秩序の法則

 

黄金律商人

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.マリア・ワルトルタ

 

 

 

 

1.聖書

 

 

マタイ7・12

 

だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である

 

 

 

ルカ6・31

 

 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。    

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義689

 

それ故天的な、霊的な、自然的な物については凡てのものと各々のものの均衡が在り、それでたれ一人多数の者によらない限り考え、感じ、行動することはできないのであり、しかも各人は自分は自分自身で極めて自由にそのように行っていると考えている。同様に何一つそれに対立したものにより均衡を与えられていないものはなく、対立しているものは介在物により均衡を与えられ、あくて各々はその者自身により、また多くの者は共になりながら、極めて完全な均衡の中に生きているのである。それで何人にも如何ような悪もすぐに均衡を与えられないでふりかかることはできないのであり、悪が優勢になると、その悪はまたはその悪を行う者はその者自身によりこらしめられるものとして、均衡の法則によりこらしめられるが、しかしそれもひとえに善が現れるためである。天界の秩序はこうした形から、そこから生まれてくる均衡から成っているが、その秩序は主のみにより永遠に形作られ、処理され、維持されているのである。

 

 

 

天界の秘義1011

 

「その血は流されなくてはならない」。これは彼が罪に定められることを意味することはすでに言ったことから明白である。血を流す者、または殺す者が死をもって罰しられることは文字の意義に従っている。しかし内意では、主もまたマタイ伝に教えられているように、隣人に憎悪を抱く者はそのことにより死に、すなわち地獄に定められることが意味されているのである―

 

 たれでも自分の兄弟に向って、馬鹿者と言う者は火の地獄に投げこまれる危険がある(マタイ5・22)。

 

 なぜなら仁慈が消滅すると、その人間は自分自身と自分自身のものとに向って放任されてしまって、最早良心に属した内的な束縛を通して主により支配されなくなってしまい、自分の富と権力のために作る束縛のような、法律に属した外なる束縛を通してのみ支配されるからである。そしてこれらの束縛が緩められると、―こうしたことは他生に起るのであるが―彼は最大の残酷と淫猥にさえも突入し、かくして自分自身を罪に定めるのである。血を流す者はその者の血を流されなくてはならないことは古代人に良く知られた報復の法則であり、それに応じて彼らは聖言の多くの記事から明白であるように、犯罪と不正とを審いたのである。この法則は人は他の者からしてもらいたくないことを他の者にしてはならないという普遍的な法則から起っており(マタイ7・12)同じくまた以下のことからも起っている、すなわち悪はそれ自身を罰し、同様に誤謬もそれ自身を罰し、かくして悪と誤謬との中にそれ自身の刑罰が存在しているということが他生における普遍的な法則となっているのである。そして悪は悪自身を罰し、あるいはそれと同じことではあるが、悪い人間はその者の悪に相応した刑罰に突入するという秩序が在るため、古代人はそこから彼らの報復の法則を引き出したのであって、そのことがまたここに、凡て(他の者の)血を流す者は、その者の血を流さなくてはならない、すなわち、彼は自ら自分自身を罪に定めるというこの宣言により意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義8223

 

「水をエジプト人に帰らせなさい」(出エジプト14・26)。

これは悪から発した誤謬が悪から誤謬の中にいる者らに流れ帰って、その者らを包みこむであろうということを意味していることは以下から明白である。すなわち『水』の意義は誤謬であり(6346、7307、8137、8138番)、従って『水を帰らせなさい』により誤謬が流れもどることが、または変えることが意味され、ここではまたそれが包みこむことが意味されており―

なぜならスフ海の水により包み込まれ、スフ海は、教会に属してはいるが分離した信仰と悪の生命の中にいる者らの悪から発した誤謬を意味するからである―『エジプト人』の意義は悪から誤謬の中にいる者らである(そのことについては前に再三述べた。このことがいかにして起こるかは、イスラエルの子孫により表象されているところの真理と善の中にいた者たちに誤謬を注ぎ出そうと意図した者たちにその誤謬が流れ戻る、または帰ってくるということであり―前を参照(8214番)、すなわち、他の者に加えようと意図された悪はその者自身に帰ってくるのであり、そのことは『あなたが他の者から為してもらいたいと願うことのみを除いては(何ごとも)他の者に為してはならない』(マタイ7・12)という神的な秩序[神の秩序]の法則から起こっているのである。この法則から―それは霊界では不変であり、恒久的なものであるが、そこから―表象的な教会に布告された報復の律伝がその起源を得たのである。すなわち、以下の律伝(がそれである)―

 

もし危害が起こるなら、あなたは生命に生命を、目に目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、火あぶりには火あぶりを、傷には傷を、打撲には打撲を与えなくてはならない(出エジプト21・23−25)。

もし人がその隣人に危害を加えたなら、その行ったように、彼にも行わなくてはならない[すなわち]骨折には骨折を、目には目を、歯には歯を(与えなくてはならない)、彼が人に危害を加えたように彼もそれを加えられなくては成らない(レビ24・19,20)

 もし証人がその兄弟に不利な虚偽を答えるなら、あなたらはその者に、その者がその兄弟に行おうと考えたように行わなくてはならない(申命記19・18,19)。

 

