人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき

マタイ25・31

 

最後の審判(私審判)

 

 

 

 

1.人各々の最後の審判

2.羊・・・善の中にいる者たち

3・山羊・・・仁慈から分離した信仰の中にいる者たち

4.右・・・善

  左・・・真理

 

 

 

 

1.聖書

 

マタイ25・31−46

 

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えているときに食べさせず、のどが渇いていたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話しなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命に預かるのである。

 

 

 

 

1.人各々の最後の審判

 

 

4661−4664

 

天界の秘義4663

 

内意を知らない者はこれらの言葉は全世界の凡ての者が主の前に集められて、審かれる最後の日に主により或る者らについて語られたのであり、またその審判の方法は文字に記されているそのままに行われるであろう、すなわち、主は審かれることになっている者たちを右手と左手とにおかれ、かれらにそのたとえにあるように語られるであろうと考えないわけにはいかないのである。

 

しかし内意を知っており、また聖言の他の記事から、主はたれをも永遠の火に審かれはしないで、人各々が自分自身を審くのであり、すなわち、自分自身をその中へ投げ込むことを学んだ者は、また人各々の最後の審判はその者が死ぬ時起ることを学んだ者は、これらの言葉が全般的に意味していることを或る程度知ることができよう。そして内意からまた相応からその言葉の内的な意味を知っている者は、その言葉が特定的に意味していることを、すなわち、他生では人間各々は世で送ったその生活に応じて報いを受けることを知ることができよう。

 

 

[]信仰のみを通して人間が救われることをふりかざしている者らはこれらの言葉を、主が業について言われたことは信仰の実を意味しており、主は単にその言葉を、秘義を知っていない単純な者たちのためにのみ言われたにすぎないのであると言うことによってのみしか説明することはできないのである。

 

しかしその見解に従ってさえも依然信仰の実は信仰の教えに従った生命以外の何ものでもなく、従ってこの教えに従った生命が救うのであって、生活のない信仰が救うのではないのである。なぜなら死後人間はその生命の凡ゆる状態を携えて行くため、かれはその身体の中であったままのものとしてとどまるからである。

 

例えば、身体の生命の中で他の者を自分自身と比較してさげすんだ者は、他生でもまた他の者を自分自身と比較してさげすむのであり、身体の生命の中で隣人に憎しみをもってみた者は他生でもまたこれを憎しみをもって見るのであり、身体の生命の中で、その仲間を欺いた者は他生でもまたその仲間を欺くのであり、他の場合でも同じなのである。

 

人間各々はその身体の生命の中で得た性質を他生でも保有しており、人間の性質は投げすてられることはできないのであり、もしそれが投げすてられるなら、生命は何一つ残りはしないことは知られている。

 

 

[]仁慈の業のみが主から言われているのはこうした理由にもとづいている、なぜなら仁慈の業の中にいる者は、またはそれと同一のことではあるが、信仰の生活の中にいる者は、もし身体の中で信仰を受けることができないなら、他生でそれを受けることができるが、しかし仁慈の業の中に、または信仰の生活の中にいない者は、身体の内でも、他生においても、決して信仰を受けることはできないからである。

 

なぜなら悪は真理とは和合しないで、前のものは後のものをさけるからであり、もし悪の中にいる者が真理を語るなら、それを唇から語っていて、心からは語っていないのであり、かくて悪と真理とは依然非常に互いにはなれているのである。

 

 

天界の秘義4664

 

しかし主がここで最後の審判について、すなわち、人間各々の死後の最後の審判について言われているこれらの事柄の中でその内意に含まれているものは、この章の前に明らかにするには余りにも大きなものであるため、それで主の神的慈悲の下に、以下の諸章の前に順を追って明らかにしよう。

 

 

天界の秘義4721[3]

 

信仰の生命[生活]が救うことを主はマタイ伝25章31節から終りまでに、また他の多くの所に明らかに教えられており、ここからまたアタナシウス信条と呼ばれている信条はその終りに、『人はことごとくその業の報告をしなくてはならない、善を為した者は永遠の生命に入るが、悪を為した者は永遠の火に入るであろう』と教えているのである。

 

 

 

4807−4810

 

 

 

天界の秘義4809

 

