道
街路/
1.真理
2.教義
3.霊界の道
4.主
1.真理
天界の秘義1928
「シルに行く道の泉のそばに」(創世記16・7)。これはその真理が記憶知から発出するそれらのものから発していたことを意味していることは、『泉』の、また『道』の意義から、同じく『シル』の意義からも明白である。『道』は(前の627番に示したように)真理に導き、また真理から発出しているものを意味している。しかし『シル』は依然荒野の中にあるような、すなわち、まだ生命に到達してはいないところの記憶知を意味している。記憶知から来ている真理は、愛の天的なものが流れ入っている真理に、それ自身を[その真理自身を]結びつける、提携させるとき、生命に到達すると言われている、なぜなら真理の生命そのものはそこから来ているからである。現実の幾多の事柄は、引いては幾多の真理は連結していて、その連結は天界の幾多の社会の連結に似ており、またそれに相応しているのである、なぜなら人間はその内部の方面では一種の小さな天界であるからである。天界の幾多の社会の形に順応して連結されていない現実の事柄は、または幾多の真理はまだ生命に到達してはいないのである、なぜならそのようにならないうちは主から愛の天的なものがそれに流れ入って、適応させることが出来ないからである。それらのものは、その形が両方の側で類似したとき、またはその人間の小さな天界が巨大な天界に相応した形となるとき、始めて生命を受けるのであって、それ以前では、たれ一人天界的な人間とは呼ばれることは出来ないのである。
天界の秘義1928 [2]
御自身から天界全体を統べ治められることになっていた主は、世におられたとき、己が外なる人におけるまたは己が人間的な本質における諸真理と諸善とをこうした秩序に帰せられた[このように秩序づけられた]のであるが、しかし主は最初にみごもったその合理的なものは(前の4節と5節に言ったように)こうした性格を持っていないことを認められたため、その原因を考え抜かれて、記憶知から発生した自然的な真理はまだ生命に到達していなかったことを、すなわち、まだかの天界的秩序に帰せられていないことを認められたのである。さらに、その人間は仁慈の中に生きないかぎり、信仰の諸真理は些かも生命を持ってはいないのである、なぜなら信仰の諸真理はことごとく仁慈から流れ入り、仁慈の中に存在しており、それらが仁慈の中にあり、仁慈から発しているとき、はじめて生命を持つからである。仁慈の中に生命が存在しているが、真理の中には仁慈から分離しては決して生命は存在してはいないのである。
天界の秘義1928 [3]
『シル』はまだ生命に到達していない記憶知を意味していることは、その意義から明白である、なぜならシルは、モーセの書に明白であるように、紅海からあまり遠くない荒地であり、かくてエジプトの方向にあったからである―
モーセはイスラエルを紅海から旅させた、かれらはシルの荒地へ出て行った、かれらは荒地を三日行ったが、水を見つけなかった(出エジプト記15・22)。
それがエジプトの方にあったことはモーセの書にもまた明白であり、そこにはイシマエルの子孫のことが語られている―
かれらはハビラからシルにかけて住んだ、シルはエジプトの前面に向っている(創世記25・18)。
サムエル書にもまた―
あなたがエジプトの前面に向っているシルに来るとき、サウルはハビラからアマレクを打った(サムエル記前15・7)。
さらに―
ダビデはゲシル人を、ギジリ人を、アマレク人をおそった。彼らはあなたがシルへ、エジプトの地にさえも行くおり、その地に昔から住んでいた者であった(サムエル記前27・8)。
これらの記事から、『シル』により最初の記憶知が、事実、依然荒地の中にあるようなものが、またはまだ天界の連合の秩序に順応して他のものと連結していないものが意味されていることを認めることができよう、なぜならエジプトにより―このエジプトの前にシルがあったのであるが―(前の1164、1165、1186、1462番に示されたように)記憶知が意味されているからである。
2.教義
天界の秘義2234
『道』は教義を意味していることは『道』の意義から明白である。聖言では『道』は真理について述べられているが、それは真理は善に導き、また善から発出しているためであり(このことは第一部627番に引用された記事から明白である)、そして『道』は真理について述べられているため、それは教義を意味している、なぜなら教義は、善に、即ち、仁慈に導く凡ゆるものを一つの総合体の中に包含しているからである。
3.霊界の道
神の愛と知恵145
自然の世界に道があるように、霊界にも道がある。一人一人の霊は、自分の支配愛が赴く方向に身を向け、そちらへ進んで行く。
4.主
天界の秘義2016[2]
今私たちが取り扱っている節は神的な本質に結合されることになっていた主の人間的な本質を取り扱っているが、善と真理とはことごとくそのことにより主の神的な本質から主の人間的な本質を通して人間に来ることは、神のアルカナであるが、そのことが把握されないため、僅かな者しかそれを信じていない、なぜなら彼らは神的な善は主の人間的なものが神的なものに結合しなくても人間に到達することが出来ると考えているからである、しかしこのことがなされることは出来ないことは、以下の意味の僅かな言葉をもってすでに示したところである(1676、1990番)、即ち、人間は自らを欲念の中に惑溺させてしまい、その欲念により、また誤謬をもって自分自身を盲目にしてしまい、その誤謬により、至高の神的なものから自分自身を甚だしく遠ざけてしまったため、主が御自身の中にその神的なものに結合された人間的なものを通さなくては、人間の心の合理的な部分の中へ決して神的なものは全く流入することが出来ないのである。主の人間的なものを通して、伝達が行われているのである、なぜならそれにより最高の神的なものが人間のもとへ来ることが出来たからである。このことを主は多くのところに明らかに言われている、なぜなら主は御自分が『道』であり、『たれ一人かれによらなくては父のみもとへ来はしない』と言われているからである。それで以下のことがここに主張されているものである、即ち、主から、即ち、神的なものに結合された人間的なものから、善のことごとくが、また真理のことごとくが発しているということである。