右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい
(マタイ5・39)
求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない(マタイ5・42)/
1.聖書より
2.だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい
3.目には目を
4.歯には歯を
5.秩序の法則
6.償い―堕地獄(の状態)から解放されること
7.あがない―現実に悔改めることを通して霊的な生命が矯正されること/悔改めの痛ましい(色々な)事柄
8.憎むな(マリア・ワルトルタより)
1. 聖書より
マタイ5・38−42
「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
出エジプト21・23―25
もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。
レビ記24・17−20
人を打ち殺した者はだれであっても、必ず死刑に処せられる。家畜を打ち殺す者は、その償いをする。命には命をもって償う。人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。
申命記20・21
あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。
2.右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい
天界の秘義9049〔5〕
こうした言葉は文字の意義に従って理解してはならないことを、たれが認めることが出来ないであろうか。なぜならたれが(自分の)右の頬を打つ者に左の頬も向けようか。そしてたれが自分の上着を取ろうとする者に外套も与えようか。そしてたれが求める者凡てにその財産を与えようか。そしてたれが悪に抵抗しないであろうか。
しかし『右の頬』と『左の頬』により、『上着』と『外套』により、また『一マイル』により、同じく『借りること』といったものにより意味されていることを知らない者は一人として、これらの言葉を理解することは出来ないのである。そこに取り扱われている主題は霊的な生命、または信仰の生命であって、世の生命である自然的な生命ではないのである。主はそこで、また本章と本章以後とに、天界に属している内的な事柄を開かれているのであるが、しかし世に存在しているような事柄によって開かれているのである。
主がそうした事柄によって内なる事柄を開かれた理由は、世俗的な人間ではなくて、天界的な人間のみが理解するに違いないということであった。世俗的な人間は理解してはならなかった理由は、彼らに聖言の内的な事柄を冒瀆させないためであった。なぜなら彼らは冒涜することによって、聖言を冒涜する者らの地獄であるところの、凡ゆる地獄でも最も恐るべき地獄へ彼ら自身を投げ込むからである。それで主からルカ伝に言われているのである―
あなたたちには神の国の秘義を知ることが許されているが、他の者らには譬えで(与えられている)。それは彼らが見ても見ないためであり、聞いても聞かないためである(ルカ8・10)。
またヨハネ伝には―
イザヤは言った、かれは彼らの目を盲目にされ、その心を頑なにされた、それは彼らがその目で見て、心で悟り、回心して、わたしに癒されはしないためである(ヨハネ12・39,40)。
天界の秘義9049〔6〕
しかし前に引用した主の御言葉によりその内意に意味されていることを今述べなくてはならない。その意義ではそれは誤謬によって信仰の諸真理を破壊しようと欲する者らを、引いてはある人間が試練に置かれ、迫害されている時、その人間のもとにある霊的な生命を破壊しようと欲する者らを、また善良な霊たちが悪霊らにとりつかれて悩まされているとき、その霊たちにおける霊的な生命を破壊しようと欲している者らをそこに取り扱っているのである。
『頬』により内的な真理に対する情愛が、『右の頬』により善から発している真理に対する情愛が、『打つこと』によりこの情愛を害する行為が意味され、『上着』と『外套』により外なる形における真理が意味され(4677,4741,4742番)、『法律に訴えること』により破壊しようとする努力が意味され、『一マイル』によって『道』により意味されていることに似たことが意味されているからである(『道』は真理に導くものを意味していることについては、627,2333,3477番を参照されたい)―『貸すこと』により教えることが意味されている。
