母からの遺伝悪

ご託身の理由聖母の無原罪外観の法則

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.マリア・ワルトルタ

4.アグレダのマリア

 

 

1.聖書

 

ローマ8・3

 

肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

天界の秘義1428

 

「ロトも彼と共に行った」。これは感覚的なものを意味していること、『ロト』により感覚的な形体的な人間の方面の主が表象されていることは以下の記事におけるロトの表象から明白であり、そこにはロトはアブラムから引き離されて、天使たちに救われたと言われているが、しかし後になって、彼が引き離された時は、ロトは他の表象を着けたのであって、それについては主の神的慈悲の下に後に述べよう。主は他の人間のように生まれ給うたが、しかし処女である母から生まれ給うたこと、主もまた他の人間のように感覚的な形体的なものを持たれたことは明白であるが、しかし主の感覚的な形体的なものは後には天的なものに結合して、神的なものになされたという事実により主は他の人間とは異なっておられたのである。主の感覚的な形体的なものそれ自身が、またはそれと同一のことではあるが、主の感覚的な形体的な人間が、即ち、それが天的なものにより神的なものに結合した時になったものではなくて、主の子供時代の状態の中にあったような主の感覚的な形体的な人間がロトにより表象されているのである。

 

 

天界の秘義1439

 

6節「アブラムはその地を過ぎ、シケムの所にさえも、モレの樫の木の杜にさえも来た、その時カナン人はその地にいた」。『アブラムはその地を過ぎて、シケムの所にさえも来た』は愛の天的な事柄が主に明らかになった主の第二の状態を意味しており―その愛の天的な事柄が『シケム』により意味されており―『モレの樫の木の杜』は第三の状態を、即ち、『モレの樫の木の杜』である最初の認識を意味し、『カナン人がその時その地にいた』は主の外なる人における母からの遺伝した悪を意味している。

 

 

天界の秘義1444

 

 「カナン人がそのときその地にいた」。

 

これは主の外なる人における、母から遺伝したものを意味していることは主により受け継がれたものについて既に言われたことから明白である、なぜなら主は他の人間のように生まれ給い、母から幾多の悪を受けつがれて、それと戦い、それを征服されたからである。主は最も痛ましい幾多の試練を受けられて、それに堪えられ(この試練については今後主の神的慈悲の下に述べよう)、主はただ独りで、また御自身の力により地獄の全部と戦われた程にも大きな試練を受けられ、それに堪えられたことは良く知られている。たれ一人悪が自分に密着していない限り、試練を受けることは出来ない、悪を何ら持たない者は試練を些かも持つ筈はない、悪は奈落の霊どもが掻き立てるものである。

 

 

天界の秘義1444[2]

 

主の中には凡ての人間の中にあるような、実際のものであり、または御自身のものである悪は何ら存在しなかったが、しかし母から来ている遺伝的な悪が存在したのであって、それがここに『その地にそのとき居たカナン人』と呼ばれているのである。このことについては、前の節に言われたことを参照されたい(1414番)、すなわち、人間には二つの遺伝悪が内在していて、一つは父から、他の一つは母から来ており、父から来ているものは永遠に存続するが、母から来ているものはその人間が再生しつつある間に主により消散させられるのである。しかしながら主の父から来ているその遺伝的な性質は神的なものであったのである。母から発している主の遺伝的なものは悪であり、それがここにとり扱われており、それを通して主が試練を受けられたのである(マルコ1・12、13、マタイ4・1、ルカ4・1、2)。しかし、すでに言ったように、主は現実のものであったところの、または主御自身のものであった悪は持たれなかったのであり、またいくたの試練により地獄を征服された後は、母から来ている遺伝悪を何ら持たれもしなかったのであり、それでここにその時こうした悪があった、すなわち、『その時カナン人がその地にいた』と言われているのである。

 

 

天界の秘義1444[3]

 