人の子がその栄光の中に来る時

は、神的真理[神の真理]がその光の中に現れる時を意味しており、そのことは人間各々のもとにその者が死ぬ時起るのである、なぜなら彼はその時天界の光の中へ入って、その光の中で真で善いものを認めることが出来、そこから自分の性質はいかようなものであるかをも認めることが出来るからである。『人の子』は、聖言の内意では、神的真理の方面の主であり、かくて主から発している神的真理[神の真理]である。『栄光』はそこから派生している理知と知恵であり、その理知と知恵とは光として現れ、天使たちの前には光の光輝として現れるのである。この光の光輝が―その中に主から発している神的真理から派生した知恵と理知とが存在しているが―聖言では『栄光』とよばれるものである。(『人の子』はその内意では神的真理であることは、2159,2803,2813,3704番に見ることができよう)。

 

 

 

天界の秘義4809[]

 

凡ての聖い天使たちがかれとともに来る

 

は、天使たちの天界を意味している。『聖い天使たち』は主の神的善から発している真理である、なぜなら聖言の『天使たち』により天使たちが意味されてはいないで、主から発しているものが意味されているからである(1925、4085番を参照)、なぜなら天使たちは主の神的善から発出している真理の生命を受ける器官であり、受けるに正比例して、天使となるからである。このことから『天使たち』はこれらの真理であることが明らかである。ここにとり扱われている主題は死後の各々の者の状態であり、また各々の者がその生命に従って審かれることであるため、聖い天使たちは凡てかれとともにいるであろうと言われており、そのことにより審判は天界により行われることが意味されているのである、なぜなら神的真理はすべて天界を通して流入し、直接の流入はたれからも受け入れられることはできないからである。

 

 

 

天界の秘義4809[]

 

そのときかれはその栄光の王座に坐るであろう

 

は、審判を意味している、なぜなら『王座』は主の王者性について述べられ、主の王者性は神的真理[神の真理]であり(1728,2015,3009,3670番)、神的真理は審判が行われる源泉であり、またその規準であるからである。

 

 

 

天界の秘義4809[]

 

かれの前に凡ての国民は集められるであろう

 

は、凡ての者のいくたの善といくたの悪とは明らかにされるであろうことを意味している、なぜなら聖言の内意では『国民』により善が意味され、その対立した意義では悪が意味され(1259、1260,1416,2588,4574番)、かくていくたの善といくたの悪とは神的な光[神の光]の中に、すなわち、神的真理[神の真理]から発した光の中に現れるということが、凡ての国民がかれの前に集められることにより意味されているからである。

 

 

 

天界の秘義4809[]

 

かれは羊飼いが羊を山羊から分けるように分けるであろう

 

は、善を悪から分離することを意味している、なぜなら『羊』は善の中にいる者たちであり、『山羊』は悪の中にいる者たちであるから。仁慈の中におり、そこから信仰の中にいる者たちは元来『羊』と呼ばれ、信仰の中にはいるが、仁慈の中にはいない者らは『山羊』と呼ばれ、ここではその両方の者がとり扱われているのである。

 

『羊』は仁慈の中におり、そこから信仰の中にいる者たちであることは前に見ることができよう(2088、4169番)、『山羊』は信仰の中にはいるが、仁慈の中にいない者であることは4769番に見ることができよう。

 

 

 

天界の秘義4809[]

 

かれは羊をその右手に、しかし山羊をその左手におくであろう

 

は、善から発した真理に従って、また悪から発した誤謬に従って分離することを意味している。他生では善から諸真理の中にいる者たちは実さい右に現れているが、悪からいくたの誤謬の中にいる者たちは左に現れている。かくて右と左とにおかれることは生命に従って秩序正しくおかれることである。

 

 

 

天界の秘義4810

 

この凡てから主のこれらの言葉に含まれていることが明白であり、またそれは文字に従って理解されてはならないことも明らかである(すなわち、主はいつか最後の時に栄光の中に来られ、また天使たちもすべてかれとともに来て、主は栄光の王座に坐って、その前に凡ゆる国民を審判されるであろうと理解してはならないのであり)、各々の者はこの世の生命から永遠の生命へ移って行くとき、その生命に従って審判されると理解しなくてはならないのである。

 

 

 

天界の秘義2335[]

 

審判については、それは二重性をもっている、すなわち、それは善から、また真理からも行われるのである。忠実な者は善から審判かれるが、不忠実な者は真理から審判かれるのである。忠実な者は善から審判かれることはマタイ伝の25・34−40に明白であり、不忠実な者は真理から審判かれることは41節から46節までに明白である。

 

善から審判かれることは、かれらが善を受け入れたため救われることであるが、しかし真理から審判かれることはかれらが善を斥けたため、罪に定められることである。善は主のものであって、生活と信仰の中にそれを承認する者たちは主のものであり、それで救われるが、しかし善を生活の中に承認しない、従ってそれを信仰の中に承認しない者らは、主のものでありうるはずはなく、それで救われることはできない。

 

