最後の審判(私審判)
人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき(マタイ25・31)/
1.聖書
2.一瞬の間に一生を見る
3.行いによって裁かれる
4.自己愛から出た善業
5.トマス・ア・ケンピス
6.木は倒れた所に横たわる
7.キリストを信じる人は、もう裁きが済んでいる
8.人間は神について考え、信じているその性質について調べられる
1.聖書
ヨハネ3・18−19
御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。
光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。
ヨハネ5・24
はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
2.一瞬の間に一生を見る
マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P36
死は刻々と進み、思いもよらない人をとらえます。それだけでなく、まだまだ寿命の長い人々でも、刻一刻と死に近づいています。永遠に比べれば、時は一瞬の稲妻に等しく、死に至れば、だれよりも長い生涯であっても空しいものになります。そして、何十年も前の幼いころからのできごとが、口をそろえて『ほら、これは昨日したことです』と呼びかけます。昨日!人が死ぬ時には、何でも昨日です。
人が手に入れようとして血のにじむ思いをした名誉や黄金は塵にすぎない! それを手にするために狂乱した果実でも、いつかその味を失う! 女か? 財産か? 権力か? 学問か? 何が残っているか? 何にも! 神の裁きの御前に良心が現れるときには、人間のさまざまな保護すべてがはぎ取られ、何の富もなく貧しく自分の行ったことしか持っていません。
サンドロ・ニョッキ/神さまの声が聞こえるP17
「それは映画館の入口でした。入場無料で、誰でも自由に入れました。観客がほぼ集まっていました。上映シーンは私の全生涯でした。
一瞬の間で私の一生を見たのです。行いの一つ一つを意識し、その一つ一つの行動の時間や場所を見ました。そのときの、私の行動の意図も見えたのです。すべてのことは意識から出ていて、誰かが何かを反対したとしても、否定したり自分を正当化したりすることは絶対にできないということを、私は知っていました。すべての私の生活の一つ一つの行動は、私自身の完全な認識からのものだったからです。」
ヴァッスーラ/私の天使ダニエル/PXXIX
清め
天使は依然としてとても深刻な表情で戻ってくると、私が神を大変悲しませた生涯のある行為を咎めました。また神の与えられた恵みを突き返し、全然ありがたいと思わなかったことも。
これを手始めに、まだ認めていない罪を次々と思い出させ、示しはじめました。あたかも画面に映っているように。その出来事と、どんなに神が悲しまれたかを。けれど一番大きい咎めは、神の恵みを拒んだことでした。恵みを拒んで無駄にすることは神に大きく背くことだと天使は言います。これらの罪は、私の目でなく神の目を通して見えたのです。ぞっとするほど醜く、自分を軽蔑するあまり激しく泣きました。あとで分かりましたが、こんな状態におかれたのは本当は神からの恵みで、心から悔い改めができるためなのです。罪がはっきりと示され、霊魂の内側が表にさらされ、まるで自分が裏表になったようでした。その時突然、アダムとエワが罪を犯した後、神が光の中を近づいて前に立たれたときの感じが分かりました。霊魂は覆いが除かれて見える状態になり、むきだしで、むかつくような醜い感じなのです。それで泣きながら、合間合間に天使に向って、こう言うしかないのでした。―こんなふうにどうしようもなく“わる”だから、私なんかまともな死に方にふさわしくない、死んでズタズタに裂かれてハイエナの餌食になっても仕方ない、と。
この清めは一週間近く続いたに違いありません。ちょうど火にたとえられ、霊魂の内面を掃き浄める炎のようで、本当に辛い経験でした。
ヴァッスーラ/あなたは預言を無視しますか/P27
