える。「天賦稟賦(ひんぷ)

 

 

 

 

4.スウェーデンボルグ

 

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP53

 

永遠から存在する神的な人間的なものについて述べよう。究極的のものに至る迄すらも人間となることは父なる神の愛の性質であったのであり、そのことは処女から生まれることによってのみ行なわれることができたのである。

 

 

 

スウェーデンボルグ/真の基督教205

 

処女は真理への情愛を意味した

 

 

 

スウェーデンボルグ/真の基督教199

 

処女達は教会を意味した

 

 

 

天界の秘義2159

 

主に属した人間的なものは母から来ており、かくてそれは脆いものであって、そのもとには遺伝的なものを持っていたのであるが、主はその遺伝的なものを幾多の試練の争闘により征服され、全く斥けられ、かくて母から来ている脆い、遺伝的なものは何一つ残らなくなったのであり、いな、最後には母から来たものは何一つ残らなくなったのである。かくて主は母から来ているものはことごとく脱ぎ棄てられ、それで主御自身もまたマルコ伝(3・32〜35)に言われているように、もはや母の子ではあられなかったのである。

 

 

 

新エルサレムの教義293

 

主が母から得られたその人間性に許容された試練

 

 

 

新エルサレムの教義295

 

主は完全にその人間性を栄化されたとき、母から来たった人間性を脱ぎすてて、父から来ている人間性を、すなわち、神的人間性を着けられた、それで主はもはやマリアの子ではあられなかった。

 

 

 

新エルサレムの教義302

 

主はその神的なもの[神性]それ自身の方面で試みられるはずはなかった(2795,2803,2813、1814番)。それで主は母から弱い人間的なもの[人間性]をとられ、それに試練を許容された(1414,1444,1573,5041、5157,7193,9315番)。

 

主は試練と勝利により母から遺伝したものを凡て斥け、母から得た人間性を脱ぎ去り、ついにはもはやその子ではあられなかった(2159,2574、

 

 

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条について/P75

 

主はいかようにして母から来ている人間的なものを排除されることができたかをまた記すことにしよう―即ち、母から来ている人間的なものは自然に密着している虚弱なものであったのであり、それは悪であるため、地獄に相応していたのである。これが放逐されると、そのときは神的なものに調和しており、それに相応しているものが続いて起こってくるのである。なぜなら身体は人間の霊魂または霊に相応しているものにすぎないからであり、これが遠ざけられるに応じ、天界と相応しているものが存在し、それ故、また、新しいものがそれに代わって植えつけられ、かくて人間は再生し、霊的なものとされ、天使とされるのである。しかし乍ら主は―その霊魂は神的なものそれ自身であられたが、その主は―その身体を主の中に存在する神的なもの、それ自体に相応され、かくて天界以上のものにされたのである。しかし人間にあっては、悪は排除されることは出来ないで、遠ざけられるのみである。

 

 

 

天界の秘義164

 

 人間自身のもの[人間の固有性]は、前に述べたように、悪そのものであり、それが目に見えるように示されると、極めて醜悪なものであるが、しかし主から仁慈と無垢とがその自分自身のものの中へ秘かに注ぎ込まれると、(前の154番に述べたように)善いものとして美しいものとして現れるのである。仁慈と無垢とは自分自身のもの(即ち、人間の悪いまた誤ったもの)を恕すのみでなく、いわばそれを廃棄してしまうのである。例えばそれは小児の中に認めることが出来よう、彼らにあっては悪い、誤ったものは、彼らが両親を愛し、また互いに愛し合い、その幼児の無垢が現れている限り、隠れているのみでなく、快いものでありさえするのである。ここからたれでも或る程度の無垢を持たない限り、天界に入れられることは出来ないことを知ることが出来よう―

 

 小さな子供たちがわたしのもとへ来るままにさせておきなさい、とどめてはならない、神の国はこのような者の国であるからである。まことにわたしはあなたたちに告げる、たれであれ、小さな子供のように神の国を受けない者はそこへは入らない。かれは幼児を抱いて、手をその上に置かれ、彼らを祝福された(マルコ10・14−16)。

 

 

 

天界の秘義252

 

