生命の書
記憶/
1.聖書
2.スウェーデンボルグ
3.ジャン・マリ・ヴィアンネ
4.ヴァッスーラ
5.サンダー・シング
1.聖書
出エジプト記32・31−33
モーセは主のもとに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」主はモーセに言われた。「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。」
マラキ3・16
そのとき、主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が書き記された。
黙示録13・5−8
この獣にはまた、大言と冒涜の言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。そこで、獣は口を開いて神を冒涜し、神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒涜した。獣は聖なる者たちと戦い、これに勝つことが許され、また、あらゆる種族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威が与えられた。地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。
黙示録17・8
あなたが見た獣は以前はいたが、今はいない。やがて底なしの淵から上って来るが、ついには滅びてしまう。地上に住む者で、天地創造の時から命の書にその名が記されていない者たちは、以前いて今はいないこの獣が、やがて来るのを見て驚くであろう。
黙示録20・11−15
わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。
黙示録21・22−27
わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。
2.スウェーデンボルグ
天界の秘義2256[2]
このことはいかようになっているかは、例えそれを知る人は幾人かいるにしても、僅かしかいはしないのである。人間が幼少の頃からその生涯の終わりにさえ至る迄考え、行った善はことごとく残っており、悪もことごとく残っており、かくてその最小のものさえも完全には死滅しないのである。その両方のものは彼の生命の書に(即ち、彼の記憶の各々の上に)また彼の性質の上に(即ち、彼の生来の性向と資質に)記されているのである。これらのものから彼は彼自身で生命をまたいわば霊魂を形作っており、それは死後もそれに相応した性質を持っているのである。しかし善は悪に、また悪は善に、それらが分離することができないほどに混合はしないのである、なぜならもしその両方のものが仮にも混合でもするなら、その人間は永遠に死滅するからである。このことについては、主はその摂理を働かせられて、人間が他生に入って来ると、もしその者が愛の善と仁慈の善の中に生きていたならば、そのときは主はその者の悪を分離されて、その者のもとにある善いものによりその者を天界へ挙げられるのである。しかしその者が悪の中に、即ち、愛と仁慈に反したものの中に生きたならば、そのときは主はその者から善いものを分離され、かくてその者の悪がその者を地獄に連れて行くのである、これが死後の各々の者の運命である、しかしそれは分離であって、決して完全な除去ではない。
天界の秘義2474
何であれ人間が聞いたり、見たり、また心を動かされるものはすべて、その観念[考え]と目的は、人間には知られぬままに、その者の内的な記憶の中へ注ぎ込まれてそこに残っており、何一つ死滅はしない、たとえ外的な記憶内ではそのものは消滅してしまうけれど。それで内的な記憶はそのようなものであるため、その上には単一のものもことごとく、否、人間が一度び考えもし、語りもし、行いもした最も単一的なものですらも印刻されており、否、人間に、その者の幼少期の最初から老年の最後にいたるまでも、単に蔭のようなものにも思えたものすらも、その最も微細なものと共に印刻されているのである。
こうしたすべてのものの記憶を人間は他生に入るとき己がもとに持っていて、徐々にそれらのものを完全に思い起こすようになるのである。これがその者の生命の書であり、それが他生で開かれて、それに従って彼は審判かれるのである。人間は殆どそのことを信じることは出来ないが、しかしそれは極めて真である。
彼には明らかなものではなかった凡ゆる目的が、彼が考えた凡ゆるものが、そうしたものから彼が考えもし、行いもした凡ゆるものが、その最小の一点に至るまでもその書物のうちに、即ち、内的な記憶の中に存在しており、主が良しとされるときはいつでも天使たちの前に白日の中にあるようにも明らかにされるのである。このことは幾度も私に示されもし、また多くの経験により些の疑念も残っていないほどにも証明されているのである。
