金
天界の秘義1549
創世記13・2「そしてアブラムは家畜と銀と金とに非常に富んだ」。『アブラムは家畜に非常に富んだ』は主がそのとき豊かに与えれれたもうた善を意味し、『銀』は真理を、『金』は真理から発した善を意味している。
「銀に」(創世記13・2)。これは真理を意味していることは『銀』の意義が真理であることから明白である。最古代の人々は人間の中の善と真理とを金属に譬え、主に対する愛に属した最も内なるまたは天的な善を金に、その善から発した真理を銀に譬えたが、しかし低いまたは自然的な善を銅に、低い真理を鉄に譬えたのであり、彼らは単にそれらをそのように譬えたのみでなく、同じくそのように呼びもしたのである。ここから時代の期間もまた同じ金属に譬えられて、金の時代、銀の時代、銅の時代、鉄の時代と呼ばれたのである、なぜなら時代はこの順序で互に継続したからである。金の時代は天的な人である最古代教会の時代であり、銀の時代は霊的な人である古代教会の時代であり、銅時代はそれに続いた教会の時代であり、これに鉄の時代が続いたのである。
聖言の内意では、『銀』は、それが記されている所では常に、真理を意味しており、またその対立した意義では誤謬を意味していることは以下の記事から明白である。イザヤ書には−
真鍮に代えてわたしは金をもたらし、鉄に代えて銀をもたらし、木に代えて真鍮を、石に代えて鉄をもたらそう、わたしはまたあなたの役員を平安となし、あなたからとりたてる者を義としよう(イザヤ60・17)。
ここには各々の金属が意味しているところは明白である。そこには主が来られることと主の天的な王国と教会とが取り扱われており、『真鍮(青銅)に代った金』は自然的な善に代った天的な善であり、『鉄に代った銀』は自然的な真理に代った霊的な真理であり、『木に代った真鍮[青銅]』は形体的な善に代った自然的な善であり、『石に代った鉄』は感覚的な真理に代った自然的な真理である。同書にはー
さあ、渇いている者は凡て水に行きなさい、銀を持っていない者よ、あなたは行って、買って、食べなさい(イザヤ55・1)。
『銀を持たない者』は教会の内の多くの者や教会の外の幾多の国民のように、真理を何ら知らないが、それでも仁慈の善の中にいる者である。
天界の秘義1551[3]
同書にー
島々はわたしを待ち望むであろう、初めにタルシシの船は彼方からあなたの息子たちを、その銀とその金とをかれらとともに、あなたの神エホバの御名のもとへ、イスラエルの聖者のもとへ携えてくるであろう(イザヤ60・9)。
ここには新しい教会がまたは異邦人の教会が特定的に、また主の王国が全般的に取り扱われており、『タルシシの船』は知識を、『銀』は真理を、『金』は善を意味している、なぜならこれらがかれらが『エホバの御名のもとへ携えてくる』ものであるからである。エゼキエル書にはー
あなたはわたしがあなたに与えたわたしの金とわたしの銀の、あなたの飾りの器をとって、あなたのために男の像を作った(エゼキエル16・17)。
ここには『金』は天的なものの知識を意味し、『銀』は霊的なものの知識を意味している。
天界の秘義6917
「銀の器と金の器」(出エジプト記世記3・22)。『銀の器』は真理の記憶知を意味し、『金の器』は善の記憶知を意味していることは以下から明白である、即ち、『器』の意義は記憶知であり(3068、3079番を参照)―記憶知は全般的なものであって、その中に無数の真理と多様な善とを含んでいるため、『器』と呼ばれている―『銀』の意義は真理であり、『金』の意義は善である(1551、1552、2954、5658番)。(エジプトの『銀』は真の、適合した記憶知を意味していることは前の6112番に見ることが出来よう)。ここのみでなく、前の記事の中の、また以下の記事の中の『エジプト人』により誤った記憶知が意味されているのに、エジプト人のもとに在る『銀と金の器』が真理の記憶知と善の記憶知であることについては、これらの知識はそれ自身では真理ではなく、また誤謬でもなく、それらは真理にいる者のもとでは真理となり、誤謬にいる者のもとでは誤謬となり、そのことはそれらを適用し〔応用し〕用いる結果によっていることを知られたい。人間の記憶知に言われることはその財宝と富にも言われるのである。財宝と富とは悪の中にいる者には有害である、なぜなら彼らはそれらを悪い用に用いるからである、が、それらは善の中にいる者たちには有益である、なぜなら彼らはそれらを善い役に立つこと〔用〕に用いるからである。それでもし悪い者に属している財宝と富が善い者に移されるなら、それらは善となるのである。