このことから『求める者に凡てを与えること』により意味されていることが明らかであり、すなわち(それは)主における己が信仰の凡ゆるものを告白すること(である)。それで悪い者に抵抗してはならない理由は、悪は真理と善との中にいる者たちには何ら危害を加えないということである。なぜなら彼らは主から守られているからである。
天界の秘義9049[7]
これらが主の前の御言葉の下に隠されてきた事柄であり、そして実情はこうしたものであるため、主は単に『あなたらは、目には目を、歯に歯を、と言われたのを聞いている』とのみ言われて、それ以上何ごとも言われてはいないのである。なぜなら、以下の記事に認められるように、『目』により信仰の内的な真理が意味され、『歯』により信仰の外的な真理が意味されているからである。
この凡てから主は世におられたとき、いかような方法で話されたかが明白である、すなわち、主は旧約聖書の聖言の凡ゆる所におけるように、天界の天使たちのためにも、世の人間のためにも、同時に語られたのである。なぜなら主の御言葉は神的なものから発し、天界を経て来ているため、それ自身において神的なものであり、天界的なものであったからである。しかし主の話された事柄は世で相応している事柄により提供されたのである。それが相応している事柄は、内意が教えているのである。
天界の秘義9049[8]
『打撃を加えること』、または『頬を打つこと』は真理を破壊することを意味していることは、聖言で『頬を打つこと』が記されている所から明らかである。そしてこれはその純粋な意義では真理の破壊を意味しているため、それでその対立した意義では誤謬の破壊を意味しているため、それでその対立している意義では誤謬の破壊を意味しており、その意義で以下の記事では用いられている―
あなたはわたしの敵のすべての頬を打たれるでしょう、あなたは邪悪な者の歯を折られるでしょう(詩篇3・7)。
あなたはイスラエルの裁判人の頬を棒で打たれるでしょう(ミカ5・1)。
迷わせる者の手綱が民の頬におかれるであろう(イザヤ30・28)。
なぜなら『顔』は情愛を意味し(4796、4797、4799、5102、5695、6604番)、従って顔に属している物は情愛に属したものを意味し、そのものの機能と用とに相応しており、例えば『目』は真理を理解することを、『鼻孔』は真理を認識することを意味し、『あご』、『唇』、『舌』のような口に属した物は真理を話すことに関連した事柄を意味しているからである(4796−4805)。
黙示録講解556(ロ)
これらの語を文字に従って理解してはならないことはたれにでも明白である。なぜならたれがキリスト教の愛により、あなたの右の頬を打つ者に左を向けることを、または上着を取り去ろうとする者に外套を与えることを義務づけられているか。約言すると、悪に抵抗することを許されていない者がいようか。
しかし主が言われた凡ゆる事はそれ自身において、神的、天的なものであるため、これらの言葉は、主が話された他の事と同じく天界の意味を含んでいることを認めることが出来よう。イスラエルの子孫は彼らは『目には目を、歯には歯を』与えねばならないというこの律法を持ったのは(出エジプト21・23,24、レビ24・20、申命記19・21)、彼らは外なる人であり、かくて単に天界の事柄を表象しているものの中にいたに過ぎず、天界の事柄そのものの中にはおらず、そこから仁慈の中に、慈悲の中に、忍耐の中にはおらず、いかような霊的な善にもいなかったためである。
なぜなら天界の律法とキリスト教の律法は主が福音書の中で教えられたものであるからである―
あなたらが人に行ってくれるようにと欲することは何であれ、あなたらは彼らにも行いなさい、これは律法であり、預言者である(マタイ7・12、ルカ6・31)。
これは天界における律法であり、天界から教会における律法であるため、それで悪はことごとくその悪とともにそれに相応している刑罰を伴っていて、それは悪の刑罰と呼ばれており、その悪の中でも恰もその刑罰と結合しているかのようになっており、そこからイスラエルの子孫のために規定されている報復の刑罰が発生しているのは、彼らは外なる人であって、内なる人ではなかったためである。
内なる人は、天界の天使たちは内なる人であるが、その天使たちのように、悪には悪を報復することは求めないで、天界の仁慈が自由に赦しているのである。なぜなら彼らは主は善にいる凡ての者を悪い者らから守られていることを知っており、また主はその者たちのもとに在る善に従って守られており、もし天使たちに行われた悪のために天使たちが敵意、憎悪、復讐、に燃え上がりでもするなら、主は守られはしないことを知っているからである、なぜならそうしたものは庇護を放逐してしまうからである。
黙示録講解556(ロ)(9)
