記憶

 

生命の書

 

 

 

1.記憶

2.内的な記憶

3.外的な記憶

4.真理は善に連結すると、生命のものとなるため、記憶から消滅する

5.天使たちは内的なものになり、完全なものになればなる程、益々過去の事柄を気にはかけなくなり、また将来のことも考えなくなる

 

 

 

 

1.記憶

 

 

天界の秘義1876

 

 聖言に記されている人間の、王国の、また都[]の名前は、人間が話す言葉のように、それらが上昇する敷居そのもので消滅してしまうのである、なぜならこれらは地的な、形体的な物質的なものであり、他生に入ってくる霊魂はこれらのものを脱ぎ去ってしまい、天界に入る者は全くそれらを脱ぎ去ってしまうからである。天使たちは人物についての観念[考え]はその最小のものすらも保有してはおらず、したがってまたその名前についてはその観念[考え]をいささかも保有してはいないのである。アブラムとは何であるか、イサクとはまたヤコブとは何であるかは、彼らはもはや知ってはいない。彼らは聖言の中に彼らにより表象され、意味されている事柄から自分自身で何らかの観念を作るのである。名前と言葉とは彼らには塵か、または鱗のようなものであって、そうしたものは彼らが天界に入ると抜け落ちてしまうのである。ここから聖言の中の名前によっては現実の事柄以外には何ごとも意味されてはいないことを認めることが出来よう。私はこれらのことについて天使たちと再三話して、その真理について彼らにより充分に教えられたのである。霊たちが互に話し合う言葉は語の言葉ではなくて、語[言葉]のない人間の思考の観念のような言葉であり、それでそれは凡ゆる言語の普遍的なものである。しかし彼らが人間と話しをするときは、その言葉は(前の1635、1637、1639番に言ったように)人間の言語の語[言葉]となるのである。

 

 

 

天界の秘義2116

 

しかし義認については、その実情は一般に想像されているようなものではない、即ち、自分が全生涯にわたって、悪と非行の中にいかほど生きていたにして、信じるときは―それが自分の最後の、死にかかっているときであったにしても―あらゆる悪と罪とはぬぐいとられ、全く抹消されると一般に信じられてはいるが、そうしたものではない。なぜなら私は、人間がその身体の生活の間に考え、また行為に現わしもした悪はその最小のものでさえも拭い去られはしないのであり、全くは抹消されはしないで、それはことごとく、その極微なものさえも存続していることを充分に教えられているからである。

 

 

 

天界の秘義2469−2494

 

死後存続する人間の記憶と人間がその身体の生命の中で行った事柄の追憶について

 

 

 

2.内的な記憶

 

 

天界の秘義2470

 

 人間は、身体の中で生きている間は、自分には内的な記憶があることを、殆ど知ることは出来ない。それは内的な記憶はそのときは外的な記憶と殆ど一つのものになって働くためである、なぜなら内的な記憶の思考の幾多の観念が外的な記憶の中にある幾多のものの中へその容器の中へ流れ入るように流れ入って、その二つのものはそこに連結しているからである。それは天使と霊とが人間に話しているときに似ている、なぜならそのときには前の者たちの幾多の観念[考え]は―それによって彼らは互いに話し合うのであるが―その人間の言語の中へ流れ入って、その観念のものをその言語に連結してしまうため、その霊たちは自分はその人間自身の言語を語っているとのみしか考えないのであるが、それでもその観念は霊たちのものであり、その観念が流れ入っている言葉はその人間のものであるからである、この主題については私は霊たちとしばしば話したのである。

 

 

 

天界の秘義2471

 

この二つの記憶は互いに他から全く区別されている。人間が世に生きている間に人間に特有なものである外的な記憶に、言語の凡ゆる言葉が、また外なる感覚の対象が、また世に属している幾多の知識が関係している。内的な記憶には内なる視覚に属しているところの、霊たちの言葉の幾多の観念が、また合理的なもののすべてが関係していて、その合理的なものの幾多の観念から思考それ自身が存在するようになっているのである。この二つの部類のものは互いに他から明確に区別されていることを人間は知ってはいないが、それは人間がそのことについて反省していないためでもあり、また人間は形態的なものの中にいて、そこからそのときは彼の心をそれほど遠く引き出すことが出来ないためでもある。

 

 

 

天界の秘義2472

 