『女』により教会が意味されていることは天界の結婚について前に(155番)言ったことから明白である。天界の結婚の性質はそうしたものであるため、天界は、従って教会はそのもの自身のものにより主に結合していて、それらはそのもの自身のものの中にいるのである。なぜならそのもの自身のものが無くては結合は在り得ないからである。主が慈悲をもってこの自分自身のものの中へ無垢、平安、善を注がれると、(164番に見ることが出来るように)それは依然その同一性を保有してはいるものの、天界的なものとなり、最も幸いなものとなるのである。主から発した天界的な自分自身のものの性質と、自己から発しているため、奈落的なものであり、悪魔的なものである自分自身のものの性質は語ることは出来ない。その相違は天界と地獄との相違に似ている。

 

 

 

 

天界の秘義929

 

「またわたしはわたしが行ったように、生きた物をことごとく再び重ねて打ちはしない」。これは人間はもはや自分自身をそのように破壊することが出来ないであろうということを意味していることは今や明白である、なぜならそれが人間が再生しつつある時の実状であるからである。そのとき彼は彼のもとにある悪と誤謬とから遠ざけられており、またそのとき自分は自分自身から善いことを行い、また真のことを考えているとしか認めていないのである。しかしこれは彼が悪と誤謬から遠ざけられているため(事実彼は強力にそこから遠ざけられているため)、外観または迷妄[妄想]であり、そしてこのように悪と誤謬とから遠ざけられている結果、彼は彼自身を破壊することは出来ないのである。しかしもし彼が万一些かでも放任されるなら、または彼自身に委ねられるなら、彼は悪と誤謬そのものに突入するのであろう。

 

 

 

天界の秘義1581

 

「願わくは、私から離れてください」。これは善はそれと調和しないものが無とされない限り、現れることが出来ないことを意味していることは今しがた言ったことから明白である、即ち内なる人は、外なる人の中にあって、一致していないものがそれ自身を分離させるようにと願っているのである、なぜならそれが分離されない間は内なる人から、即ち主から内なる人を通して絶えず流れ入っている善は現れることが出来ないからである。しかしこの分離については、それは分離ではなくて、静止であることを知らなくてはならない。主を除いては、人のもとでは、外なる人の中にある悪は分離されることは出来ないのである。何であれ人間が一度び得たものはことごとく残るのであるが、しかしそれが静止すると、それは分離してしまったように見えるのである、なぜならそれはそのようになると存在していないように見えるからである。それはまた主によらなくては存在しないように見える程に静止するようになりもしないのであり、それがそのようになって静止したようになると、そのとき初めて善が主から流れ入って、外なる人を感動させるのである。こうしたものが天使たちの状態であり、彼らもまた悪は彼らから分離してしまったとしか考えもしないが、事実はそれに反していて、彼らは単に悪から遠ざけられているに過ぎないのであり、かくて悪が静止して、そのためそれが存在していないように見えているに過ぎないのであり、従って、これは天使もまた反省するとき知っているように、外観である。

 

 

 

天界の秘義1950[]

 

 純粋な合理的なものはことごとく善と真理から、すなわち、天的なものと霊的なものから成っている。善または天的なものはその合理的なものの霊魂または生命そのものであり、真理はまたは霊的なものはそこからその生命を受けているものである。天的な善から発している生命がないなら、合理的なものはここに記されているようなものとなり、即ち、それはすべてのものに反抗して戦い、すべてのものはそれに反抗して戦うのである。合理的な善は、いかに攻撃されても、決して戦いはしない、なぜならそれは[合理的な善は]穏やかで、優しく、忍耐づよく、素直であるからである、なぜならその性格は愛と慈悲のそれであるからである。それでもそれは戦いはしないけれど、すべてのものを征服するのである、またそれは争闘については決して考えないし、また勝利のために誇りもしない、そのことはそれが神的なものであって、それ自身により安全であるためである。なぜならいかような悪も善を襲うことが出来ないからである、悪は善が存在しているスフィア[霊気]の中には存続することすら出来ない、なぜならこれが単に近づいてくるのみで、悪は悪自身によって後退して、後に倒れてしまうからである、なぜなら悪は奈落的なものであるが、善は天界的なものであるからである。天的な霊的なものの場合も、即ち、天的な起原から発している真理の場合も、または善から発している真理の場合も非常にそれに類似しているのである、なぜならこの真理は善により、形作られている真理であって、それは善の形と呼ばれてもよいからである。

