霊たちと話す状態は極めて危険

 

低次元の霊魂悪魔

ウィルソン・ヴァン・デュセン

悪魔への対処法

 

 

 

1.聖書

2.試練においては彼らは天使たちを、実に、主御自身をさえも偽装する

3.その者らが聖霊と呼びもし、崇め、礼拝すらもする者らは、汚れた霊ども

4.人間は霊たちをいかような事柄においても信じないように警戒しなくてはならない(霊たちと話す状態は極めて危険)

5.幻想に大いにふけり、かくて心の病気の下で苦しんでいる者たちにしばしば起こる

6.霊たちが話すことは殆ど信用してはならないことについて

7.サンダー・シング

 

 

 

 

1.聖書

 

 

マタイ24・4

 

イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。」

 

 

 

マタイ24・11

 

偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。

 

 

 

マタイ24・23−28

 

そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。 あなたがたには前もって言っておく。 だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。 稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。 死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ。

 

 

 

2.試練においては彼らは天使たちを、実に、主御自身をさえも偽装するのみでなく

 

 

霊界日記617

 

悪魔の一味はいかにたばかりに満ちているかは言葉では決して表現されることは出来ない。試練においては彼らは天使たちを、実に、主御自身をさえも偽装するのみでなく、人間の幻想[妄想]に応じて凡ゆる方法をもって偽ることが出来る。悪魔は一瞬にしてその人間の幻想を知る、なぜなら彼は彼自身にその人間の人となり[人格]を着けるからである。さらに、彼はその人間の知らない中に、その人間の中に在るものを探り出し、驚くべきことではあるが、機会がある時(利用しようとして)色々な事柄をその記憶に貯えておくのである。更に悪魔は偽装している時は、適当な色々な情愛を、それが善いものに思われようが、または悪いものに思われようが、吹き込んで、それらを驚くべき方法で配列し、術策を弄して悪へ向ける。彼は一つの情愛がいかように回転するかを明らかに認めており、それを悪にたわめようと常にやっきになっている。更に、彼はまたその人間の思考と口の中へその情愛に順応した言葉を吹き込んで、その言葉がその人間自身のものであると考えさせるため、それでそのことを知らない者は、その言葉はその悪魔のものであるのに、それはその人間自身のものであるとしか考えることは出来ないのである。

 

 

 

3.その者らが聖霊と呼びもし、崇め、礼拝すらもする者らは、汚れた霊どもであって

 

 

霊界日記4

 

霊たちは人間が崇拝している者の人物を身につけ、自分がその人物である、と言う、なぜなら彼らはその者に扮して、その下で崇拝されることを望むからである。特に彼らは『聖霊』と呼ばれることを望んでいる。

 

 

 

(聖霊について)

霊界日記1366

 

 たれかある霊により感覚的に動かされる人間はことごとく―特にその霊が彼に話し掛けるときは―それは聖霊である、と考え、熱狂者は凡てそのように考えるのである。にも拘らずその時その者らが聖霊と呼びもし、崇め、礼拝すらもする者らは、汚れた霊どもであって、彼らはそのことを愛し、自分らが聖霊である、と考えているのであり、そのことは他の所に見ることが出来よう。(4、148イ、423番)。

 

 

 

霊界日記1369

 

不潔な霊どもは、私が彼らを聖霊として承認しようとはしなかった際、非常に怒り、私を罰しようと脅した。

 

 

 

 

4.人間は霊たちをいかような事柄においても信じないように警戒しなくてはならない

(霊たちと話す状態は極めて危険)

 

 

 

(霊たちは極めて虚構の事柄を述べて、虚言を弄することについて。)

 

霊界日記1622

 

 霊たちは人間と話し始めるときは、人間は霊たちをいかような事柄においても信じないように警戒しなくてはならない、なぜなら彼らは殆どいかようなことでも言うからである、なぜなら色々な事柄が彼らからでっち上げられて、彼らは嘘をつくからである、なぜならもし彼らが許されて、天界とはいかようなものであるか、諸天界では事柄はいかようになっているかを述べるならば、彼らは非常に多くの嘘を話し、実におごそかな誓いもたてて話すため、人間は驚いてしまうからであり、それで霊たちが話していた際、私は彼らの述べた事柄をことごとく信じることは許されはしなかった。1748年〔60歳〕3月20日。