 ここから人間は身体の中に生きている間は、発音される音声に、即ち、言葉に区別された言語によらなくては互いに話し合うことが出来ず、またこれらの言語に習熟していない限り互いに他を理解することも出来なくなっているが、それは彼らの言葉は外的な記憶から発生しているという理由のためである。それに反し霊たちは思考そのものに属している観念に区別されている普遍的な言語により互いに話し合っており、かくて、いかような霊とも、その霊が世にいた間はいかような言語を語り、また如何なる国家の者であったにしても、話し合うことが出来るのであるが、それは彼らの言葉は内的な記憶から発生しているという理由のためである。人間はたれでも死後直ぐにこの言語に入ってくるが、それは彼が前に言ったように彼の霊に特有なこの記憶の中に入ってくるからである(1637、1639、1757、1876番)。

 

 

 

天界の秘義2473

 

 内的な記憶は外的な記憶に無限にまさっており、巨億の数が一の数に、または光が暗黒にまさっているようにもまさっている、なぜなら内的な記憶の巨億の観念が外的記憶のただ一つのものの中へすら流れ入っていて、そこに何か全般的な曖昧なものを示しているからである。ここから霊たちの凡ゆる能力は、ましてや天使たちの凡ゆる能力は更に完全な状態の中にあるのである、即ち、彼らの知覚も彼らの思考と認識も更に完全な状態の中にあるのである。いかような点で内的な記憶が外的記憶にまさっているかは、例により認めることが出来よう。人間が、友であれ、または敵であれ、数年の交際から、その性質を知っている他のたれかを憶い起すときは、その者について彼がそのとき考えるものは、明確でないものとして示されるが、それは彼がその外的な記憶から考えているためである。しかしその当人が霊となってしまって、他の者を思い出すときは、その者について彼がそのとき考えるものは、彼がかつてその者について抱いたことがあるその凡ゆる観念[考え]さえもが示されるのであって、それは彼がそのとき内的な記憶から考えているためである。それは凡ゆるものについても言われる、即ち、たれでもそれについては多くの事柄を知っているものそのものも外的な記憶の中ではただ一つの全般的なものとして示されるが、しかし内的な記憶の中ではそれはそれ自身をそのすべての個々の点の方面でも示すのである―その個々の点については彼はそれまでにそのものについて自ら何かの考えを得てきているのであるが、その個々の点も示されるのであって、しかもそれが驚くべき形をもって示されるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天界の秘義2490

 

内的な記憶については実相は以下のようになっている、即ち、その中にはその人間がその幼少の頃から見もし、聞きもしたものの一切のもの、また行いもしたものの一切のみではなく、その者が他生で見もし、聞きもし、また考えもし、語りもし、行いもする一切のものが保有されているのである。しかしそれには相違がある。誤謬の信念と悪の欲念の中にいる者らは、それに一致したものをすべて吸引して、保有している、なぜならそれらのものは水がスポンヂのへしみこむようにもしみこむからである。

 

 

 

 

3.外的な記憶

 

 

天界の秘義2469

 

 人間各々には二つの記憶が、即ち、外的な記憶と内的な記憶とがあり、外的な記憶は人間の身体に特有なものであるが、内的な記憶は彼の霊に特有のものであることを何人も未だ殆ど知っていないのである。

 

 

 

 

 

 

天界の秘義3336[2]

 

 この先在性と卓越性との実情がいかようになっているかがさらに明白となるために、さらに若干言っておかなくてはならない。いかようなものも、それを人間の記憶の中へ導入してくれる何らかの情愛または愛が存在しないかぎり、それはそこへ到底入って、そこに止まることができないことは容易に認めることができよう。もし情愛が存在しないなら、またはそれと同一のことではあるが、愛が存在しないなら、観察は起らないであろう。この情愛、または愛に、入ってくるものがそれ自身を連結させるのであり、連結すると止まるのであり、このことは、以下の事実から明白である、すなわち、類似した情愛または愛が帰ってくると、その事柄それ自身も再起して、前に類似した情愛または愛により入ってきた他の事柄とともに示されるのであり、しかもそれが連続して示されてくるのである。そこから人間の考えが生まれ、その考えから言葉が生まれてくるのである。同様にまたその事柄それ自身が帰ってくるとき、もしそのことが感覚の対象により、または思考の対象により、または他の者の談話により行われるなら、その情愛もまた―その情愛とともにその事柄は以前入ったのであるが、その情愛もまた―再現されるのである。これは経験が教えていることであり、たれでも反省するならそのことを確認することができよう。

 

 

天界の秘義3387

 