天界の秘義10468
聖言の内なるものと外なるものと言うも、または単に内なるものと外なるものと言うも、ここではそれは同じことである、なぜなら聖言は神的な真理[神の真理]であり、そこから人間は認識を得ており、ここではそのイスラエル国民のもとに、礼拝であれ、または教会の凡ゆるものであれ、または聖言の凡ゆるものであれ、その中に存在したような外なるものについて認識を得るのである。外なるものについて認識することはことごとく内なるものから発していることを知られたい、なぜなら外なるものの中に存在するものは内なるものから認められることは出来るが、外なるものからはその外なるもの自身の中にあるものは認められることは出来ないのであり、ましてや外なるものからは内なるものの中に在るものは認められることは出来ないからである。ここから内なるものを欠如した外なるものの中にいる者らは内なるものを感じもしないし、見もしないため、それを承認はしないのであり、またそれを否定し、それとともに、天界の、神的な事柄を否定する者もいるのである。
天界の秘義10505
「もし赦されないなら、願わくはあなたが書かれたあなたの書から私を消し去ってください」(出エジプト記32・32)。これは、聖言と教会と礼拝の内なるものは死滅はしない、を意味していることは以下から明白である、即ち、これらの事柄を言うモーセの表象は聖言と教会と礼拝の内なるものであり(そのことについては10468番を参照されたい)、『あなたが記された』の意義は主から発しているそこに在るものであり―なぜなら『書[書物]』により内なるものの中に在るものが意味され、『書くこと』により、それがエホバ、即ち、主について言われているときは、主から発してそこに在るものが意味されているからである―『そこから消し去ること』の意義は死滅することであるが、しかしここでは死滅しないことである、なぜなら『わたしに向かって罪を犯した者、その者をわたしはわたしの書から消し去ろう』と答えられており、それにより、聖言と教会と礼拝の内なるものは死滅しないが、しかし神的なものから離反する者らは、死滅し、かくて内なるものを欠如した外なるものの中にいる者らは死滅してしまう、が意味されているためである。
エホバにより書かれて、次の節では『わたしの書[書物]』、またはエホバの書と呼ばれ、他の所では『生命の書』と呼ばれている書物が内なるものを意味していることは、人間の内なるものは天界の中に在り、かくて主がおられる所に在り、従って人間の内なるものの中に存在しているものは主から天界を経て発しており、その凡ては神的な、天的な、また霊的なものであるためである。これらのものは人間の内なるものにより受け入れられることは出来るが、内なるものから分離したその外なるものによっては受け入れられることが出来ないのである、なぜなら外なるものは世の中に在り、世の中に存在している自然的なものを、即ち、内なるものを通して注がれる流入がないなら天界の生命を持ってはおらず、従って死んだものと呼ばれる自然的なものを受け入れるように形作られているからである。
天界の秘義10505[3]
この凡てから聖言に『生命の書』により意味されていることを、また『この書に記された』と言われている者たちのたれであるかを認めることが出来よう、即ち、真理と善との生命の中におり、かくて、愛と信仰から神の戒めを行う者たちが意味されているのである。なぜならこの戒めに従った生命[生活]が内なる人を開いて、それを形作り、その内に書き込まれるものは主により書き込まれ、永遠に存続するからである。これらの者が以下の記事の『生命の書に記された者たち』により意味されているのである―
その時あなたの民は、書に記されてあるのを見られる者はことごとく救われるであろう(ダニエル12・1)。
勝つ者は白い衣服を着せられ、生命の書からその者をわたしは消し去りはしない(黙示録3・5)。
小羊の生命の書に記されている者たちを除いては、たれ一人新しいエルサレムに入りはしない(黙示録21・27)。
私はその書が開かれるのを見た、他の一つの書が開かれた、それは生命の書である、死んだ者はその業に従って、その書に記されたものから審判(さば)かれた。そしてもしたれでも生命の書に記されていないのが見られたなら、その者は火の湖に投げ込まれた(黙示録20・12、15)。
その名が小羊の生命の書に記されていない者は凡てその獣を崇めるであろう(黙示録13・8、17・8)。
その他。
黙示録10505[4]
内なる人の中に記されたものはすべて主により記されており、そこに記されたものは人間の霊的な天的な生命を作っており、またそこに記された一切のものは愛の上に記されていることを知られたい(2474、8620、9386番をまた参照されたい)。