それでこうしたことは主がここに言われたことの中に含まれているのである。しかしその意義を順序を踏んで述べよう。『目には目を、歯には歯を』は、たれでも他の者から真理の理解と真理の知覚とを取り去るに応じて、それらはその者から取り去られてしまうことを意味し、『目』は真理を理解することを、『歯』は真理を知覚することを意味しているのである。なぜなら『歯』は感覚的な人間が持っているような真理を、または誤謬を意味するからである。
キリスト教の善の中にいる者は悪い人物が為し得る限り、それらのものを取り去ることを許すことは主がその同じ主題について答えて言われていることにより記されている。『悪の中にいる者には抵抗してはならない』は報復という戦い返すことが在ってはならないことを意味しているのである。なぜなら天使たちは悪い者らとは戦いはしないし、ましてや悪には悪を報いはしないし、それで主により守られているからには、悪が為されるままにしておくのであり、それで地獄から発している悪は何一つ彼らには危害を加えることは出来ないのである。
『たれであれあなたの右の頬を打つ者には他の頬をもまた向けよ』は、もしたれかが内的な真理を認識し、理解することに危害を加えようとするなら、そのことは力の限りを尽くして許されるであろう、を意味し、『頬』は内的な真理の認識と理解とを意味し、『右の頬』はそれに対する情愛とその結果それを認識することを意味し、『左の頬』はそれを理解することを意味しており、『頬』が言われているように『打つこと』も言われており、そのことは(それに)危害を加えることを意味している。
なぜなら喉、口そのもの唇、頬、歯といった口に関わりのある物は凡て真理に対する認識と理解とに属しているような事柄を意味しているからであり、そのことはそれらはそれらに相応しているためであり、それで聖言の文字の意味におけるこれらの対象により―聖言の文字の意味は純粋な相応したものから成立しているため―これらの事柄が表現されているのである。
『もしたれかがあなたを訴えて、あなたの上着を取り去ろうとするなら、その者にあなたの外套もまた持たせなさい』は、もしたれかがあなたのもとで内的な真理を取り去ろうと欲するなら、外的な真理をもまた取り去ることが彼に許されるであろう、を意味し、『上着』は内的な真理を意味し、『外套』は外的な真理を意味している。このこともまた天使たちが悪い者らと共にいるとき行うところである。なぜなら悪い者は天使からは善と真理とは何一つ取り去ることは出来ないで、そのために敵意、憎悪、復讐に燃え立つ者らから取り去ることが出来るからである。なぜならこれらの悪は主による庇護をそらし、はねのけてしまうからである。
『たれであれ、あなたに一マイル行くことを強いるなら、その者とともに二マイル行きなさい』は、たれであれ真理から誤謬へ、善から悪へ導き去ろうと欲する者は―彼はそのことを行うことが出来ないからには―対抗されないままに棄て置かれてよろしい、を意味し、『マイル』は『道』と同じような意義を持っており、すなわち、導き去る、または導くものを意味している。
『あなたに求める者にはことごとく、与えよ』はそれは許されなくてはならないことを意味し、『あなたから借ろうと願う者からは拒んではならない』は、もしたれかが教えられようと願うなら、教えられてよろしい、を意味している。なぜなら悪い者らは、歪めて、取り去ってしまうために願うものの、そのことは出来ないからである。
このことがこれらの言葉の霊的な意味であり、その中には今言われた隠れた事柄が貯えられていて、それは聖言をその霊的な意味に従ってのみ認めている天使たちのために在り、それらはまた、悪い者らが善の中にいる世にいる人間を迷わせようと試みる際、その人間のためにも存在しているのである。主が守られている者たちに対する悪い者らの対立はこうしたものであることを私は多くの経験により知ることが与えられたのである。
なぜなら彼らは絶えず私から諸真理と諸善とを取り去るために凡ゆる方法を以って、またその力を傾け尽くして努めはしたものの、徒労に帰したのである。今提示されたことから或る程度、歯は、人間における知的生命の究極的なものである感覚的なものにおける真理または誤謬を意味していることもまた認めることが出来よう。このことが『歯』の意義であることは主の答えから明白であり、その中では真理に対する認識と理解とが取り扱われていて、それを悪い者らは善い者たちから取り去ってしまおうと努力しているのである。
イザヤ50・4−7
「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え
疲れた人を励ますように言葉を呼び覚ましてくださる。
朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる。