それでかれらはその生活の行為に従って、その思考と目的とに従って審判かれるのであり、かれらがこれらのものによって審判かれるときは、罪に定められないわけにはいかないのである、なぜなら人間はその者自身では悪意外何ごとも為さないし、考えないし、意図しないし、主により地獄から遠ざけられない限りは、自分自身では地獄に突入するということが真理であるからである。

 

 

 

天界の秘義7206

 

『審き』により両方のことが、すなわち、悪い者が地獄に定められることと善い者が救われることが意味されていることは、最後の審判をとり扱っている聖言の記事、例えばマタイ25・31−45その他から明らかである。

 

 

 

 

2.羊・・・善の中にいる者たち

 

 

天界の秘義2088[]

 

しかし後になって、主に対する愛がもはやそれがかってあったようなものでなくなったとき、霊的な人がかれらにつづいたのであり、隣人に対する愛の中に、または仁慈の中にいた者たちは霊的な人と呼ばれたのである。しかし隣人に対する愛はまたは仁慈は真理により植えつけられたのであって、それによりかれらは良心を受け、それにしたがって行動したが、それは善の情愛からではなく、真理の情愛から行われたのである。仁慈は、霊的な者にあっては、善の情愛のように見えるが、しかしそれは真理の情愛である。こうした外観から、仁慈は依然愛と呼ばれているが、しかしそれはかれらの信仰の善である。これらの者がヨハネ伝に主により意味されている者たちである―

 

わたしは扉である、もしたれでもわたしより中へ入るなら、その者は、救われ、出入りして、草地を見出すであろう、わたしは善い羊飼いである、わたしはわたしのものを知っており、またわたしのものから知られている。わたしはこの羊のおりのものでない他の羊をもっている、かれらもまたわたしは連れてこなくてはならない、かれらはわたしの声を聞くであろう、かくて一つの羊の群、一人の羊飼いがいるであろう(10・9,14,16)。

 

 

 

天界の秘義4169

 

『羊』の意義は善であり(そのことについては以下の記事を参照されたい)、『雌山羊』の意義は真理の善である(3995,4006番を参照)。単に善と呼ばれている『善』によっては意志の善が意味されているが、しかし『真理の善』によっては理解の善が意味されている。意志の善は善から善を為すことであるが、しかし理解の善は真理から善を為すことである。

 

真理から善を為す者たちにはこの二つのものは同一のものであるように見えるが、それでもそれらは互いに非常に異なっているのである、なぜなら善から善を為すことは善を認識してそこから善を為すことであり、善を認識することは天的な者のもとに専ら存在しているに反し、真理から善を為すことはそれを記憶知とそこから生まれてくる理解から為すことであるが、しかしそれはそれがそうであることを認識することなしに為すことであり、またたんにわたしたちが他の者からそのように教えられているためにのみ為すことであり、またはわたしたちがわたしたち自身の知的な能力によりわたしたち自身で問題の結論に到達したために為すことであるからである。

 

これは実に誤った真理でありうるのであるが、しかしそれでもそれが善をその目的としているなら、その人間がその真理から為すものは善にようになるのである。

 

 

 

[]『羊』が善を意味していることは聖言の多くの記事から認めることができようが、その中から以下のもののみを引用しよう。イザヤ書には―

 

かれは苦しまれたが、その口を開かれなかった。かれは屠られる子羊のように毛を切る者の前の羊のように連れ行かれたもうたが、その口を開かれなかった(53・7)。

 

これは主について言われており、そこで主は真理からではなく、善から羊にたとえられたもうているのである。マタイ伝には―

 

イエスはそのつかわされる十二人に言われた、異邦人の道に行ってはならない、サマリア人のいかような都にも入ってはならない、むしろイスラエルの家の失われた羊のもとへ行きなさい(10・5,6)。

 

『かれが行ってはならない異邦人』は悪の中にいる者たちを意味している。(『異邦人』は悪を意味していることは前の1259、1260、1849番に認めることができよう)。『サマリア人の都[]』は誤謬の中にいる者たちを意味し、『羊』は善の中にいる者たちを意味している。

 

 

 

[]イエスはその復活の後ペテロに言われた、わたしの子羊たちを養いなさい、と。再びかれは言われた、わたしの羊たちを養いなさい、と。三度言われた、わたしの羊を養いなさい、と(21・15−17)。

ここの『子羊』は無垢の中にいる者たちを意味し、最初に言われた『羊』は善から善の中にいる者たちを意味し、最後に言われた『羊』は真理から善の中にいる者たちを意味している。マタイ伝には―

人の子がその栄光の中に来るとき、・・・

・・・(マタイ25・31−40)