 

 

 

天界の秘義2196[]

 

人間は彼が主により悪から遠ざけられて、善の中に維持されるとき、彼のもとには善で正しいもの以外には、否、聖いもの以外には何ものもないと外観から考えはするが、(真理は)それに反して人間の中には悪い、不正な、汚れたもの以外には何ものも存在していないのである。

 

 

 

天界の秘義2307

 

 私は小さな子供たちについて、彼らは成人が持っているような、実際的な悪は何ら持っていないからには、悪から清められているか、いないかと、天使たちに尋ねたのである。しかし私は、彼らも等しく悪の中におり、否、彼らもまた悪以外の何ものでもない、彼らは、凡ゆる天使たちのように、主により悪から遠ざけられて、善の中に置かれており、それが彼らには、あたかも彼らは彼ら自身から善の中にいるかのように見えるほどにもなっているのであると話されたのである。それでまた小さな子供たちは、天界で大人になった後で、自分自身について、自分の中の善は自分自身から発していて主からは発していないという誤った見解を彼らに抱かせないように、彼らが遺伝により受けついだ彼らの幾多の悪の中へ時折入れられて、真理は今言われたようなものであることを知り、承認し、信じるまでその幾多の悪の中に棄ておかれるのである。ある一人の者もまた、彼は幼児の頃亡くなって、天界で成長したのであるが、同じような見解を抱いていたのである、それで彼は彼の中に生まれ乍らに存在していた幾多の悪の生命の中へ入れられたが、その際私は彼のスフィアから、彼は他の者たちを威圧しようとする気質を持っており、淫らな事柄をとるに足らないこととして考えていることを認めることが出来たのであるが、それらは彼がその両親から受け嗣いだ悪であったのである。しかし彼はそれが彼の性質であることを承認した後で、以前彼が共にいた天使たちの間へ再び迎え入れられたのである。

 

 

 

天界の秘義9333[2]

 

『遂い出すこと』は、それが悪と誤謬とについて述べられている時は、遠ざけられることを意味していることは、誤謬と悪とは人間から遂い出されはしないで、遠ざけられるためである。人間が悪と誤謬から解放されることにおける、またはその罪を赦されることにおける実情のいかようなものであるかを知らない者は、罪はそれが赦されると拭い去られると信じるであろう。こうした信念は聖言の文字の意義から来ており、聖言にはこうした表現が時折用いられていて、それが多くの者の心の中に、自分たちは、赦免を受けると、正しく、清くなるという誤りを生み出しているのである。しかしこうした人々は罪が赦される方法については全く何事も知ってはいないのである。即ち、人間はそれらから清められはしないのであり、善と真理との中に留め置かれることが出来る性格を持っている時は、主により罪から遠ざけられるのであり、人間は再生すると、善と真理との中に留め置かれるのである、なぜなら人間はその時〔再生すると〕仁慈の善と信仰の真理の生命を得るからである。なぜなら人間がその最も初期の幼児の頃から、考え、欲し、語り、行うものはことごとくその生命に加えられて、それを作り上げているからである。こうしたものは絶滅されることは出来ないで、ただ遠ざけられるに過ぎないのであり、それらが遠ざけられると、その人間は、罪が遠ざけられているため、罪がないかのように見えるのである(8393、8988、9014番)。人間は人間自身から善い真のものを考え、行うという外観に従って―事実はそのことは人間自身から発しないで、主から発しているのであるが―人間は罪から『清く』なり、また『正しく』なっていると聖言に言われているのである、例えばイザヤ書には―

 

 あなたらの罪は緋のようであったものの、雪のように白くなり、紅のように赤かったものの、羊毛のようになるであろう(イザヤ書・18)。

 

 その他多くの記事。

 

 

 

天界と地獄342

 

 わたしは天使たちに小さな子どもについて質問して、彼らは大人とは異なって、実際に悪は犯していないから、全く悪を持っていないのか、いるのかと言ったが、以下のように言われたのである、即ち彼らも同じように悪におり、実に、彼らもまた悪以外の何ものでもないが(*注3)凡ての天使のように、主によって悪から遠ざけられて、善の中に置かれているため、彼らは彼ら自身によって善にいるかのように彼らには見えるのである。