主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。
打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。
顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるから
わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。
わたしは知っている、わたしが辱められることはない、と。」
3.目には目を
天界の秘義9051
「目には目を」。これは、もし彼らが内的な理知的なものにおける何ものかを害うなら、を意味していることは、『目』の意義から明白であって、それは理解であり、ここでは内的な理解であって、その生命は信仰の生命である。
4.歯には歯を
天界の秘義9052
「歯には歯を」。これはもし外的な理知的なものにおける何ごとかを(害うなら)、を意味していることは『歯』の意義から明白であり、それは外的な理知的なものであり、それで自然的な真理である。なぜならそれがこの理解の生命を作っているからである。『歯』にこうした意義があるのは、歯は身体に栄養を与える食物を、ここでは霊魂に栄養を与える食物を、ひき臼のように砕き、かくして備えるためである。
霊魂に栄養を与える食物は理知と知恵である。これは自然的なものにおける真理と善にかかわる知識により先ず受け入れられ、砕かれ、備えられるのである。(『霊的な天的な食物』と呼ばれるものは理知と知恵であることについては、56−58、680、1480、4792、5147、5293、5340、5342、5576、5579、5915、8562、9003番を参照されたい。)ここから『歯』は外的な理解を意味していることは何処から来ているかが明らかである。外的な理解の何であるかは、内的な理解についてすぐ前に示したことから認めることができよう。
5.秩序の法則
天界の秘義8223
「水をエジプト人に帰らせなさい」(出エジプト14・26)。
これは悪から発した誤謬が悪から誤謬の中にいる者らに流れ帰って、その者らを包みこむであろうということを意味していることは以下から明白である。すなわち『水』の意義は誤謬であり(6346、7307、8137、8138番)、従って『水を帰らせなさい』により誤謬が流れもどることが、または変えることが意味され、ここではまたそれが包みこむことが意味されており
―なぜならスフ海の水により包み込まれ、スフ海は、教会にぞくしてはいるが分離した信仰と悪の生命の中にいる者らの悪から発した誤謬を意味するからである―
『エジプト人』の意義は悪から誤謬の中にいる者らである(そのことについては前に再三述べた。このことがいかにして起こるかは、イスラエルの子孫により表象されているところの真理と善の中にいた者たちに誤謬を注ぎ出そうと意図した者たちにその誤謬が流れもどる、または帰ってくるということであり―前を参照(8214番)、すなわち、他の者に加えようと意図された悪はその者自身に帰ってくるのであり、そのことは『あなたが他の者から為してもらいたいと願うことのみをのぞいては(何ごとも)他の者に為してはならない』(マタイ7・12)という神的な秩序[神の秩序]の法則から起こっているのである。この法則から―それは霊界では不変であり、恒久的なものであるが、そこから―表象的な教会に布告された報復の律伝がその起源を得たのである。すなわち、以下の律伝(がそれである)―
もし危害が起こるなら、あなたは生命に生命を、目に目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、火あぶりには火あぶりを、傷には傷を、打撲には打撲を与えなくてはならない(出エジプト21・23−25)。
もし人がその隣人に危害を加えたなら、その行ったように、かれにも行わなくてはならない[すなわち]骨折には骨折を、目には目を、歯には歯を(与えなくてはならない)、かれが人に危害を加えたようにかれもそれを加えられなくては成らない(レビ24・19,20)。
もし証人がその兄弟に不利な虚偽を答えるなら、あなたらはその者に、その者がその兄弟に行おうと考えたように行わなくてはならない(申命記19・18,19)。
これらの記事からこうした律法は、霊界では不変で恒久的なものであるかの法則、すなわちあなたは他の者から自分に行ってもらいたいとねがうことのみしか他の者に行わなくてはならないということから起こっていることが明白である。かくて他の者に加えようと意図されたところの悪から発した誤謬はその当人自身に流れかえる、または帰ってくるということはいかように理解しなくてはならないかが、明らかである。