なぜなら彼らはでっち上げることを極度に好んでおり、談話の主題が何か提出されるときはいつでも、彼らは自分はそれを知っていると考え、次から次へとその意見を色んな方法で、全く自分はそれを知っているかのように述べ、もしそのとき人間がそれを聞いて、信じるなら、彼らはのしかかって来て、欺き、色々な方法でたぶらかすからである、例えば、もし彼らが許されて将来の事柄について、全天界における未知の事柄について、何であれその人間が欲している凡ゆる事柄について話すにしても、彼らは凡ゆる事柄を偽って話すのであり、しかも彼ら自身から話すのであり、それで人間は彼らを信じないように警戒しなくてはならない。そうした理由から人間が真の信仰の中にいない限りこの地上に霊たちと話す状態は極めて危険である。彼らは、話しているのは、命じているのは主であり、人間は信じて、従わないわけにはいかないほどにも強力に説きつけるのである。

 

 

他の人物を表象する霊たちは自分がその表象している者と同一の者であると信じるようになることについて・・・)

霊界日記2860

 

以下のことが幾度も私に示された、即ち、私と共に話した霊たちは自分が私が考えているその者であるとしか考えなかったのであり、他の霊たちもまたそのようにしか考えなかったのである、例えば、私が生命の中で知っている或る一人の者が、昨日と今日私と話した者に、その者である一切のものにおいて、私の知っている限り、何一つそれ以上に似ることは出来ないほどにも似ていたのである。それ故霊たちと話す者たちは、霊たちが自分はあなたたちに知られている者であり、自分は死んでいると話すときは欺かれないように注意しなくてはならない。

 

 

 

霊界日記2861

 

なぜなら同じような能力を持った霊たちには幾多の種族と種類の者がいて、類似した者が人間の記憶の中へ呼び出されて、彼らに表象されるとき、彼らは自分らがその者である、と考えるからである。その際記憶から、彼らを表象している物の凡てが、また言葉、音声、動作、その他多くのものが作り出されるのである。更に彼らは、他の霊たちから思想、感情といったものを吹き込まれるとき、そのようにも信じるようになるのである、なぜならそのとき彼らはその他の霊たちの幻想の中におかれて、自分がその者である、と考えるからである。1748年[60歳]8月19日。

 

 

 

天界と地獄249

 

 しかしながら、霊と語ることは危険であるため(*1)、それは現今ではめったに許されない、なぜならそうした時その霊どもは自分が人間といることを知りーそれが許されない時は彼らはそのことを知らないのであるが―そして悪霊は人間に非常な憎悪を抱いていて、その身も魂も破滅させることを何ものにもまさって欲している底のものであるから。実際こうしたことが幻想に甚だしくふけっていて、遂には自然的な人に特有な享楽を自分自身から遠ざけてしまった者らに行われている。また或る者は孤独な生活を送っていて、時として霊が自分と語るのを聞くが、しかしそこには危険を伴ってはいない場合もあるが、しかしその者と共にいる霊に、その霊が人間と共にいることを知らせないように、その霊は時折主から遠ざけられている。なぜなら大半の霊はその霊たちのいる世界以外に何ら他の世界の在ることを知らず、それで他の所に人間のいることも知らず、従って人間の方から彼らと話すことは許されていないからである、なぜならもし人間の方から彼らと話すなら、彼らはそれを知るからである。宗教的な問題を非常に考え、それに熱中するあまりにはそれをいわば自分自身の内側に見る者もまた霊が自分と語るのを聞くのである、なぜなら宗教的な確信は、それがいかようなものであっても、人間がそれを自分自身から熟考して、それを世における有益な色々な物によって修正しない時は、内部へ進んで、そこに止まり、その人間の全精神を捉え、かくして霊界に入って、そこにいる霊に働きかけるからである。しかしこうした人物は幻覚者、狂信家であって、その聞く霊をことごとく聖霊であると信じるが、事実はその霊も狂信的な霊である。このような霊は誤謬を真理として見、またそのように見ているためそれを信じるように自分自身に説きつけ、またその流れ入って行く者たち〔人間〕にもそのように説きつけている。しかしながらこうした霊は、他の者を悪にいざない、またその者を支配し始めたため、徐々に取り除かれている。狂信的な霊は、自分自身を聖霊であると信じ、自分の言うことは神のお告げであると信じているということにより他の霊から区別されている。こうした霊を人間は神を拝するように拝して尊ぶところから、彼らは人間に危害を加えない。私は数度彼らと話したが、その時彼らがその礼拝者に吹き込んだ邪悪な物が明らかにされたのである。彼らは共に荒地の左手に住んでいる。