カナン人はモーセの書に明白なように、海辺の、ヨルダンの川岸に住んでいた者らであった。偵察者たちは返って来ると言った―

 

  わたしたちはあなたがわたしたちをつかわされた地へ来ました、たしかにそこには乳と蜜とが流れており、これはその果実である。しかしながらその地に住んでいる民は強く、その都はかこいをされていて、非常に大きい。さらにわたしらはそこにアナクの子供らを見ました。アマレクは南に住み、ヒテ人とエビス人とアモリ人とは山に住み、カナン人は海の傍の、ヨルダンの川岸に住んでいます(民数記13・27−29)。

 

 カナン人が海のそばに、ヨルダンの川岸に住んでいたことは母から来ている遺伝的なものといった、そこから発している外なる人の中にある悪を意味したのである、なぜなら海とヨルダン川とは境界であったからである。

 

 

天界の秘義1444[4]

 

こうした悪が『カナン人』により意味されていることはまたゼカリア書に明白である―

 

  その日万軍のエホバの家にはカナン人はもはやいないであろう(14・21)。

 

 ここには主の王国がとり扱われていて、主がカナン人により意味されている悪を征服され、それをその王国から斥けられるであろうということが意味されているのである。凡ゆる種類の悪がカナンの地の偶像崇拝の諸国民により意味されていて、その中にカナン人が含まれていたのである(創世記15・18、19、21、出エジプト記3・8、17、23・23、28、23・2、34・11、申命記7・1、20・17、ヨシュア記3・10、24・11、士師記3・5参照)。各々の国民によりいかような悪が特定的に意味されているかは、主の神的慈悲の下に他の所で述べよう。

 

 

天界の秘義1464

 

「飢きんがその地に甚だしかったためである」。これは主の外なる人の中に非常に欠乏していたことを意味していることは、この節の中で前に述べた『飢きん』の意義から明白である。ここに含まれているアルカナは簡潔には述べることのできないものである。主は他の凡ての人間にもまさって学ぶ力を持っておられたが、しかし他の人間とは異なって、霊的な事柄を教えられたもう以前に天的な事柄を教えられたまわねばならなかったため、そのことがここに述べられているのであり、またそれはさらに、主の外なる人の中には母から来ている遺伝悪が存在していて、それと主は戦って、それを征服したまわねばならなかったという理由によっており、またその他無数の理由によっているのである。

 

 

天界の秘義1573

 

「カナン人とペリジ人はそのときその地に住んでいた」。これは外なる人におけるいくたの悪と誤謬とを意味していることは以下から明白である、すなわち、『カナン人』の意義は(前の1444番に示したように)外なる人における母から来ている遺伝悪であり、また『ペリジ人』の意義はそこから派生した誤謬である(ペリジ人の意義については下記を参照)。主のもとにはその外なる人の中には母から来ている遺伝悪が存在していたことは前に認めることができよう(1414、1444番)、またそこから誤謬が発したことは必然的な帰結であることも認めることができよう、なぜなら遺伝悪の在るところには、そこには誤謬もまた存在しており、後のものは前のものから発しているからである。しかし悪から発した誤謬は人間が知識に浸透してしまうまでは生まれることはできない。悪はその悪がその中へ働きかけるか、または流れ入るかするこの知識以外には何物をももっていないのである、なぜなら意志にぞくした悪はそのようにして知的な部分の中で誤謬に変化するからであり、かくてこの誤謬もまたそれが遺伝的なものであったものから生まれたため、遺伝的なものであったが、それでもそれは誤謬の原理から派生した誤謬ではなくて、外なる人の中に在って、そこに内なる人がそれが誤ったものであることを認めることができたのである。

 

 

天界の秘義1573 []

 