 

注3.人間はすべて凡ゆる種類の悪へ生まれているため、人間自身のものであるものは悪以外の何ものでもない、210、215、731、874−76、987、1047、2307、2308、3518、3701、3812、8480、8550、10283、10284、10286、10731。それゆえ人間は再び生まれなくてはならない、即ち、再生しなくてはならない、3701。人間の遺伝悪は、自分自身を神よりも愛し、世を天界よりも愛し、ただ自分の利益にならない限り、隣人を自分自身に較べて全くとるに足らぬものとし、かくして自分自身のみをかえりみることから成り、かくてそれは自己と世への愛から成っている、694、731、4317、5660。自己と世への愛が支配するとき、そこから凡ゆる悪が発生してくる、1307、1308、1321、1594、1691、3413、7255、7376、7488、7490、8318、9335、9348、10038、10742。その悪は他を軽蔑することであり、敵意、憎悪、復しゅう、残酷、詐欺である、6667、7370、7374、9348、10038、10742。そしてこれらの悪から凡て誤ったものが発する、1047、10283、10284、10286。それらの愛は、手綱を緩められる限り、まっさかさまに突進し、自己への愛は神の王座さえも渇望する、7375、8678。

 

 

 

 

5.ルイザ・ピッカレータ

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P145

 

「娘よ、私が母に注いだ恵みとその愉悦はこの上なく豊富だった。私が自然に身に備えていたものを私たちの母は恩恵により得ました。母は無原罪であったので、私の恵みは彼女のうちで自由に君臨することができたのです。なぜなら<私の存在>に属するもので、彼女に授けなかったものは何一つなかったから。」

 

 

 

 

6.ベルナルド

 

 

あかし書房/聖母の歌手/P133

 

そのような理由から、天使はマリアに「聖霊が、あなたの上に、“更に”臨み、いと高き者の力が、あなたを覆います」と言ったのです。「いと高き者の力が、あなたを覆います」とは、どんな意味なのでしょうか。それは知る人ぞ知るのです。いと高き者の力で、自分が覆われるということを、自分の体で、じかに体験するという大きな恵みをいただいたマリアだけが、そのことを知っているのです。すなわち、御言葉の受肉の際、だれも近づくことのできない光[御言葉]が、どのようにして、おとめマリアの清いご胎の中に忍び込んだのか、どのようにしておとめマリアは、この永遠の光[御言葉]との接触に耐えることができたのか、また、おとめマリアがそれに耐えることができるようにと、聖霊はどのようにマリアの体の一部分を取って、それをご自分に一致させ、こうして御言葉の肉体を造り、それを生きるものとしたのか、更にどのようにして、マリアの体の他の部分を、ご自分の力で、ちょうど影のように、ベールのように、覆い隠したのか ― このような幽玄な神秘の過程を、自分の知性で理解し、識別できる者は、それをじかに自分の体で受け止めたマリア以外にはだれもいません。

「いと高き者の力が、あなたを覆いましょう」と天使はマリアに言います。

 これから行われようとしている御言葉の受肉の神秘は、聖なる三位一体の神が、ただマリアと二人きりで、ただマリアのうちでだけ行いたいのです。だから、それを理解できる者はただ、その過程を自分の身で、じかに体験する者、すなわち、マリアだけである、ということを天使はマリアに納得させたいのです。

「聖霊が、あなたの上に、更に臨みます」と、天使はマリアに言います。天使はこう言いたいのです。 ― ああ、おとめマリアよ、聖霊の全能の力によってこそ、あなたは身ごもるのです。“いと高き者の力が、あなたを覆いましょう”と、わたしは申しました。その意味は、聖霊の働きにおって、あなたが身ごもるそのマナーは、キリストという名の神の力、神の知恵によって、受肉の神秘の濃い影の中に、秘密のベールで深く覆い隠されているのです。そのため、御言葉のこの受肉の神秘はただ、キリストとあなただけが知ることができるのです。