ここの『羊』は善を、すなわち善の中にいる者たちを意味していることは極めて明白である。内意では凡ゆる種類の仁慈の善がここに含まれており、このことは主の神的慈悲の下に他の所に示すことにしよう。『雄山羊』により信仰の中にはいるが、何ら仁慈の中にいない者らがとくに意味されているのである。

 

 

 

 

3.山羊・・・仁慈から分離した信仰の中にいる者たち

 

 

天界の秘義4769

 

生命の歓喜が発生してくる源泉である外なる人の諸真理は聖言の文字の意義の神的真理のような真理であって、その諸真理から純粋な教会の教義的なものが派生しており、この諸真理が、元来雄山羊により意味されており、その諸真理から発した歓喜が『山羊』により意味されており、かくて山羊の雄山羊により、その純粋な意義では、このような真理の中に、またそこから発した歓喜の中にいる者たちが意味されている。しかしその対立した意義では、『山羊の雄山羊』により、自分の生命の歓喜と一致しているところの、例えば全般的に快楽と呼ばれているところの身体の快楽と全般的に名誉とか利得であるところの低い心の歓喜と一致しているところの外なる諸真理の中に(すなわち、文字の意義から派生した真理のいくたの外観の中に)いる者らが意味されているのである。このような人物が『山羊の雄山羊』によりその対立した意義において意味されているのである。約言すると『山羊の雄山羊』のこの意義では仁慈から分離した信仰の中にいる者らが意味されているのである、なぜならこれらの者はかれらの生命の歓喜に一致しているところの、すなわち、自己と世を求める愛を甘やかしてくれるところの真理のみを聖言から選び出すからである。それ以外の諸真理はかれらは色々に解釈して一致させるようにし、そのことにより誤謬を真理の外観として示すのである。

 

 

 

 []『山羊の雄山羊』は分離した信仰の中にいる者らを意味していることはダニエル書から明白である―

 

(ダニエル書8・5,9,10,12)

 

[]『羊』は、仁慈の中におり、そこから信仰の諸真理の中にいる者たちであり、『雄山羊』は、信仰の諸真理の中にいるけれど、何ら仁慈の中にいない者らであり、すなわち、分離した信仰の中にいる者らであることは、こうした人物を記しているその細々した事柄から明白である。

 

[]分離した信仰の中にいて、『雄山羊』により意味されている者らはたれであるか、またいかような性質をもっているかは以下の一つの記事から認めることができよう、すなわち、『良い実をむすばない木はことごとく切り倒されて、火に投げ入れられるであろう。それでかれらの果によりあなた方はかれらを知るであろう。わたしに向かって、主よ、主よと言う者がすべて天国に入るわけではない、ただ天におられるわたしの父の御意志を為す者のみが入るのである。その日多くの者はわたしに向かって言うであろう、主よ、主よ、わたしたちはあなたのみ名により予言しませんでしたか、あなたのみ名により悪鬼を追い出しませんでしたか、あなたのみ名において多くの大きな業をなしませんでしたか、と。が、そのときわたしはかれらに明言しよう、わたしはあなたらを知らない。不法を行う者らよ、わたしをはなれて去れ、と』(マタイ7・19−23)

 また

ルカ伝には、『そのときあなた方は外に立って、戸を叩きはじめて、言うであろう、主よ、わたしたちに開いてください、と、しかしかれは答えてあなたらに言うであろう、わたしはあなた方を、あなた方がどこから来ているかを、知らない、と。するとあなたらは言いはじめるであろう、わたしたちはあなたの前で食べまた飲みました、あなたはわたしたちの街路で教えられました、と。しかしかれは言うであろう、わたしはあなたらに告げる、わたしはあなたらを、あなたらがどこから来ているかを知らない、凡て不法を為す者よ、わたしをはなれて去れ、と』(13・25−27)。

これらの者は分離した信仰の中にいて、『雄山羊』と呼ばれている者らである。しかし『雄山羊』は良い意味では何を意味しているかは―例えば生けにえに用いられ、時折予言者の書に言われている『雄山羊』が意味していることは―主の神的慈悲の下に他の所で述べることにしよう。

 

 

 

 

4.右・・・善

 

 

左・・・真理

 

天界の秘義10061

 

人間の右側に存在する物は真理が発生してくる源泉がある善に相応し、左側に存在する物は善が存在する手段となる真理に相応している(9604,9736番)

 

(中略)

さらに善から真理の中にいる者たちが右手の羊により意味されているが、しかし善から発していない真理の中にいる者らは左手の山羊により意味されているのである(マタイ25・32)。