そして主が知識に浸透されたもう以前に、またはアブラムがエジプトに滞在した以前に母から来ている遺伝悪があったため、前章の6節には『カナン人はその地にいた』と言われているが、ペリジ人がいたとは言われていないで、ここには、主が知識に浸透されたもうた後は、『カナン人とペリジ人とはその地に住んでいた』と言われており、ここから『カナン人』により悪が、『ペリジ人』により誤謬が意味されていることが明白である。このことからまたカナン人とペリジ人とは何ら歴史的に連続して記されているのではないことが明白である、なぜなら前に記されていることの中にも、後に記されていることの中にもかれらはいささかもとり扱われていないからであり、このことは前章の6節にカナン人が記されていることについても言われるのであって、このすべてから内意によりなくては知ることのできない或るアルカナがここにかくれていることが明白である。

 

 

天界の秘義1573 []

 

主のもとには母から来ている遺伝悪があったと言われることは驚きをあたえるかもしれないがしかしそのことがここに極めて明らかに述べられているため、主が内意にとり扱われているため、それがそのようであったことは疑うことはできないのである。なぜならいかような人間でも他の人間からは、その人間から悪を取得することなしには、決して生まれることはできないからである。しかし父から派生する遺伝悪と母から派生するものとは異なっている。父から来ている遺伝悪はさらに内なるものであって、永遠に存続している、なぜならそれらは到底根絶されることはできないからである。しかし主は父なるエホバから生まれたまい、かくて内なるものの方面では神的なものであり、またはエホバであられたため、こうした悪は持たれなかったのである。しかし母から来ている遺伝悪は外なる人に属していて、これは主のもとに実際存在したのであって、それが『地の中のカナン人』と呼ばれ、そこから発した誤謬が『ペリジ人』なのである。このように主は他の人間のように生まれたもうて、他の人間と同じく弱いところを持たれたのである。

 

 

天界の秘義1573 []

 

主は母から遺伝悪を取得されたことは主が試練を受けられたという事実から明白である。悪を持っていない者は一人として試みられるはずはないのであり、試みるものは、また人間が試みられる手段となるものは人間の中にある悪である。主は試みられたもうたこと、主はいかような人間も決して堪えることができない一千倍もいたましいいくたの試練を受けられたこと、主はそれらに只一人で堪えられて、悪を、または悪魔と地獄とを御自身の力により征服されたこともまた明白である。これらの試練についてはルカ伝に以下のように記されている―

 

  イエスは霊の中に荒野へ導かれたもうて、四十日悪魔により試みられ、そのためいその日の間は食べられなかった。しかし悪魔は凡ゆ

る試練を終えた後で、しばらくの間主から去った。それからかれは御霊の力をもってガリラヤにかえられた(4・1、2、13、14)。

 

 

天界の秘義1573 []

 

またマルコ伝には―

 

  霊[御霊]はイエスをうながし、イエスを荒野に行かせた。そしてイエスは荒野に四十日おられて、試みられたもうた、イエスは野獣とともにおられた(1・12、13)。

 

 ここに地獄は『野獣』により意味されている。さらに主は死ぬほどにも試みられたもうて、そのためその汗は血の滴となった―

 

  そしてかれは苦しみ悶えて、いや更に力をこめて、祈られた、その汗は地にしたたり落ちる血のしたたりのようになった(ルカ22・44)。

 

 

天界の秘義1573[6]

 

天使は決して悪魔から試みられることはできない、なぜならかれらは主の中にいる間は、悪霊らはかれに遠くからでさえ恐怖と戦慄とに襲われるからである。まして主が神的なものとして生まれたもうたならすなわち、母から悪が主に密着していることなしに生まれたもうたなら、地獄は主に近づくことはできなかったであろう。

 

 

天界の秘義1573[7]

 