天界の秘義8223 [2]
しかし他生におけるこの法則の実情はさらに以下のようになっているのである。それに似たもの、または報復が悪であるときは、それは悪い者により加えられて、決して善良な者により加えられはしないのである、すなわち、それは地獄から来て、決して天界からは来ないのである。なぜなら地獄は、またはそこにいる悪い者らは他の者に悪を為そうとする欲念に絶えず燃えているからである、なぜならそれがかれらの生命に歓喜そのものであるからである。
それでかれらは許されるや否や、相手が悪いものであろうが、善いものであろうが、友であろうが、敵であろうが、意に介しないで、これに悪を加えるのであり、従って、悪は悪を意図する者に帰ってくることが秩序の法則から発しているため、その法則により許されると、かれらはかれらに襲い掛かるのである。このことは地獄にいる悪い者により行われて、決して諸天界にいる善良な者によっては為されはしないのである。
なぜならこの後の者たちは、他の者に善を為すことがその者たちの生命の歓喜であるため、そのことを絶えず願っており、それで機会があり次第、敵にも友にも、善を為しており、実に悪に抵抗もしないからである。なぜなら秩序の法則は善い真のものを擁護し、防御するからである。
それで主は言われている、『目には目を、歯には歯を、と言われていることをあなたらは聞いている、しかしわたしはあなたらに言う、悪に抵抗してはならない、と。あなたはあなたの隣人を愛し、敵を憎まなくてはならないと言われていることを聞いている、が、わたしはあなたらに言う、あなたらの敵を愛し、あなたらを呪う者を祝し、あなたらを憎む者に益を与えなさい、それはあなたらが天のあなたらの御父の子となるためである』(マタイ5・38,39,43−45)。
天界の秘義8223 [3]
悪霊が善良な者に悪を加えようと欲するとき、痛ましい刑罰を受け、他の者に加えようと意図したその悪がその者自身に帰ってくることが再三他生で起こっているのである。その時はそれはそれが恰も善良な者により復讐であるかのように見えるが、しかしそれは復讐ではなく、また善良な者から発していないで、悪い者から発しており、その悪い者にそのとき秩序の法則から機会が与えられるのである。
いな、善良な者は彼らに悪を欲しはしないが、それでも刑罰の悪は取り去ることはできないのである。それは彼らはそのとき善い意図の中に留めおかれているためである―それは丁度犯罪人が罰せられるのを見るときの裁判官にも似ており、または自分の息子がその教師から罰せられるのを見るときの父にも似ているのである。
刑罰を加える悪い者はそれを悪を行う欲念から為すが、しかし善良な者は善を行う情愛からそれを為すのである。この凡てから、前のような、マタイ伝の、敵に対する愛に関わる主の言葉の意味と、主から廃止されはないで、説明をされた報復の律法に関わる主の御言葉の意味を認めることができよう。
すなわち、天界的な愛の中にいる者たちは報復、または復讐に歓喜を覚えてはならず、益を与えることにそれを覚えなくてはならないのであり、また善いものを守る秩序の法則そのものは、悪い者らを通して、それをその法則そのものから遂行しているのである。
6.償い―堕地獄(の状態)から解放されること
天界の秘義9076
「もし償いが彼に課せられるなら」(出エジプト21・30)。これは、彼が堕地獄(の状態)から自由になるためには、を意味していることは『償い』の意義から明白であり、それは、彼が堕地獄(の状態)から自由になるために、である。なぜなら償いは計画的に、または策略をもって悪を行いはしなかった者らに課せられたのであり、それらには色々なものがあり、そうした場合『魂の償い』と呼ばれたからである。なぜならそれにより生命はあがなわれたからである。
しかしこうした外なる物は内なるものを意味したのである。即ち、『償い』は堕地獄(の状態)から解放されることを意味し、従って『あがない』は現実に悔改めることを通して霊的な生命が矯正されることを意味したのである。『償い』は堕地獄(の状態)から解放されることを意味したため、従ってそれはまた罪が許され、その結果清められることを意味したのである。
天界の秘義9087
「その坑の主人はつぐなわなくてはならない」(出エジプト21・34)。これは、その誤謬を抱いている者は匡正をしなくてはならないことを意味していることは以下から明白である。
すなわち、『坑の主人』の意義はその誤謬を抱いている者であり、なぜなら『坑』は誤謬を意味するからである(9084、9086番を参照)―『つぐなうこと』の意義が匡正することである。『つぐなうこと』が匡正をすることを意味している理由は、『科料[罰金]』は匡正を意味し(9045)、その払わねばならなかった『銀』は匡正が行われる手段となる真理を意味しているということである(そのことについては以下を参照)。