さっぱり理解できなくて、本を閉じてしまいました。神はその時に、こう言おうとなさいました。「おまえは完全に闇の中にいる。おまえにはなにも見えない」。それで守護の天使は、私に浄めの儀式をしました。恐ろしいものでしたが、その儀式のおかげで自分は本当はどんな人間だったのか分かりました。彼はそうやって、私が懺悔したことのない罪を思い出させ、明らかにしようとしたのです。天使はスクリーンに映写するように、それらの罪を見せました。一つひとつの出来事を挙げて、それらがどんなに神を侮辱するものであるかを思い起こさせました。ところで最も容赦なく非難されたのは、神からの恵みを拒絶したことでした。守護の天使は、私たちの目ではなく、神の目がご覧になった私の罪を見せたのです。それがあまりにも醜悪だったので、痛恨の涙を流しながら、わが身を軽蔑しました。その時の私の状態は、あとで分かったことですが、真剣に悔い改めるための神からの恩寵だったのです。私は自分の罪を、クリスタルガラスのようにはっきり示され、霊魂の内面をあからさまにされたので、まるで自分が完全に裏返しにされたかのようでした。不意に、罪を犯したアダムとイヴが、光りの中を神が眼の前まで近付いてこられたときに感じたような体験をしました。私の霊魂は覆いをのぞかれ、明らかにされました。自分が素っ裸で、ぞっとするほど醜く、嫌悪をもよおさせるものであるように感じました。私は嗚咽の合間に守護の天使に、自分は人並みの死に方にさえも値しないくらいおぞましい人間なので、死んで切り刻まれ、ハイエナに投げ与えられなければならないと言うのがやっとでした。この浄めの儀式は、ほぼ一週間続かねばなりませんでした。それは火のような感じでした。霊魂の内面を浄化して、清める火のようで、もちろん辛い体験でした。
天界の秘義2483
たれかが自分はそのようなものでないと申し開きをしようとすると、このようなものが、実に当時の実情のすべてとともに、そのあるがままにもち出されてくるのである。
天界の秘義4809
人の子がその栄光の中に来るとき
は、神的真理[神の真理]がその光の中に現れるときを意味しており、そのことは人間各々のもとにその者が死ぬ時起るのである、なぜならかれはそのとき天界の光の中へ入って、その光の中で真で善いものを認めることができ、そこから自分の性質はいかようなものであるかをも認めることができるからである。
3.行いによって裁かれる
天界の秘義4663
内意を知らない者はこれらの言葉は全世界の凡ての者が主の前に集められて、審かれる最後の日に主により或る者らについて語られたのであり、またその審判の方法は文字に記されているそのままに行われるであろう、すなわち、主は審かれることになっている者たちを右手と左手とにおかれ、かれらにそのたとえにあるように語られるであろうと考えないわけにはいかないのである。しかし内意を知っており、また聖言の他の記事から、主はたれをも永遠の火に審かれはしないで、人各々が自分自身を審くのであり、すなわち、自分自身をその中へ投げ込むことを学んだ者は、また人各々の最後の審判はその者が死ぬ時起ることを学んだ者は、これらの言葉が全般的に意味していることを或る程度知ることができよう。そして内意からまた相応からその言葉の内的な意味を知っている者は、その言葉が特定的に意味していることを、すなわち、他生では人間各々は世で送ったその生活に応じて報いを受けることを知ることができよう。
天界の秘義4683[2]
そしてかれらはさらに信仰を仁慈から切り離そうとして、また、前の生活はいかようなものであろうと、ただ一瞬でも、それが生命の最後の瞬間の信頼であっても救うと主張はするが、それでも人間各々の生命は死後もその者のもとに存続しており、人間各々はその生命の業に従って審かれることは知っているのである。
キリストに倣いて/1・3・5
まことに、審判の日に私たちが尋ねられるのは、何を読んだかということではなく、何をしたかということであり、いかに雄弁を揮ったかということではなくいかに信仰厚く生活(くら)したかということである。
4.自己愛から出た善業
サンドロ・ニョッキ/神さまの声が聞こえるP18
「秤り(裁判所を象徴する天秤皿のような)が地上から一メートルくらいの高さで私の方へ進み、地面から少し離れた道路の右側の近距離のところで止まりました。(中略)今度は、丸石のようなものが現れました。小さな石のようなものではなく、私の全生涯で犯した全部の大きな罪を意味していました。それが秤りの皿に落ちました。(中略)そのすぐあとに、ほぼ同じ大きさの丸石が地平線のところから現れ、同じ方向から秤りに近づいてきました。
(中略)もう一つの石は私のすべての善い行いで、悪い行いとほぼ同じ大きさのように私は思えたのです。(中略)
しかし現実は、ちょっとちがっていました。私のした善い行いの石は、結果的に自分を良く見せようとする傲慢から出たもので、それは他の人から評価されたいと思ったり、自分の良心の呵責を静めようとするところから出たものでした。私自身のためにやったことで、神様のためのものではなかったのです。それでその善行は悪行よりも劣ってしまって、大きな罪の皿の上にその善行までもが付け加えられる始末となってしまったのです。」