同じように説教者たちは主もまた人類の不法と悪を負われたと普通語っているが、しかし主が遺伝的な方法によらなくて、御自身の中に不法と悪とを許容されることは全く不可能である、なぜなら神的なものは悪を受けることはできないからである。それゆえ主は御自身の力により悪を征服されるために―これはたれ一人行うことはできなかったのであり、またはできもしないのであるが―かくて主のみが義となられるために、主はすすんで他の人間のように生まれたもうたのである。このことがなかったならば、主が生まれたもう必要はなかったであろう、なぜなら主は最古代教会から見られたもうたとき、また同じく予言者から見られたもうたとき、ときおり(人間から)生まれなくて、人間の本質をとられたように、人間の本質をとりたもうたことはできたからである。しかし主は悪を身につけて、それを征服し、かくして御自身の中に神的な本質を人間的な本質に連結しようという付加的な目的から世に来りたもうたのである。

 

 

天界の秘義1573 []

 

しかし主は主もまたヨハネ伝に言われているように、現実に行われたところの、また主が御自身のものとされた悪は何一つもたれなかったのである―

 

  あなたらの中たれがわたしを罪があるとして責めますか(8・46)。

 

 今言ったことからアブラムの家畜の牧者とロトの家畜の牧者との間に争いがあったことにより―その言葉はすぐ前に記されているが―意味されていることは今や明白である。その理由は『カナン人とペリジ人とがそのときその地に住んでいた』ということであったのである。

 

 

天界の秘義1816

 

「あなたをカルデアのウルから導き出した」。これは主の外なる人の第一の状態を意味していることは『カルデアのウル』の意義から認めることができよう。主が出生から受けられた母のものは、または母から受けつがれたものはここに『カルデアのウル』により意味されているものである。そのものの性質は前に記したところである。主がいくたの悪と誤謬を、すなわち、いくたの地獄を征服された度毎に、そこから導き出されたもうたものは、この母のものであり、または母から受けつがれたものであったのである。

 

 

天界の秘義2196[]

 

人間はかれが主により悪から遠ざけられて、善の中に維持されるとき、かれのもとには善で正しいもの以外には、いな、聖いもの以外には何ものもないと外観から考えはするが、(真理は)それに反して人間の中には悪い、不正な、汚れたもの以外には何ものも存在していないのである。

 

 

天界の秘義2159〔2〕

 

主はこの人間的なものを脱ぎ棄てられたとき、神的な人間的なものを着けられ、その神的な人間的なものから御自身を、新約聖書の聖言にいくども見られるように、『人の子』ともまた『神の子』とも呼ばれたのであって、『人の子』により主は真理それ自身を意味され、『神の子』により善それ自身を意味されたのであるが、その善そのものは主の人間的本質が神的なものになされたとき、その人間的本質にぞくしたものであった。前の状態は主の卑下の状態であったが、しかし後の状態は主の栄化の状態であったのである(このことは前の1999番にとり扱われたところである)。前の状態では、すなわち、卑下の状態では―そのときは主はまた脆い人間的なものを持たれて、それが主に属していたのであるが―主はエホバを御自身とは別の方として崇拝され、実に僕のようにエホバを崇拝されたのである、なぜなら人間的なものは神的なものに関連すると、それはそれ以外のものではなくなり、それで聖言には『僕』という言葉がその人間的なものについて述べられているのである。

 

 

天界の秘義2265

 

「見てください、ねがわくはわたしはわたしの主に敢えて申します、わたしは塵と灰であります」。これは、人間的なものがその性質の方面で自らを卑下することを意味していることは明白である。人間的なものにおける主の状態(または主の卑下の状態)と、主の神的なもおにおける状態(または主の栄化の状態)とは、前にいく度もとり扱ったところであり、また主はその卑下の状態ではエホバとは他の者と話されるように話されたが、しかしその栄化の状態では御自身と話されるように話されたことも示したところである(1999番)。(前に言ったように)現在の記事ではアブラハムは人間的なものにおける主を表象しているため、人間的なものは神的なものに対しては塵と灰であることが、その状態において言われており、そうした理由からその状態はまた主の卑下の状態と呼ばれている。その卑下は人間は神的なものに対してはこうした正確のものであることを自分自身で承認することから発している。この所における人間的なものによっては神的な人間的なものが意味されてはいないで、主が母から取得されて、徹底的に斥けられ、それに代って神的な人間的なもの[神的人間性]を着けられたところの人間的なものが意味されているのである。『塵と灰』とがここに述べられているのはこの人間的なものについてであり、すなわち、母から来た人間的なものについてである(前の2159番に言われたことを参照されたい)。