天界の秘義10506
「エホバはモーセに言われた、わたしに向って罪を犯した者、その者をわたしはわたしの書から消し去りましょう」(出エジプト記32・33)。これは神的なもの[神]から自らを離反させる者らは死滅してしまう、という答えを意味していることは以下から明白である、即ち、『エホバはモーセに言われた』の意義は答えであり、『エホバに向って罪を犯すこと』の意義は神的なものから己が自己を離反させることであり(前の10498番を参照)、『エホバの書から消し去られること』の意義は天界に現れないことであり、かくて霊的な生命の方面で死滅することである。このことが『エホバの書から消し去られること』により意味されていることは内なるものから分離した外なるものの中にいる者らは天界からは何ものも受けることが出来ないためである、なぜなら、天界から受けるものは内なるものであり、内なるものを欠如した外なるものは地獄以外のいかような源泉からも受けはしないからである。(人間における天界はその内なるものの中に在り、内なるものの中に在るものは主から天界を経て発していることは、すぐ前の10505番に見ることが出来よう。)
啓示による黙示録解説867
「その幾多の書物が開かれ、また生命の書物である他の一つの書物も開かれた」は、彼ら凡ての者の心の内部が明らかにされ、天界から光と熱とが流入することにより、愛または意志から生まれる幾多の情愛の方面の、引いては信仰または理解から生まれる幾多の思考の方面の彼らの性質が、即ち、善良な者の性質のみでなく、邪悪な者の性質も見られ、また認められたことを意味している。『幾多の書物』により書物が意味されていないで、審判される者たちの心の内部が意味され、『その幾多の書物』により、悪い者であって、死に審判される者たちの心の内部が意味され、『生命の書』により、善い者であって、生命へ審判される者たちの心の内部が意味されている。それが『書物』と呼ばれるのは、各々の人間の心の内部にはその者が考え、意図し、話し、意志または愛から、引いては理解または信仰から世で行った凡ての事柄が印刻されており、凡てこれらの事柄は、その一つも欠けないほどの正確さをもって、各々の人間の生命に印刻されているためである。凡てこれらの物の性質は、主から発している知恵である霊的な光と、主から発している愛である霊的な熱が天界を経て流れる時、そのあるがままに現れるのである。霊的な光は理解と信仰とに属している思考を明らかにし、霊的な熱は意志と愛とに属している情愛を明らかにし、霊的な光は霊的な熱と共になって意図と努力とを明らかにしている。これが事実であることを、合理的な人間はその者自身の理解の光から認めることが出来るとは私は言いはしないが、しかし彼は理解を明るくする霊的な光が与えられており、意志を燃やす霊的な熱が与えられていることを進んで理解しようとしさえするなら、もしそのことを認めたいと欲するなら、認めることが出来よう。
啓示による黙示録解説874
「もしたれでも生命の書の中に記されていないのを明らかにされたなら、その者は火の湖の中へ投げ込まれた」(黙示録20・15)は聖言における主の戒めに従って生きないし、主を信じもしなかった者らは罪に定められたことを意味している。『生命の書』により聖言が意味され、『その書物から審判されること』により聖言の諸真理に従って審判されることが意味されることは前に見ることができよう(256、259、295、303、309、317、324、330番)、聖言の主の戒めに従って生き、主を信じた者以外にはたれ一人生命の書に記されていないことが明らかにされるのであり、それでこのことが意味されている。聖言における主の戒めに従って生きない者は罪に定められることを主はヨハネ伝に教えられている―
もしたれでもわたしの聖言を聞いて、信じないなら、わたしはその者を審きはしない、その者にはその者を審くものがある、わたしの語った聖言、それが最後の日にその者を審くであろう(12・47−48)。
主を信じない者は罪に定められることもまたヨハネ伝に教えられている―
子を信じる者は永遠の生命を得る、子を信じない者は生命を見ない、神の怒りがその者の上に止まっている(3・36)。
啓示による黙示録解説925
「子羊の生命の書に記された者(のみが入るであろう)」(黙示録21・27)は、主を信じて、聖言における主の戒めに従って生きる者を除いては何人も新しいエルサレムである新しい教会には受け入れられはしないことを意味している。このことが『生命の書に記されること』により意味されていることは前に見ることができよう(874番)、これにさらに何かをここに附加する必要はない。
神の摂理227(イ)
「人間がその意志を自由に働かせて、考え、語り、為すものは凡て、善であれ、悪であれ、彼の性質の中に取入れられて、彼の中に永遠的なものとなる」。