しかしそれでも述べられている事柄はかれらが把握できるように、それに適応したものとならなくてはならないのである、なぜなら人間には何かの事柄が在ることを知るのみでは充分ではなくな、その事柄の中に彼の知的な部分のために何か確認させるものを見出し、代って再びその知的な部分から確認させるものを見出すために、それはいかようなものでであるか、またその性質はいかようなものであるかを知ろうと欲するからである。もしそうしたことが行われないなら、何かの事柄は実際記憶に入れられはするが、しかし、そこには死んだものまたは単なる音の記憶のようなものになって消滅してしまうからである。

 

 

天界の秘義4018

 

さらに真理と善とを植え付けることはすべて、また連結はすべて情愛により行なわれるのである。学ばれはするが、その人間の心を動かしはしない諸真理と諸善とは実際記憶に入りはするが、しかしそこには一片の羽毛が軽く壁にくっついていて、極めて些細なひとそよぎの風にも吹き払われてしまうようにしかとどまってはいないのである。

 

 

 

天界の秘義4018[2]

 

 記憶に入ってくる事柄の実情は以下のようになっている、すなわち、情愛なしに入ってくるものはその記憶の陰の中へ落ち込んでくるが、しかし情愛と共に入ってくるものはその光の中へ入ってくるのであり、そこの光の中に在るものは類似した主題が呼び出される時には絶えず明らかにまた生き生きと見られもし、現われもするが、しかし周囲の蔭の中に隠れているものはそのように見られはしないし、また現れもしないのである。こうしたものが愛の情愛の結果である。このことから、真理を植付けることはすべて、またそれが善と連結することは情愛により行なわれ、情愛が大きいに応じて、連結も益々強くなることを認めることができよう。『熱烈な情愛[情愛の灼熱]』はここでは最も内なる情愛である。

 

 

 

天界の秘義4205[2]

 

この間の実情のいかようなものであるかを簡単に述べよう。人間のもとでは真理は、それがいかようなものであれ、またはいかような性質のものであれ、情愛により、即ち、愛のものである一種の歓びにより彼の記憶へ入ってくるのである。情愛がなくては(または愛のものである歓喜がなくては)何一つ人間に入ることは出来ない、なぜならそれらのものの中に彼の生命が在るからである。入った事柄は、類似した歓びが再起する度毎に、その事柄にそれ自らを組み合わせ、または連結させている他の多くの事柄と共に再現されるのであり、また同じくその同じ真理が自己自身によりあるいは他の者により再現されると、その真理が入ったとき、そこに在ったところの愛の情愛または歓喜も同様に再び喚起されるのである、なぜならそれらのものは連結し、密着しているからである。このことから真理の情愛のもとでは実情はいかようになっているかが明白である、なぜなら善の情愛とともに入った真理は類似した情愛が再起するとき再現され、情愛もまた類似した真理が再起するとき再現されるからである。このことからまた、その人間が善の中にいない限り、いかような真理も純粋な情愛とともに決して植付けられて内的に根を張ることは出来ないことが明らかである、なぜなら真理の純粋な情愛[真理に対する純粋な情愛]は主に対する愛と隣人に対する仁慈のものである善から発しているからである。善は主から流れ入っているが、しかし真理を除いてはいかようなところにも固定はしないのである、なぜなら真理は善に和合しているため、真理の中に善は歓迎されるからである。この凡てからまた善を受け入れることはその真理の性質に順応していることが明白である。相互的な仁慈[相互愛]の中にいる生きている異邦人たちのもとに存在している真理は主から流れ入ってくる善もまたその中に歓迎されることができるような性質をもってはいるが、しかし彼らが世に生きている限りは、聖言から真理を得て、それにより霊的な仁慈の中に生きている基督教徒と同じようには歓迎されることは出来ないのである(2589−2604番)。

 

 

 

天界の秘義5893[2]

 

この間の実情は以下のごとくである。善が働くためには自然的な心の中に真理が存在しなくてはならないのであり、真理は純粋な愛のものである情愛により導入されなくてはならないのである。何であれ人間の記憶の中に在るものはことごとく何らかの愛により導入されて、そこにその愛と連結してとどまっているのである。信仰の諸真理もまた同じであり、もしこの諸真理が真理を愛する愛により導入されているなら、その諸真理はこの愛と連結してとどまっているのである。それらが連結すると、そのときは以下のようなことが起こるのである。もしその情愛が再現するなら、その情愛と連結している諸真理も同時に現れてくるのであり、もしその諸真理が再現するならば、その諸真理と連結しているその情愛そのものも同時に現れてくるのである。それで人間の再生の間には―再生は成人期に行われるのである、なぜならそれ以前では人間は信仰の諸真理については自分自身からは考えないからである―彼が彼自身に真理であると印象づけた諸真理の中に留めおかれることにより、またその諸真理が連結している情愛におけるその諸真理により、主から天使たちにより支配されており、そしてこの情愛は、即ち、真理を愛する情愛は善から発しているため、彼はそのようにして徐々に善へ導かれるのである。