天界の秘義9088
「彼はその主人に銀を払わなくてはならない」。これは、その抱いていた自然的なものにおける善または真理が歪められてしまった者に属している真理により、を意味していることは以下から明白である。
すなわち、『銀』の意義は真理であり(1551,2948、5658、6112、6914、6917、7999番を参照)、『銀を与えること』の意義は真理によってあがなうことであり(2954)、『その主人』の、即ち、その持っていた牛またはろばが坑に落ちこんでしまった者の意義は、その持ってた自然的なものにおける善または真理が歪められてしまった者である。
なぜなら『牛』は自然的なものにおける善を意味し、『ろば』はそこの真理を意味し(9065、9088)、『坑に落ち込むこと』はこれらのものを歪めることを意味するからである(9086)。
天界の秘義9088 [2]
この間の実情は以下のごとくである。もし善または真理が誤謬により歪められつつあるなら、そのときは歪められたものは真理により匡正されなくてはならないのである。即ち、教会の中では聖言から発した真理により、または聖言から発した教義により匡正されなくてはならないのである。
それがそうでなくてはならない理由は、真理は何が悪いか、何が誤っているかを教え、そのことによってその人間はそれを認め、承認し、そして認め、承認すると、そのとき彼は匡正されることができるということである。
なぜなら主はその人間の知っているその事柄の中へ流れ入られはするが彼の知ってはいない事柄の中へは流れ入られはしないのであり、それで主はその人間がそれが悪であり、または誤っていることを教えられない中は、悪いものを、または誤ったものを匡正はされないからである。
ここから悔改めの業を為す者たちは自分の悪を認め、承認し、かくして真理の生活[真の生活]を行わなくてはならないのである(8388−8392)。自己への愛と世への愛の(幾多の)悪から浄められる場合も同じである。これらの愛から浄められることは信仰の諸真理によらなくては決して行なわれることは出来ない。なぜならその真理が欲念は凡てこれらの愛から発していることを教えるからである。
イスラエルとユダヤ民族の間で割礼が石のナイフで行われたのもこうした理由からであった。なぜなら『割礼』はそうした汚れた愛から清められることを意味し、それを行った『石のナイフ』は信仰の真理を意味したからである(2799,7944)。さらに人間は信仰の諸真理により再生するのである(8635−8640,8772)。
このことは、古代の人々を清めた『洗い』によっても意味されたのである。そのことはまた現今洗礼の水によっても意味されている。なぜなら『水』は悪を除く手段となる信仰の諸真理を意味し(739,2702、3058、3424、4976、7307、8568)、『洗礼』は再生を意味するからである(4255,5120)。
7.あがない―現実に悔改めることを通して霊的な生命が矯正されること/悔改めの痛ましい(色々な)事柄
天界の秘義9076
『償い』は堕地獄(の状態)から解放されることを意味し、従って『あがない』は現実に悔改めることを通して霊的な生命が矯正されることを意味したのである。
天界の秘義9077
「彼はその魂をあがなわなくてはならない」(出エジプト21・30)。
これは、悔改めの痛ましい(色々な)事柄を意味していることは『あがない』の意義から明白であり、それは解放が行われるために、何か他の物をその代わりに与えることである。(『あがない』の色々な意義については、2954,2959,2966,6281、7205、7445、8078−8080番を参照)。
『魂のあがない』によりここでは悔改めの痛ましい(色々な)事柄が意味されていることは、堕地獄(の状態)からの解放がここに取り扱われており、人間は悪を除かなくては堕地獄(の状態)から解放されないのであり、悪を除くことは、生命[生活]の実際的な悔改めである悔改めによらなくては行われはしないのであり、こうした事柄は『悔改めの痛ましい事柄』である霊的な試練により生じるためである。
(堕地獄の状態から解放されることは、または、それと同一のことではあるが、罪から解放されることは悪を除去することであり、そのことは生命[生活]の悔改めにより行われることについては、8389―8394、8958−8969番を参照し、そのとき試練が起きることについては、8959−8969番を参照されたい)。
8.憎むな・・・マリア・ワルトルタ