このことは前に証明された(78−81)。なぜなら人間には外なるまたは自然的な記憶と内なるまたは霊的な記憶があるから。その霊的な記憶には彼が世で慎重に選んで考え、語り、為した物が凡て全般的にまた個別的に刻み込まれており、それはその一つも欠けていないほどに完全に刻み込まれている。この記憶が死後開かれる彼の生命の書であって、これに従って彼は審判される。この記憶について、実際経験から得られた他の多くの事実が「天界と地獄」を取り扱った著作に述べられている(461−465)。
天界と地獄236
このことから、天使たちは他の者の性質を、それがいかようなものであるかを、単にその言葉から知るのである、即ち、その者の情愛のいかようなものであるかは、その語調から知り、その者の心のいかようなものであるかは、発音された音、または語から知るのである。賢明な天使たちは、その者を支配している情愛のいかようなものであるかを、ただ一連の言葉からでも知っている、なぜなら彼らは主としてそれに注意を払っているから。各人は種々の情愛を持っていることは知られている、即ち喜んでいる時とか、悲しんでいる時とか、寛大と慈悲を抱いている時とか、誠実と真実である時とか、愛と仁慈にいる時とか、熱意または怒りを持つ時とか、偽り、欺く時とか、名誉を求める時とか、そういった時の情愛は、それぞれ異なってはいるものの、しかしその者を支配している情愛または愛はそうした情愛凡ての中に存在しており、それで賢明な天使たちは、そのことを認めているため、その言葉から人間の状態の凡てを知るのである。それがそうであることは、私は多くの経験から知ることが出来たのである。私は天使たちが他の者の生命をただその者の言葉を聞くのみで明らかにするのを聞いた。彼らはまた言った、私たちは他の者の思考の僅かな観念からでも、その者の生命の凡ゆる物を知るのである、なぜならその観念から私たちは、その者を支配し、凡ゆる物を秩序正しく含んでいる愛を知るからであり、人間の生命の書とはそれ以外のものではない、と。
天界と地獄462
人間は世からその凡ての記憶を持って行くことは多くの方法で示されたのであり、私はそのことについて記すに価した多くの事を見もし、聞きもしたが、その中の幾つかを順序を追って述べてみよう。世で行った犯罪と悪行とを否定した者らがいたが、それらを否定しているということで汚れのない者であると信じられないように、その最も幼い年からその最後の年にまで至る彼らの行為の凡てが彼らの記憶から順を追って明るみに出され、また列挙されたのである。それらは主として姦淫と淫行であった。邪悪な手段で他を欺いて、盗みを働いた者もいて、その詐欺と窃盗もまた次々と数え上げられたが、その多くは、その当人にのみ知られて、世では殆ど誰にも知られていなかったものである。彼らもまたそれらを承認した、なぜならそれは、当時彼らの心を占めていた凡ゆる思いや、意図や、快楽や、恐怖とともに白日におけるように明らかにされたからである。賄賂を受け入れて、裁判で利得を得ていた者もいたが、彼らも同じようにその記憶から調べられ、そこから彼らの務めの最初の時期から最後の時期までの凡ゆる事柄が数え上げられた。彼らは何を、またいかほど受けたかについて細々としたことが凡てて数百の数に至るまでも、その時期と彼らの心の状態と意図とともに、同時に彼らの記憶に蘇ってきて、その眼前に示されたのである。時々、奇妙なことではあるが、彼らがそうした事を記しておいた備忘録が彼らの前に一頁づつ開かれて、読まれもした。処女を恥ずべき行為にいざなって、その貞操を奪った者もいたが、同じように審かれ、その犯罪の細目がことごとくその記憶から引き出され、列挙された、即ち、その処女たちの顔そのものもまた、その場所、言葉、意図と共に、その場にあるかのように示され、しかもそれが妖怪のように突然現れ、その光景が時には数時間も続いたのである。他の者の悪口を言うことを当然のことのように考えていた一人の者もいたが、私はその悪口と中傷とが、その言葉そのものとともに、またその人物たちとともに―その人物について、またその人物の前でその悪口が言われたのであるが―次々と数え上げられ、その凡ては彼は世で生きていた間はその一つ一つを入念に隠していたのではあるが、そのありのままに現されもし、示されもしたのである。
天界と地獄463
