銀
1.聖書
イザヤ55・1
渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。
銀を持たない者も来るがよい。
穀物を求めて、食べよ。
来て、銀を払うことなく穀物を求めよ
価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。
エレミヤ32・9
そこで、わたしはいとこのハナムエルからアナトトにある畑を買い取り、銀十七シェケルを量って支払った。
ゼカリヤ11・12−13
わたしは彼らに言った。「もし、お前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を支払え。そうでなければ、支払わなくてもよい。」彼らは銀三十シェケルを量り、わたしに賃金としてくれた。主はわたしに言われた。「それを鋳物師に投げ与えよ。わたしが彼らによって値をつけられた見事な金額を。」わたしはその銀三十シェケルを取って、主の神殿で鋳物師に投げ与えた。
マタイ10・9
帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。
マタイ17・27
しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。
マタイ22・18−21
イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。
マタイ26・14−16
そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。
マタイ27・3−10
そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」
「銀に」。これは真理を意味していることは『銀』の意義が真理であることから明白である。最古代の人々は人間の中の善と真理とを金属に譬え、主に対する愛に属した最も内なるまたは天的な善を金に、その善から発した真理を銀に譬えたが、しかし低いまたは自然的な善を銅に、低い真理を鉄に譬えたのであり、彼らは単にそれらをそのように譬えたのみでなく、同じくそのように呼びもしたのである。ここから時代の期間もまた同じ金属に譬えられて、金の時代、銀の時代、銅の時代、鉄の時代と呼ばれたのである、なぜなら時代はこの順序で互に継続したからである。金の時代は天的な人である最古代教会の時代であり、銀の時代は霊的な人である古代教会の時代であり、銅時代はそれに続いた教会の時代であり、これに鉄の時代が続いたのである。
聖言の内意では、『銀』は、それが記されている所では常に、真理を意味しており、またその対立した意義では誤謬を意味していることは以下の記事から明白である。イザヤ書には−
真鍮に代えてわたしは金をもたらし、鉄に代えて銀をもたらし、木に代えて真鍮を、石に代えて鉄をもたらそう、わたしはまたあなたの役員を平安となし、あなたからとりたてる者を義としよう(イザヤ60・17)。
ここには各々の金属が意味しているところは明白である。そこには主が来られることと主の天的な王国と教会とが取り扱われており、『真鍮(青銅)に代った金』は自然的な善に代った天的な善であり、『鉄に代った銀』は自然的な真理に代った霊的な真理であり、『木に代った真鍮[青銅]』は形体的な善に代った自然的な善であり、『石に代った鉄』は感覚的な真理に代った自然的な真理である。同書にはー
さあ、渇いている者は凡て水に行きなさい、銀を持っていない者よ、あなたは行って、買って、食べなさい(イザヤ55・1)。
『銀を持たない者』は教会の内の多くの者や教会の外の幾多の国民のように、真理を何ら知らないが、それでも仁慈の善の中にいる者である。
天界の秘義1551[5]
『銀』は真理を意味するように、それはその対立した意義では誤謬を意味している、なぜなら誤謬の中にいる者は誤謬が真理であると考えているからである、そのこともまた予言者の書に明白である。モーセの書には―
あなたは罠にかからないために、諸国民の銀と金をむさぼってはならない、またそれをあなたに取ってもならない。それはあなたの神エホバの忌み嫌われるものであるからである、あなたは嫌忌し、それを嫌忌しなくてはならない(申命記7・25、26)。
『諸国民の金』は悪を、その『銀』は誤謬を意味している。
主の聖言1(『仁慈の教義』に併録)
大きな財布を見ることを許された、それは大袋のように見え、その中には銀が非常におびただしく隠されていた、この大袋は開いていたからには、たれでもその中に置かれている銀を取っても良い、実に、それを盗んでも良いかのように見えたが、しかしその大袋の近くには二人の天使が坐っており、彼らは警備の者であった。その大袋が在った所は馬屋の中のかいば桶のように見えた。次の室には慎ましい処女たちが一人の貞淑な妻と共にいるのが見られ、またその室の近くには二人の幼児がいたが、その者たちを子供をからかうようにからかってはならない、賢明に応接しなくてはならない、と言われた。後になって一人の娼婦が現れ、続いて一頭の馬が死んで横になっているのが見えた。その時、霊的な意義を含んでいる聖言の文字の意義がこのように表象されていることが認められた。銀が一杯詰め込まれているその大きな財布は、非常におびただしい真理を含んでいる幾多の知識を意味したのである。その財布が開いてはいたものの、それでも天使たちにより守られていたことは、たれでもそこから真理の幾多の知識を取り出してもよいが、その内的な意義が―その中には真実なもの以外には何ものも存在してはいないが、その内的な意義が―誤謬化されないように注意が払われねばならないことを意味したのである。その大袋が置かれていたその馬屋のまぐさ桶は、理解に対する霊的な教訓を意味したのであり、主が生まれ給うた時その中に置かれ給うたかいば桶ですらそのことを意味したのである、なぜなら馬は理解を意味し、そこからかいば桶〔まぐさ桶〕はその理解に栄養を与えることを意味するからである。次の室に見えた慎ましい処女たちは教会の諸真理を意味し、貞淑な妻は聖言の凡ゆる所に在る真理と善との連結を意味したのである。幼児たちは聖言における知恵の無垢を意味し、彼らは第三の天界から来ている天使であったのである、その天使たちは凡て幼児のように現れるのである。その娼婦は、その死んだ馬と共になって、現今の多くの者による聖言の誤謬化を意味したのであり―誤謬化により真理の理解が〔真理を理解することが〕ことごとく破壊されてしまうのであるが―娼婦は誤謬化を、死んだ馬は真理を何ら理解しないことを意味しているのである。
真の基督教277に同内容の記述あり
聖書26[5](3)にもあり