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/3卷上P140/171・4
あなたたちは誹謗されたと言うのですか? 愛しなさい、そして赦しなさい。あなたたちは殴打されたと言うのですか? 愛しなさい、そしてあなたたちに平手打ちを食らわす者には、片方の頬も差し出しなさい。怒りをぶちまけるよりもそれをじっと我慢することを知るほうが、むしろ恨みを晴らすよりもいいと考えて、そうしなさい。『この隣人は強欲者だ』と思わず、慈愛深く『このわたしの可哀想な兄弟は困窮しているのだ』と思って、すでにあなたからマントを取り上げていたとしても、チュニカも彼にあげなさい。そうすれば、彼はもう他人からチュニカを盗む必要がないから、あなたたちは彼が二度目の盗みを働くことを阻止できます。『盗むのは悪癖であって困窮しているからではない』と、あなたたちは言います。構いません、同様にやりなさい。神はあなたたちに報われるだろうし、不正な者はそれを償うでしょう。またそれは昨日、わたしが柔和について語ったことを思い出させますが、このように自分が遇されたことを知り、罪人の心から悪癖が脱け落ち、盗品を返却して盗みを償うに至り、汚名を晴らすことはよくあるのです。
あなたたちは、あなたたちから何か盗むのではなく、必要とするものをあなたたちに懇願する、より正直な人たちに思い遣りのある態度で接しなさい。昨日、わたしが教えたように、もし富む人たちが真に心貧しければ、人間的、超人的な多くの不幸や災禍の原因である重苦しい社会的不平等もなくなるでしょう。あなたたちはいつも、『もしわたしが無一物になり二進(にっち)も三進(さっち)も行かない状態になった時、一つの援助の拒絶はどんな結果を招くだろう?』と、考え、あなたたちの我のその答えに基づいて行動しなさい。何であれ、人から自分にしてもらいたいと望むことを、人にもしてあげなさい。また、自分にしてほしくないことを他人にしてはなりません。
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P88
(イエズスの従兄弟ヤコボとユダの父アルフェオに)
「あなたこそ息子たちは許しなさい。子供たちの心をあなたが理解しさえすれば、私はあなたを慰められます。心に遺恨があれば私には何もできない」
「許すだって?」
(中略)
「私の言うことが聞けないのなら、さっさと出て行け! あの二匹の蛇に、年老いた父がおまえたちを呪いつつしんでやる、と言っていたと伝えておけ」
「いいえ、それだけはいけない。自分の霊魂を滅ぼすことになる。そうしたいなら私を愛さなくてもよい。メシアだと信じなくてもかまわない。しかし憎むのはよくない。私をあざ笑うのも狂気と言うのもかまわない。しかし・・・憎むな」
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2/P169〜172
(みなしごの)マルジアム:「善いお方の神様が、おじいさんまで泣かせたような悪いドラスをどうして愛せるのですか」
マリア:「神は苦しみと怒りをもってドラスを見ているけれど、もしもあの人が回心すれば、ほら、あの父親が帰って来た放蕩息子に言ったのと同じことばを言うはずです。あなたはドラスが回心するように祈ればいいと思うけれど・・・」
マルジアム:「おお、お母様、とんでもない! 僕はあいつが死ねばいいと祈ります」と、子供は意気込んで言う。
天使らしくない思いがけないことばが、どれほど強く、どれほど真実か、その必死の様子に他の人たちは苦笑せずにいられない。だが、すぐさま、マリアは真面目な優しい先生に戻って話す。
「いえいえ、愛する子よ、罪人といえども、そんなことをしてはいけません。神が、あなたのその祈りを聞き届けるはずはないし、あなたのことも厳しく見られるようになるわ。私たちは、たとえとても悪い人でも、隣人のためにいつも善いことを頼むべきです。生きることは、神の御前に功徳を得る機会を持つことになるから、善いことなのです」
「でも、その人が悪かったら、罪を重ねるだけです」
「善くなるように祈るのです」
子供は考え込む・・・しかし、崇高な教訓がなかなか飲み込めないらしく、