これらの記事からこうした律法は、霊界では不変で恒久的なものであるかの法則、すなわちあなたは他の者から自分に行ってもらいたいと願うことのみしか他の者に行わなくてはならないということから起こっていることが明白である。かくて他の者に加えようと意図されたところの悪から発した誤謬はその当人自身に流れかえる、または帰ってくるということはいかように理解しなくてはならないかが、明らかである。

 

 

 

天界の秘義8223[]

 

しかし他生におけるこの法則の実情はさらに以下のようになっているのである。それに似たもの、または報復が悪であるときは、それは悪い者により加えられて、決して善良な者により加えられはしないのである、即ち、それは地獄から来て、決して天界からは来ないのである。なぜなら地獄は、またはそこにいる悪い者らは他の者に悪を為そうとする欲念に絶えず燃えているからである、なぜならそれが彼らの生命の歓喜そのものであるからである。

 それで彼らは許されるや否や、相手が悪いものであろうが、善いものであろうが、友であろうが、敵であろうが、意に介しないで、これに悪を加えるのであり、従って、悪は悪を意図する者に帰ってくることが秩序の法則から発しているため、その法則により許されると、彼らは彼らに襲い掛かるのである。このことは地獄にいる悪い者により行われて、決して諸天界にいる善良な者によっては為されはしないのである。なぜならこの後の者たちは、他の者に善を為すことがその者たちの生命の歓喜であるため、そのことを絶えず願っており、それで機会があり次第、敵にも友にも、善を為しており、実に悪に抵抗もしないからである。なぜなら秩序の法則は善い真のものを擁護し、防御するからである。それで主は言われている、『目には目を、歯には歯を、と言われていることをあなたらは聞いている、しかしわたしはあなたらに言う、悪に抵抗してはならない、と。あなたはあなたの隣人を愛し、敵を憎まなくてはならないと言われていることを聞いている、が、わたしはあなたらに言う、あなたらの敵を愛し、あなたらを呪う者を祝し、あなたらを憎む者に益を与えなさい、それはあなたらが天のあなたらの御父の子となるためである』(マタイ5・38,39,43−45)。

 

 

 

天界の秘義8223[]

 

悪霊が善良な者に悪を加えようと欲するとき、痛ましい刑罰を受け、他の者に加えようと意図したその悪がその者自身に帰ってくることが再三他生で起こっているのである。その時はそれはそれが恰も善良な者による復讐であるかのように見えるが、しかしそれは復讐ではなく、また善良な者から発していないで、悪い者から発しており、その悪い者にそのとき秩序の法則から機会が与えられるのである。 否、善良な者は彼らに悪を欲しはしないが、それでも刑罰の悪は取り去ることは出来ないのである。それは彼らはそのとき善い意図の中に留めおかれているためである―それは丁度犯罪人が罰せられるのを見るときの裁判官にも似ており、または自分の息子がその教師から罰せられるのを見るときの父にも似ているのである。刑罰を加える悪い者はそれを悪を行う欲念から為すが、しかし善良な者は善を行う情愛からそれを為すのである。この凡てから、前のような、マタイ伝の、敵に対する愛に関わる主の言葉の意味と、主から廃止されはないで、説明をされた報復の律法に関わる主の御言葉の意味を認めることが出来よう。即ち、天界的な愛の中にいる者たちは報復、または復讐に歓喜を覚えてはならず、益を与えることにそれを覚えなくてはならないのであり、また善いものを守る秩序の法則そのものは、悪い者らを通して、それをその法則そのものから遂行しているのである。

 

 

 

 

3.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3・P90

 

商売をする場合、正義を守りなさい。何かを売る時、“もっとたくさんもうけるために盗みなさい”と貪欲がそそのかすが“だまされるのが自分だったら悲しいと考え、あなたも正しい人でありなさい”という良心の声だけに耳を傾けなさい。自分がしてほしくないことを他人にするのはいけないということを忘れてはなりません。

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P205

 

 しかし、この者たちが教えに来るまでは、これから言うことを規準にしなさい。ことばは短いが、ここには私の救いの教えがすべて要約されています。あなたたちは心のすべてをあげて神を愛しなさい。権力者も、親戚、友人、下僕と民、それに敵も自分自身を愛するように愛しなさい。罪を犯していないと安心するためには、命令された行為、あるいは自発的な行為をする前に必ず、自分自身にこう尋ねなさい。『今、しようとしていることは、私自身に、もしされたらうれしいだろうか』と、もしうれしくないと思えば、その行為をしてはならない(*)。以上の単純な規準を守って、神が来る道、神へ行ける道を求めなさい。子供が感謝しないとか、自分を殺そうとする者があるとか、あるいは盗みをするとか、妻を奪われるとか、姉妹や娘が汚されるとか、あるいは家や、畑や、忠実な下僕を奪われるとか、そういうことは、だれも望んでいません。この規準を守れば、あなたたちはよい子供、よい親、よい夫、よい兄弟、商人、友人となります。こうして徳に進めば、神はあなたたちのもとへ来られます。

 

(*)

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P209注

マテオ7・12、ルカ6・31、これは黄金の法則と言われている。