 

 

 

 

3.真理は善に連結すると、生命のものとなるため、記憶から消滅する

 

 

新エルサレムの教義27

 

真理は善に連結すると、生命のものとなるため、記憶から消滅する(3108番)。

 

 

 

天界の秘義3108

 

この二つの節は善の中へ真理が導き入れられることを取扱っているが、しかしこの導き入れられるということの性質の如何ようなものであるかは、世の光に属したものによってのみ明るくされてはいるが、それと同時に天界の光に属しているものによっては、明るくされてはいない者のもとでは容易に理解されはしないのである―その天界の光から世の光に属しているものそれ自身が明るくされるのではあるが。善の中にはいないで、そこから真理の中にもいない者らは世の光の対象から形作られている思考の観念以外の観念は持ってはいない。これらの者は何か霊的なものがあることを知ってはいないし、また実際合理的なものはその純粋な意義ではいかようなものであるかも知ってはいないで、単に自然的なもののみを知っており、それに凡ゆるものを帰しており、このことが善の中へ真理が導き入れられることについて内意に言われているこれらの事柄が彼らには何か有意義なもののように見えるにはあまりにも迂遠なものとなっている理由であるが、それでも天界の光の中にいる者たちにはこれらの事柄はその者たちの貴重なものの一つとなっている。

 

善へ真理が導き入れられる実情は以下のようになっている、すなわち真理が導き入れられて、正しく連結されない中は、真理は実際人間のもとに在るにはあるが、しかしそれはいわば彼のものとなってはおらず、または彼自らのものとしては存在していないのであるが、しかしそれが彼の善の中へ導き入れられつつあるとすぐに、それは彼に所有されるのであり[彼のものとされるのであり]、そのときはそれは彼の外なる記憶から消え去って、内なる記憶へ入り込むのであり、またはそれと同一のことではあるが、それはその自然的なまたは外なる人から消え去って、合理的なまたは内なる人へ入り込んで、その人間そのものを着け、彼の人間的なものを、即ち、人間的なものの方面の彼の性質を形作るのである。人間の善に連結されつつある凡ゆる真理の実情はこのようになっており、また人間から善と呼ばれている悪と連結されつつある誤謬の実情もそのようになっているが、しかし以下の相違があるのである、即ち、前のものは合理的なものを開いて、かくてその人間を合理的なものにするに反し、後のものは合理的なものを閉じてしまって、その人間を非合理的なものにしてしまうのである、たとえその者はそのときその中におかれている暗黒の中で、その者自身にはひときわ合理的なものであるように見えはするものの。

 

 

 

 

 

5.天使たちは内的なものになり、完全なものになればなる程、益々過去の事柄を気にはかけなくなり、また将来のことも考えなくなる

 

 

天界の秘義2493

 

 私は過去の事柄の記憶とそこから生まれてくる将来の事柄に関わる不安とについて天使たちと話したのであるが、天使たちは内的なものになり、完全なものになればなる程、益々過去の事柄を気にはかけなくなり、また将来のことも考えなくなることを、またそこから彼らの幸福が生まれてくることを教えられたのである。彼らは主は自分たちに絶えず何を考えなくてはならないかを示されていて、しかもそれには祝福と幸福とが伴っており、それで自分たちは心労と不安からは自由であると言っているのである。またそのことがマナが天から日々受け入れられることにより、主の祈りの日毎のパンにより、同じくまた何を食べようか、飲もうか、何を着ようかと心を労してはならないと訓されたことによりその内意の中で意味されたものであると言っているのである。しかし天使たちは過去の事柄を気にはかけないしまた将来の事柄について不安を持ってはいないにしても、それでも過去の事柄を最も完全に記憶しており、将来の事柄についても心の中で完全に見ているのである、なぜなら彼らの現在のすべてのものの中に過去も未来も存在しているからである。かくて彼らは考えることもまたは言い現わすことも出来ないほどにも完全な記憶を持っているのである。