「僕が祈ったって、ドラスが善くなるわけがないよ。あれほど悪い奴はいない。僕と一緒にベトレヘムのあの殉教者たちが皆、祈ったって善くなるわけがない。あなたは知らないと思うけど、あの日・・・僕のおじいちゃんを鉄棒で打ちのめしていました。仕事中に腰かけているのを見つけたからと言って。体の具合が悪くて立てなかっただけなのに。・・・ドラスはぶちのめしたあげく、息も絶え絶えになったおじいちゃんの顔まで蹴った・・・僕は塀の後ろに隠れていたから、最初から最後までずっとこの目で見ていました。そこへ行ったのは、二月から、だれもパン一切れ、持って来なかったので、とてもお腹がすいていたんだ。・・・おじいちゃんがひげまで血まみれになって、死にそうになって倒れているのを見ると、悲しくて泣きじゃくっていたけど、だれかにばれると困るので逃げ出した・・・泣きながら、パン一切れの施しをもらいに行ったけれど、その時のパンはいつもここに残しています。そのパンは、血とおじいちゃんと僕の涙と、拷問する人を愛せない皆の涙の味がするから。
僕は自分がたたかれたらどんな気持ちになるか、あのドラスに思い知らせるために、棒で打ちのめしてやりたい。飢え死にすることがどんなことか思い知らせるために、パン一切れだってやりたくない。じりじりと照りつける日射しの下で、泥まみれになって何も食べられず、番人の看視のもとで働かせてやりたい。自分が貧乏人にどんなことをしているか、思い知らせてやりたい。僕はあいつを愛するなんてとてもできない。だって・・・だって、あいつが僕の聖なるおじいちゃんをなぶり殺しにしていて、それで、あなたたちに会えていなかったなら、僕は、僕はどうなっていたでしょうか」
婦人たちはびっくりし、感動して、子供をなだめようとするが、子供は本当に苦しみのあまり発作を起こし、何一つ聞こうとしない。
「いやいや。あいつを僕が愛したりゆるしたりなんて絶対にできない。僕は、皆に代わってあいつを憎む、憎むとも・・・」
子供は悲しみと恐れに捕らわれる。苦しみ抜いた人だけがする反応である。
「無邪気な子供の心に憎しみを抱かせること、これこそドラスの最大の犯罪です」
イエズスはこう言った後で、子供を抱っこしてあやしながら話しかける。
「マルジアム、聞きなさい。いつの日か、お母さんや、お父さんや小さな兄弟たちやおじいさんと、一緒に行きたいでしょう」
「うん」今にも泣きべそをかきそうになって、子供は答える。
「それだったら、だれも憎まないでね。天国には憎む人は入れません。今はドラスのために祈れないって? じゃあね、祈らなくてもいいから、憎むのはやめなさい。何をすればよいか教えてあげましょうか。過ぎ去ったことを、振り向いて見たりしてはいけません」
「でも、苦しんでいるおじいちゃんは、昔の話じゃない」
「それはそう。でもね、マルジアム。そう、こういうふうに祈ってみなさい。
“天におられる私たちの父よ、私の考えることをあなたにお任せします”
御父は、今のマルジアムが想像もできないように、マルジアムのことを聞き届けてくださると思います。仮に、おまえがドラスを殺したらどうなると思いますか。お父さんにもお母さんにも、もう二度と会えなくなってしまうかもしれないし、おまえが好きなおじいちゃんの苦しみはなくなりませんよ。こんなことをするには、おまえはあまりにも幼い。でも、神にはできます。神様にこう言いなさい。
“私はおじいちゃんと不幸な人、皆をどんなに愛しているか、ご存じですか。何でもできるあなたが考えてください”と。
どうやって、だって? おまえはよい訪れを宣教したいでしょう。でも、そのよい訪れは、愛と苦しみとゆるしとを語っています! おまえ自身が愛し、ゆるすことを知らなくて、どうやって他の人に憎んではいけない、ゆるしなさいと言えますか。善い神様にすべてを任せれば、神様がどれほどの善いことを準備しているか分かるはずです。そうしてくれますか」
「はい、そうします。あなたが好きだから」
イエズスはマルジアムに接吻し、地面に下ろす。こうして、このエピソードは終わり、道のりも随分はかどった。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P205
しかし、この者たちが教えに来るまでは、これから言うことを規準にしなさい。ことばは短いが、ここには私の救いの教えがすべて要約されています。
あなたたちは心のすべてをあげて神を愛しなさい。権力者も、親戚、友人、下僕と民、それに敵も自分自身を愛するように愛しなさい。
罪を犯していないと安心するためには、命令された行為、あるいは自発的な行為をする前に必ず、自分自身にこう尋ねなさい。『今、しようとしていることは、私自身に、もしされたらうれしいだろうか』と、もしうれしくないと思えば、その行為をしてはならない。
以上の単純な規準を守って、神が来る道、神へ行ける道を求めなさい。子供が感謝しないとか、自分を殺そうとする者があるとか、あるいは盗みをするとか、妻を奪われるとか、姉妹や娘が汚されるとか、あるいは家や、畑や、忠実な下僕を奪われるとか、そういうことは、だれも望んでいません。この規準を守れば、あなたたちはよい子供、よい親、よい夫、よい兄弟、商人、友人となります。こうして徳に進めば、神はあなたたちのもとへ来られます。