街路

 

 

 

 

天界の秘義2336

 

『街路』が真理を意味していることは、聖言の多くの記事から認めることができよう、例えばヨハネの書の新しいエルサレムが取り扱われているところには―

 

 その十二の門は十二の真珠であり、門の各々が一つの真珠であった、都の街路は純金で、いわば透明なガラスであった(黙示録21・21)。

 

 

 

 

天界の秘義2336[2]

 

『新しいエルサレム』は主の王国であり、その善と真理との方面が記されているのであって、それが『壁』と『門』と『街路』により記されているのである。『街路』により善に導いて行く真理の凡ゆるものが、または愛と仁慈とに導いて行く信仰の凡ゆるものが意味されており、真理はそのとき善のものとなり、かくて善から透明なものとなるため、街路は『金であり、いわば透き通ったガラス』であると言われているのである。

 

 

 

 

天界の秘義2336[6]

 

 

 エルサレムの街路にはなお年老いた男と年老いた女とが住み、都の街路は少年と少女に満ち、かれらはその街路に遊ぶであろう(ゼカリア8・4、5)。

 

 これは真理のいくたの情愛とそこから生まれてくる楽しさと喜びとを語っている(その他、たとえばイザヤ24・11、エレミア5・1、7・34、49・26、哀歌2・11、19、4・8、14、ゼパニア3・6)。

 

 

 

 

天界の秘義2348

 

 エルサレムの街路にはなお老人と老婆とが住み、都の街路はその街路にたわむれる少年と少女で満ちるであろう(ゼカリア8・4,5)。

 

 ここには『エルサレム』は主の王国と教会とを意味し(402、2117番)、『街路』はその中の真理を意味し(2336番)、かくて『老人』は確認された真理を、『老婆[年とった女]』は確認された善を、『街路に遊ぶ少年』は未だ新しい真理を、『少女』は未だ新しい善とその情愛とまたそこから派生している喜びを意味している。

 

 

 

 

天界の秘義9412〔3〕

 

『食べることと飲むこと』が信仰の善と真理とについて教えられることを意味していることは以下の記事から明白である―

 

 その時あなたらは言い始めるであろう、私らはあなたの御前で食べ、また飲み、あなたは私の街路で教えられました、と。しかしかれは言うであろう、わたしはあなたらに告げる、わたしはあなたらが何処から来ているかを知らない、不法を働く凡ての者よ、わたしから離れて去りなさい(ルカ13・26、27)。

 

『主の御前で食べ、飲むこと』は信仰の諸善と諸真理とについて聖言から教えられることを意味し、『街路で教えること』は主の聖言から真理を説き教えることを意味している、なぜなら『街路』は教会の教義の諸真理を意味しているため、説き教えることは以前には街路で行われたからである(2336番)。