 

 

*1 人間は霊と天使と話すことが出来、古代人は再三彼らと話した、67−69、784、1634、1636、7802.ある地球では天使と霊とは人間の形をとって現れ、そこに住んでいる者たちと話している。10751、10752.しかし今日ではこの地球上では、人間が真の信仰にいて、主により導かれない限り、霊と話すことは危険である、784、9438、10751.

 

 

 

天界と地獄250

 

 天界の天使たちと語ることは、善から諸真理にいる者たちにのみ許され、特に主と主の人間的なものにおける神的なものとを承認する者たちにのみ許されている。それはそのことが諸天界がその中に存在している真理であるためである。

 

 

 

 

天界の秘義784

 

「そしてエホバは彼の後で閉じられた」。これは人間は天的な教会の人間が持っていたような天界との交流[連なり]をもはや持たなかったことを意味していることは以下に記された実情から明らかである。最古代教会の状態は彼らが天界と内なる交流を持ち、かくて天界を通して主との交流を持っている程のものであった。彼らは主に対する愛の中にいたのである。主に対する愛の中にいる者は天使のようであって、ただ身体を着けている点が異なっているに過ぎないのである。彼らの内部は覆いを取られ、主からさえも開かれていた。しかしこの新しい教会は異なっていた。彼らは主に対する愛の中にはいないで、信仰の中におり、信仰を通して隣人に対する仁慈の中に居たのである。こうした者は最古代の人のように内なる交流を持つことは出来ないで、外なる交流を持っているのである。しかし内なる交流と外なる交流との性質を説明するには余りにも多くの時間を要するであろう。人間はたれでも、邪悪な者でさえも、その者と共にいる天使たちを通して、天界と交流しているが、しかしそれは度の方面で異なっているのであり、即ち、或いは近く、或いは遠く交流しているのである、なぜならもしそうでないなら人間は存在することが出来ないからである。この交流の度には無限のものがある。霊的な人間は天的な人間が持つことが出来るような交流を決して持つことが出来ない、それは主は愛の中におられるが、信仰の中にはそれ程おられないという理由からである。そしてこのことが『エホバは彼の後に戸を閉じられた』により意味されていることである。

 

 

 

天界の秘義784[]

 

そしてその時以来天界はそれが最古代教会の人間に開かれていたようには決して開かれていないのである。多くの者がその後霊たちや天使たちと語ったことは真である、例えばモーセ、アロンその他の者が語ったのであるが、しかしそれは全く異なった方法によったのである、それについては、主の神的慈悲の下に後に記すことにしよう。天界が閉じられた理由は深く隠されている、また人間は自分のもとに霊たちがいることを知りさえもしておらず、まして天使のいることは知っておらず、自分が世で友も無くいる時は、また自分が只独りで考えごとをしている時は、自分は全く独りぽっちであると考えている程にも、天界が今日閉じられている理由も深く隠されている。それでも人間は絶えず霊たちの間に居り、霊たちはその人間が考えていることを、その意図し、考案していることを、恰もそれが世界の凡ての者の前に明らかに示されているかのように充分に、また明らかに観察し、認めているのである。このことをその人間は知っていない、それ程に天界は彼に閉じられているのである、しかしそれは極めて真である。その理由は彼が信仰の中にいない中に、まして信仰の真理の中にいない中に、ましてや仁慈の中にいない中に、天界がそれほどその者に閉じられていないならば、それは彼に非常に危険であるということである。このこともまた以下の言葉により意味されている―

 

神エホバはその人を追い出され、エデンの園の東にケルビムをおかれ、また自らまわる剣の焔をおかれて、生命の木の道を守られた(創世記3・24、また301−303番の記事を参照)。

 

 

 

 

5.幻想に大いにふけり、かくて心の病気の下で苦しんでいる者たちにしばしば起こる

 

霊界日記1752

 