天界の秘義6917〔3〕
こうしたものがまたカナンの地の幾多の国民のものを掠奪することにより、またそこでイスラエルの子孫が戦利品として奪った富、羊の群れ、家、ぶどう園によっても意味されているのである。このことは諸国民から戦利品として奪った金銀がまた聖め事に用いられたことから更に明らかであり、そのことは以下の記事から明白である―
彼の手には銀の器、金の器、銅の器があった、これらもまたダビデ王は聖めてエホバに捧げた、(即ち)その征服した凡ての国民、シリア人、モアブ、アンモンの子孫、ペリシテ人、アマレク、ゾバの王、レホブの子ハダデゼルから掠奪したものの中で、彼の聖めた銀、金と共に捧げた(サムエル記後8・10−12)。
そしてツロの商品とその娼婦の賃金はエホバに聖いものとなるであろう、それは貯えてはならない、またしまっておいてもならない、その商品はエホバの前に住む者たちのものとなって、その者たちに飽きるまでも食べられ、また年老いた者が身を包むものとしなくてはならない(イザヤ3・18)。
イスラエルの子孫の女たちがエジプト人から借り、かくて掠奪したこれらの物もまた後には彼らの礼拝用の箱やその他多くの物を作るために用いられたのである。
啓示による黙示録解説913
『金』が愛の善を意味している理由は、金属は、自然界に現れている一切の物と同じく、相応しているためであり、金は愛の善に、銀は知恵の諸真理に、銅または真鍮は仁慈の善に、鉄は信仰の諸真理に相応している。かくて霊界に現れている物はことごとく相応であるという理由により、これらの金属もまた霊界に存在している、なぜならそれらは天使たちの情愛に、引いてはその思考に相応しており、その情愛と思考とは、それ自身では霊的なものであるからである。
(中略)
『金』は愛の善を、『銀』は知恵の真理を、『真鍮』は仁慈と呼ばれる自然的な愛の善を、『鉄』は信仰の真理を意味しているため、それで古代人は、最古代から最後の代へと継続した期間を、金時代、銀時代、銅時代、鉄時代と呼んだのである。これに似した事柄がネブカドネザルが夢で見た像によっても意味されている―
その像の頭は良い金であり、胸と腕とは銀であり、腹とももとは真鍮であり、すねは鉄であり、足は一部は鉄、一部はねば土からできていた(ダニエル・32−33)
これらの事柄によりこの世界で教会が最古代から現今にさえ至るまで次々と継続して変化していった状態が意味されている。現今の教会の状態は以下のように記されている―
あなたは鉄が泥の粘土と混じっているのを見た、それらは人間の種[精]と混合するであろう、しかしそれらは、鉄が粘土と混合しないように、互いに密着はしないであろう(ダニエル2・43)。
『鉄』により、すでに言ったように、信仰の真理が意味されているが、しかし信仰の真理がなくて、真理のない信仰が在るときは、『鉄は泥の粘土と混合して』、それらは密着はしないのである。それらと混合する『人間の種[精]』により聖言の真理が意味されている。これが現今の教会の状態である。それが今後いかようになるかがそこに僅かな言葉で記されている(45節、しかし7・13−18、27にはさらに充分に記されている)。
2.サンダー・シング
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P155
神は愛の本源である。世界を宇宙空間に保ち続けている引力は、いわば、愛であり神に本源を発する霊的引力の物的表現である。磁石が鉄を引き寄せるのは、鉄が磁力に対する感応力をもっているからである。金はこれに反応しない。金は貴金属であっても磁力に対する感応力をもたないからだ。同じように、神は心底悔い改め神に感応した者を、罪の重さに関わりなく御元に引き寄せ、自分を義人と思い込み神の愛の支配力に心開かぬ者たちは引き寄せにならない。