財布

 

知識

 

 

主の聖言1(『仁慈の教義』に併録)

 

大きな財布を見ることを許された、それは大袋のように見え、その中には銀が非常におびただしく隠されていた、この大袋は開いていたからには、たれでもその中に置かれている銀を取っても良い、実に、それを盗んでも良いかのように見えたが、しかしその大袋の近くには二人の天使が坐っており、彼らは警備の者であった。その大袋が在った所は馬屋の中のかいば桶のように見えた。次の室には慎ましい処女たちが一人の貞淑な妻と共にいるのが見られ、またその室の近くには二人の幼児がいたが、その者たちを子供をからかうようにからかってはならない、賢明に応接しなくてはならない、と言われた。後になって一人の娼婦が現れ、続いて一頭の馬が死んで横になっているのが見えた。その時、霊的な意義を含んでいる聖言の文字の意義がこのように表象されていることが認められた。銀が一杯詰め込まれているその大きな財布は、非常におびただしい真理を含んでいる幾多の知識を意味したのである。その財布が開いてはいたものの、それでも天使たちにより守られていたことは、たれでもそこから真理の幾多の知識を取り出してもよいが、その内的な意義が―その中には真実なもの以外には何ものも存在してはいないが、その内的な意義が―誤謬化されないように注意が払われねばならないことを意味したのである。その大袋が置かれていたその馬屋のまぐさ桶は、理解に対する霊的な教訓を意味したのであり、主が生まれ給うた時その中に置かれ給うたかいば桶ですらそのことを意味したのである、なぜなら馬は理解を意味し、そこからかいば桶〔まぐさ桶〕はその理解に栄養を与えることを意味するからである。次の室に見えた慎ましい処女たちは教会の諸真理を意味し、貞淑な妻は聖言の凡ゆる所に在る真理と善との連結を意味したのである。幼児たちは聖言における知恵の無垢を意味し、彼らは第三の天界から来ている天使であったのである、その天使たちは凡て幼児のように現れるのである。その娼婦は、その死んだ馬と共になって、現今の多くの者による聖言の誤謬化を意味したのであり―誤謬化により真理の理解が〔真理を理解することが〕ことごとく破壊されてしまうのであるが―娼婦は誤謬化を、死んだ馬は真理を何ら理解しないことを意味しているのである。

 

 

 

 

 

真の基督教277に同内容の記述あり

 

聖書26[5](3)にもあり