地上で或る人物たちにより経験される幻が在り、彼らは自分らは多くの驚くべき光景を見ていると言いもし、そのことを誇ってもおり、彼らはまた幻視者とも呼ばれている。こうした種類の幻は以下のようなものである、即ち、何であろうと、何らかの物体[対象]が示されると、或る霊共はそれに幻想[妄想]により何らかの外観を生みつけるのであり、例えば、一条の雲が、または何らかの月光が夜間見られると、そのさい霊共は動物であれ、幼児であれ、または何か奇怪なものであれ、何か特殊なものを表象してみせ、その表象されたものの中に彼の心を集中させておき、かくて彼の想念を集中させておき、その想念がそうした種類のものの中に集中されていると、彼は自分は実際そうした物を見ている、と思い込んでしまうのである。このようにして非常に多くの幻が言いふらされはするが、しかしそれらは迷妄[妄想]以外の何ものでもないのである、しかしこうした物が幻想に大いにふけり、かくて心の病気の下で苦しんでいる者たちにしばしば起こるのであり、その心の病のためにそうした物を信じるようにもなるのである。

 

 

 

6.霊たちが話すことは殆ど信用してはならないことについて

 

(霊たちが話すことは殆ど信用してはならないことについて)

 

霊界日記1902

 

 霊たちには、話す際、何かのことはかくかくである、と言うにまさって、言うに易しいものは一つとしてない、なぜなら彼らは自分らは何事でも知っていると考えて、それはそうしたものではないのに、そうしたものである、と実に厳かに言い張りもするのである。幾度も行われた実験から、彼らはいかような性質のものであるか、またいかように信じなくてはならないかが明白になるのであり、彼らに、このことまたはあのことはいかようなものであるか、と尋ねると、彼らは次々にそれはそうであると言うが、各々他とは異なったことを言うのであり、たとえ百人の者がいるにしても、各々他とは異なったことを言い、実にそのときは、それはそうしたものではないのに、恰もそうしたものであるかのように、自信をもって言いもするのである。彼らは何か自分の知りはしないものに気付くと、すぐさまそれはかくかくのものである、と言い、その他、彼らは知ってもいないのに、知ったふりをして話すことを示しているしるしは非常に多いのである。1748年〔60歳〕5月3日

 

 

 

霊界日記3781

 

ここから、すなわち、クェーカ教徒から、もし人間が主に対する信仰の中にいないなら、霊が人間と話すことは、または人間が自分自身に対する霊の働きに心を配ることはいかに危険なことであるかが明らかであり、もし人間が信仰の中にいるなら、そのことには害はないのである、なぜなら主は彼らを救い出されるからであるが、しかしクェーカ教徒と狂信者のように、信仰の中にいないなら、彼らは話すのは聖霊であると説きつけられるのみでなく、途方も無いことへ駆り立てられるのである、なぜなら霊たちの世界は殆どことごとく邪悪で、狂信的であり、人間にとりつこうと燃え上っているからであるが、しかし主はそれに対し警戒され、絶えず人間を庇護されているのである。1748年〔60歳〕10月30日。このことは霊たちの面前で記されたのである。

 

 

 

 

7.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P248

 

 キリストに密なる生き方をしていないと、このような初歩的段階で、人は容易に騙される。真面目に真理を探求し、他宗教の預言者になった人々、クリスチャンでさえ、この方法で欺かれてきた。こうして、まがいものの宗教が興るに至った。その創始者たちは、実際にはそれが悪魔からのものであるのに、聖なる声が自分に話しかけている、と思い込んだのである。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P249

 

 これらの霊は、未来について少しは知っていても、それほどは知らない。インド人が二、三週間先の天候を予測できるように、低い霊は事物の傾向をよく知っているので、少し先のことなら預言ができる。それによって人を欺くのだ。神に霊感を受けた真の預言者は、遠い未来のことまで預言できる。そこに違いがある。心霊家(サイキック)たちが接触するのは、このような低い世界の霊たちである。心霊家は、彼らから興味深い情報を受け取るが、霊たちは初め、99パーセント正しいことを告げ、1パーセントの偽りをいう。次に、徐々に偽りの割合を増やしてゆき、真実を減らし、こうして、人々は無神論か邪教に導き込まれる。真に霊的な人間は、これら悪霊が吹き込む話に本能的に異和感を覚える。好奇心をかき立てる情報ばかりを求めていれば、けっして高い霊界に辿り着くことはできない。