 つまり、天使はマリアに、こう答えたいのでしょう。 ― おとめマリアよ、どうしてあなたはわたしに、ご自分がまもなく体験しようとしておいでになることを、お尋ねになるのですか。まもなくあなたは、受肉の神秘のマナーを知ることになるのです。まもなくそれが理解できる幸せに巡り会うのです。受肉の神秘がどのように行われるかは、それをまさに行おうとしておられる方が、あなたに教えてくださるのです。わたしですか、わたしはただあなたに、処女懐胎を告げ知らせる使命しかいただいておりません。あなたの処女懐胎を実現する使命はいただいておりません。処女懐胎に関しては、それを実現してくださる方だけが、あなたに実現のマナーを教えることがおできになるのです。また、それが、ご自分の身に実現されるあなただけが、それを教わる資格があるのです。

 

 

 

 

7.汚れ無き道

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/158

 

イエズス・キリストにいたるため、だれかがわたしに、もうひとつ新しい道を作ってくれたと仮定します。さらにこの道は、聖人たちのあらゆるクドクで舗装され、かれらのあらゆる英雄的善徳でかざられ、天使たちのあらゆる光と美で照明され、色どられています。さらにまた、すべての天使、すべての聖人が、道の両側に人がきを造り、そこを通る人々を案内し、敵からまもり、勇気をささえてくれる―そういった新しい道が、ここにあるとします。

 しかし、わたしだったら絶対に、この道は通りません。なるほど、この道はそれなりに、完全な道ではあるでしょう。だが、わたしが選ぶのは、この道ではなくて、マリアという名の“けがれなき道”(詩篇18・30)です。一点のシミもなく、よごれもなく、原罪もなく自罪もなく、影もなくヤミもない“マリア”という道です。

 イエズスが、その栄光を帯びて、世をさばくため、再び地上においでになるとき(そしてそれは確かな事実だが)かれは旅路として、マリア以外のいかなるルートもお選びにならないでしょう。マリアというルートをとおってこそ、イエズスは最初の地上来臨のとき、最も確実に、この世においでになったからです。最初の地上来臨と最後の来臨との間にはムードの面でむろん相違があるでしょう。最初の地上来臨は、人目にかくれて、ひそかに行われました。最後の地上来臨(キリストの再臨)は、栄光に満ち、人目にもサン然たるものでしょう。

 だが、キリストの地上来臨は両方共、完全なものです。両方共、マリアをとおして、行われるからです。これこそは、人間の理解を超える神秘なのです。ここにおいてか、すべての舌は黙すべし。

 

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/168

 

 この道を開発し、まっさきにたどられたかたは、人となられた永遠の知恵、全人類の唯一のかしら、イエズス・キリストなのですから、その神秘体の成員がとおっても、絶対に迷うことはないはずです。

この道は、平坦な道です。

 恩寵に満ちあふれ、聖霊の油そそぎで舗装されているからです。この道さえたどれば、疲れることもなく、後退することもありません。

 この道は最短です。わずかの時間で、イエズス・キリストのみもとに達することができるからです。この道は、完全です。

そこにはチリもドロもなく、罪のけがれのひとかけらすらないからです。

さいごに、この道は、確実です。安全です。この道は、わたしたちを、イエズス・キリストのみもとに、また永遠の生命に、まっすぐに確実に、右にも左にもそれないで、みちびいてくれるからです。

 

 

 

 

8.カテキズム

 

カトリック中央協議会/カトリック教会のカテキズム要約/96

 

「無原罪のやどり」とは何を意味していますか。

 神は、マリアがご自分の御子の母となるように、永遠からマリアを恵みによってお選びになりました。この使命を果たすため、マリアは原罪なしにやどられました。これは、マリアが神の恵みにより、またイエス・キリストの功徳をあらかじめ受けることにより、その懐胎のときから前もって原罪から守られていたことを意味します。

 

 

 

カトリック中央協議会/カトリック教会のカテキズム要約/97

 

マリアはどのように神の救いの計画に協力しますか。

 マリアは、その生涯全体にわたって、神の恵みにより、自分が同意して犯すあらゆる罪から守られていました。マリアは、「恵みに満ちた者」(ルカ1・28)、「まったく聖なる者」です。「いと高きかたの子」(ルカ1・32)を産むであろうことを天使に告げられたとき、マリアは「信仰による従順」(ローマ1・5)をもって自由にこれに同意しました。マリアは、魂を尽くして神の救いのみ心を抱きとめることにより、自分の子イエス自身とそのわざに全面的に自らをささげました。