人間の行為が死後彼に暴露される時は、詮索の任務を与えられている天使たちは彼の顔を覗き込んで、身体全体を詮索するが、それは先づ各々の手の指から始めて、それから身体全体に及ぶのである。私はその理由を不思議がったため、以下のことが私に明らかにされたのである。即ち、思考と意志との凡ゆる物は頭脳に刻み込まれるように―なぜならその最初のものはそこにあるからであるが―それらはまた全身にも刻み込まれるのである、なぜなら思考と意志との凡ゆる物はその最初のものからそこへも広がり、そこをその究極のものとして、そこに終結するからである。従って意志とその思考から発して記憶に刻みつけられているものは、頭脳に刻みつけられるのみではなく、人間全体にも刻みつけられて、そこに、その身体の部分の秩序に応じて、秩序をもって存在しているのである。かくて人間全体はその意志とその思考とにおけるその人間の状態と同一であって、悪い人間はその者自身の悪であり、善い人間はその者自身の善である。これらの事柄からまた、聖言に言われている人間の生命の書の意義が明白となるであろう、即ち、その考えたものであれ、行ったものであれ、凡ゆる物はその人間全体に刻み込まれており記憶から呼び出されるときは、書物から読まれるかのように現れ、またその霊が天界の光の中で観察されるときは、目に示されるかのように現れるのである。これらの事柄に私は死後も存続している人間の記憶について注目すべき事柄を付加しておきたいが、私はそのことによって、記憶に入った物は、その全般的な物のみでなく、また最も特殊の物も存続して、決して抹消されないことを確信したのである。私は、世におけるように、中に文字を書いている書物を見たが、その文字はそれを書いた者の記憶から来ているものであって、世でその当人により書かれた書物の中にあった文字は一つとしてそこに欠けてはおらず、それで人間の記憶からは最も細々とした事柄でさえも、実にその人間自身が世では忘れてしまった事柄でさえも取り出すことが出来ると言われたのである。その理由もまた明らかにされた、即ち、人間には外なる記憶と内なる記憶とがあり、即ち、その自然的な人の外なる記憶とその霊的な人の内なる記憶とがあり、人間が考えたり、欲したり、話したり、行ったり、実に、聞いたり、見たりした物一切は彼の内なる、または霊的な記憶に刻みつけられ、そしてそこに在るものは、前に述べたように、同時に霊そのものに、その霊の身体の各部に刻みつけられるために、決して抹消はされはせず、かくて、その霊はその霊の意志の思考と行為とに応じて形作られるのである。私はこうした事柄は逆理のように思われて、それで殆ど信じられないということは知ってはいるが、しかしそれでもそれは真である。それで何人も自分が自分自身の中で考え、秘かに行った何もかが死後も隠れているとは信じてはならないのであり、凡ゆる物はそのとき白日におけるように明らかにされることを信じなくてはならないのである。
3.ジャン・マリ・ヴィアンネ
聖ヴィアンネの精神P54
私共はいつも二人の秘書を持っています。一人は悪魔で、審判の日に、私共を非難するために、悪行を記録しています。いま一人の秘書は天使で、私共を弁護するために、善業を記録しています。私共の行為がすべて記されるとき、素晴らしい行為の中にさえ、神様の聖心に適う行為は何と少ないことでしょう。沢山の自己愛から出る考え、単に人間的な満足、感覚的な快楽、打算等、これらがごちゃごちゃと混ざっています。これらは外見はよいものです。しかし、外観にしかすぎません。虫に食われて、黄色く熟しているように見える果実のようなものです。
4.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P227
‘90・9・10
そう、この世代はすべて姦通を犯している・・・しかしあなたを救ったように あなたの世代も救うつもりです。 砂漠まで引きずって行き、あなたにしたと同じようにしなければならないとしても(*):私は彼女の目に 彼女の裸の身をさらす、そして悔い改めの声を聞いた途端、あなたのもとに飛んで来たと同じように 彼女のもとにも飛んで行く、それから我が天使たちを前にして 愛の歌を歌って聞かせよう。彼女のもとにも飛んで行く、それから我が天使たちを前にして 愛の歌を歌って聞かせよう。彼女を妄想の道からつれ戻し 我が掟の恵みを授けよう。 こうして私の手に彼女の手をとり 我が家に連れ帰って、聖心のすべての富を明かそう。 我が心が時の終わりのために取っておいた宝を:
*煉獄のような浄め。神の目で自分の罪を見たのです。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P151
瞑想中に霊魂の真の状態が開示されてくる。このようなときに、わたしたちはある意味で神に語りかけていただき、もっとも豊かな祝福を与えていただく機会をもつ。
われわれがどう考えようと、どのような思いも、言葉も、行ないも決して拭い去られることはない。それは魂に刻印される。いいかえれば、「生命の書」に記録されるのである。瞑想を通して、人は神を畏怖し愛する中で何事もできるようになり、未来の至福と苦しみがかかっている「生命の書」の記載事項を清く保つことができる。