 

 

天界の秘義5041

 

人間の存在そのものは、引いては、人間の生命の最も内なるものは父から発しており、その着物または外部は母から発しており、それで主の生命の最も内なるものはエホバ御自身であったため、神的なものであり、着物または外部は人間的なもの[人間性]を作り、それを主は出生より母から得られたのである。この人間的なものは試練を受けることができる底のものであった、なぜならそれは母から来ている遺伝悪で汚れていたからである、しかしその最も内なるものは神的なものであったため、主はその母から来ている悪い遺伝性を御自身の力により放逐されることができたのであり、そのことは継続的にいくたの試練により為され、ついには、最後の試練である十字架の試練により為され、その最後の試練のとき、主はその人間性を完全に栄化され、すなわち、それを神的なものとなされたのである。このことから神的なものが主の中に在ったという所説により意味されていることを認めることができよう。

 

 

3.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音1巻下P240(29・10)

 

わたしは、神が私に知らせようとなさったことのみを一途に知ろうとし、自分自身に、あるいは神に対して、自分に言われたこと以外何一つ尋ねず、暴飲暴食、知識欲、所有欲に打ち勝ちました。何やかやと詮索せずに、わたしは信じました。わたしが快楽の暴飲暴食に打ち勝ったのは、味覚に耽溺することを一切拒否したからです。わたしは自分の肉を足の下に置きました。サタンの道具である肉を、天に上る階段とするために、わたしはサタン諸共踵で踏みつけました。 天! それはわたしの目的です。神が在したのはあそこです。わたしの唯一の渇望です。食い意地ではなく、神に祝福される必然の飢えであり、彼はわたしたちが彼に飢え渇くことを望んでおられます。

 

色欲にわたしは打ち勝ちました。色欲は大食に至る貪婪です。抑制されない悪癖は、より大きな悪癖に導くからです。エバの貪欲は、すでにそれだけでも咎められるべきですが、さらに彼女を色欲へと導きした。一人で満ち足りるだけでは済まなくなりました。自分の犯罪を、計算された強度にまで押し進めようとし、伴侶の色欲の師となりました。わたしは状況を逆転させ、下降する変わりに常に上昇しました。わたしの連れ合いである誠実な男を、下降させる代わりに常に高みへと引き上げ、彼を天使にしました。

踵(かかと)

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ(ロスキーニ「聖母マリア」)/エピソードで描くマドンナの肖像/天使館/霊のパン/2008.10/3号/P55

 

しかし、サタンによってアダムとその子孫に注入された欲望のすべてを贖う必要があった。これを成就するためには、あなたたちのすべての過ちのために生贄となるものは、あなたたちと同等の特性を持つ必要があった。

 

 

 

4.アグレダのマリア

 

アグレダのマリア/神の都市/P138

 

御母は永遠なる御父に向かって言いました、「全宇宙の崇められる創造主よ、御身に御目に叶ういけにえと祭壇がここにあります(マラキ3・4)。今より、人類に慈悲をお与え下さい。人類が御身の御怒りを受けることになっているのと同様、御身は御子と私により宥められます。御身の審判が中止され、御身の慈悲が私たち人類に与えられますように。御言葉が罪に染まった肉体をまとい(ロマ8・3)、人間が罪人の兄弟になったので、私は主の兄弟たちのために心より仲介致します。主よ、御身は無価値の私を御身の御独り子の母にして下さいました。私が母となったのは人類のためですから、人類に対し、私は愛することをやめませんし、人類の救いのため世話をし、見張りをすることをやめません。永遠の神よ、私の懇願を受入れて下さい。」