聖ヴィアンネの精神P54
私共はいつも二人の秘書を持っています。一人は悪魔で、審判の日に、私共を非難するために、悪行を記録しています。いま一人の秘書は天使で、私共を弁護するために、善業を記録しています。私共の行為がすべて記されるとき、素晴らしい行為の中にさえ、神様の聖心に適う行為は何と少ないことでしょう。沢山の自己愛から出る考え、単に人間的な満足、感覚的な快楽、打算等、これらがごちゃごちゃと混ざっています。これらは外見はよいものです。しかし、外観にしかすぎません。虫に食われて、黄色く熟しているように見える果実のようなものです。
5.トマス・ア・ケンピス
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・24・1
万事に終わりを思い、また、どうしてきびしい審判者の前に立とうかと考えよ。かれには何事も隠すことができず、かれは賄賂で手加減もせず、弁解もききめがなく、ただ正義に従って審判したもうばかりである。
ああ、あわれなおろかな罪びとよ、あなたはあなたの罪をことごとくご存じの神に向かって、なんとお答えするつもりか? あなたは立腹した人間の顔すらこわがるではないか?
なぜあなたは審判の日に対して準備しないのか? その日にはだれも他人にわびてもらったり、弁護してもらったりすることができず、めいめい自分の重荷だけで精いっぱいなのである。
いまはあなたの働きもまだききめがある。あなたの涙も神によみされる。あなたの嘆息も聞き入れられる。あなたの痛悔も罪を償い、これを清めることができる。
6.木は倒れた所に横たわる
神の摂理277(a)
人間は改良されるためには悪から導き出されねばならぬことは明白である、何故ならこの世で悪に在る者は世を去った後もその状態に止まり、それ故もし悪が世で取り除かれないならば、それは後になっても取り除かれることはできないからである。木は倒れた所に横たわるように、人間の生命もまた、人間が死ぬと、同じ性質を以って存続する。さらに人間は凡てその行為に従って審判される、それはその行為が彼に持ち出されるのでなく、彼は再びその行為に帰り、以前行ったように行い続けるからである。何故なら死は生命の継続であって、ただ人間はそのときは改良されることはできないという相違があるに過ぎないからである。改良は凡て完全に行われ、すなわち、第一原理と究極部とに同時に行われるのであり、究極部は、人間が世にいる間に、第一原理に応じて改良されるが、その後には改良されることはできない、何故なら人間が死後携えて行く生命の究極部は静止して、彼の内部に一致するようになり、すなわち、二つは一つのものとして活動するからである。
7.キリストを信じる人は、もう裁きが済んでいる
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/6巻上/376.11/P192
でも、ラザロ、元気を出しなさい。キリストを信じる人は、もう裁きが済んでいます・・・
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3./P336
「けれども病気、死、災い、悲惨な出来事が続き、皆に見捨てられる時、信、望、愛を忘れず、『いとも高き御方の望みが実現されますように。今起きていることは私にとって有益です』と変わらず言える人こそ、まことに言うが、神の助けを受けるに値するのみならず、神の国での住まいが用意され、もはや清めを必要としない。」
8.人間は神について考え、信じているその性質について調べられる
スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP58
新しいエルサレムと呼ばれる新しい教会の教義の本質的なものは、主についてはこのことであり、その中にいることを望む者はそのことを承認するのである、なぜならこの教会はキリスト教そのものであるからであり、そして一人の神を、かくて主のみを考え、信じる者を除いてはたれ一人天界へ入れられはしないことを知らなくてはならないのである。人間は神にかかわるその告白に順応して天界へ入ることを許されることを知らなくてはならないのであり、人間は神について考え、信じているその性質について調べられるのである、なぜならその告白を通して連結が生まれるからであり、連結が生まれるとき、細々したことにおいて明るく示されるのである。愛の、また信仰の凡ゆるものはそのことにかかっているのであり、それ故、神を否定する者らは地獄にいるのは、分離が起こるためである。それ故、最初の、主要なことは神を知り、承認し、信じ、愛することであり、他の凡ゆることはこのことに依存しているのである。