天使の美天使の身体顔が輝く/

 

 

1.顔

2.エホバの御顔

3.御顔の天使

4.御顔を輝かす

5.神の御顔を見まつる

6.御顔を隠す

7.彼の顔の変化は彼が交流する幾多の社会から発しており

8.死後顔は変化する

9.顔は愛の象徴

 

 

 

 

1.顔

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P91

 

 私は人間の顔と心の特徴を忘れません。

 

 

 

天界の秘義788

 

 『ノア』は古代教会そのものではなく、前に言ったように、その教会の両親、または種子のようなものであった。『ノア』は『セム、ハム、ヤペテ』とともになって古代教会を構成し、それが最古代教会のすぐ後につづいたのである。『ノア』と呼ばれた教会の人間はことごとく最古代教会の子孫であって、それで、遺伝悪については、死滅したその子孫の他の者らの状態とほとんど同じ状態にいたのであり、こうした状態にいた者は、遺伝によりこのような特質を受けなかった者のようには再生し、霊的なものにされることはできなかったのである。かれらの遺伝的な性質のいかようなものであったかは、前に述べられたところである(310番)。

 

[2]例えば(その事がさらに明らかに理解されるために)ユダヤ人のように、ヤコブの子孫に属した者らは異邦人が再生することができる程には良く再生することはできないのである、なぜならかれらは幼少の頃から吸収し、後になって確認した原理からのみでなく、また遺伝的な性向[気質]からも、信仰に対し先天的な[内在的な]反感[対立]を持っているからである。これもまた遺伝的な性向から内在していることは、かれらが他の人々とは異なった資質を持ち、異なった作法を持ち、また異なった容ぼうを持ち、それにより他の者から区別され、こうした特徴を遺伝から持っていることから或る程度明らかとなるであろう。内的な性質も同様である、なぜなら作法と容貌は内部の象徴であるからである。それ故回心したユダヤ人は他の者にもまして真理と誤謬の間を動揺している。『ノア』と呼ばれた古代教会の最初の人々も最古代教会の種族と子孫とに属していたため、同様であった。これらがここに、また以下の記事に記されている動揺である、すなわちノアは農夫であり、ぶどう畠を作り、ぶどう酒を飲み、酔って、裸になって天幕の中に臥していたのである(9・20、21)。かれらが僅かしかいなかったことは、かの教会の人間が霊たちの世界で、間取りの小さな部屋の中に、白い着物を着た、丈の高いほっそりとした人間として表象されたという事実から明らかにされたのである。しかも信仰の教義的な事柄を己が間に維持し、持っていたものはかれらであったのである。

 

 

 

天界の秘義1568

 

「その地はかれらがともに住むようにかれらをになう[のせる]ことができなかった」。これは内なる天的なものはその他のものとともに、すなわち、『ロト』によりここに意味されているものとともにいることができなかったことを意味している。アブラムは、前に言ったように、主を表象し、ここでは主の内なる人を表象しているが、しかしロトは主の外なる人を表象しており、ここではその外なる人から分離されねばならなかったものを表象しており、そのものとは内なるものはともに住むことはできなかったのである。外なる人の中には、善を求める情愛とそこから発してくる歓喜と快楽のような、内なる人がそれとともに住むことができる多くのものが存在している、なぜならこれらは内なる人のいくたの善の結果であり、また内なる人の喜びと幸福との結果であって、それらがその結果であるときはそれらは全く相応しており、そのときはそれらは内なる人のものであって、外なる人のものではないからである。なぜなら結果は、周知のように、結果のものではなくて、結果を生み出す原因から発しているからである、たとえば、顔から輝きでている仁慈は顔のものではなくて、内に存在している仁慈から発しており、それが顔をそのように形作って、その結果を示しているのである、または小さな子供たちの眼つきや身ぶりや互に遊んでいることの中に現れているかれらの無垢は顔付きやまたは身振りのものではなくて、かれらの霊魂を通して流れ入っている主の無垢から発しており、かくて現れている無垢は結果であり他のすべての場合も同一である。

 

 

 

天界の秘義1640[3]

 

 かれらの言葉の観念が閉じられているか、または開かれているか、また何がかれら自身から、何が他の者から、何が主から来ているかもまた認められている。このことは人間の顔つきの場合と全く同一である、なぜならその顔つきからは、たとえ一言も言われなくても、佯りがあるか、または欺きがあるか、または楽しさがあるか、または自然的な、それともつくろった喜びがあるか、心からの友情があるか、つつましさがあるか、または狂気があるか、否かが、屡々知られるからであり、ときにはまたそうしたものがその人間の言葉の調子からも明らかになっているのである。

 

 

 

天界の秘義2219

 

『顔』により、善悪を問わず、人間の内部のすべてが意味されているが、それはその内部は(第一部の358番に示されたように)顔から輝いているという理由によっている。

 

 

 

天界の秘義3527

 

人間の内部はその外部に、とくにその顔と表情の中に、一種の映像となってそれ自身を示しており、現今かれの最も内なるものはそこには見られていないが、しかしかれの内部は、もしかれが幼少の項から佯(いつわ)ることを学んでいないかぎり、そこに或る程度見られるのである、なぜならかれがそうした場合は[佯ることを学んだ場合は]かれはかれ自身にいわば更に低い他の一つの心を採用し、従ってかれ自身の上に他の一つの顔つきを帯びさせるからである、なぜなら顔に現れるものはそのさらに低い心であるからである。偽善者は他の者にもまさって、このことを実際の生活から、かくて習慣から取得しており、しかもそれはその者が詐欺漢であるに比例して益々甚だしくなっているのである。偽善者でない者のもとでは合理的な善は或る生命の火からその顔に現れ、合理的な真理はこの火の光から顔に現れている。人間は学ばなくとも、或る生来の知識からこれらのことを知っているのである、なぜならそれ自身をそのように明らかに示すものは善の方面の、また真理の方面のかれの霊の生命であるからである、そして人間は身体を着けた霊であるため、かれはかれの霊の認識から、かくてかれ自身からこのような知識を得ているが、このことが人間が他の者の顔つきに時々感動する理由となっている、たとえそのことは顔つきから発しているのではなくて、そのように輝き出ている心から発しているものの。しかし自然的なものは顔の中に更に不明確な生命の火とさらに不明確な生命の光の中に現れており、形体的なものは容貌の温かさと美しさの中に現れる以外には、また情愛に応じたかれらの状態の変化の中に現れる以外はほとんど些かも現れはしないのである。

 

 

 

天界の秘義3573[3]

 

 しかし結果とその結果のしるしから、この連結の実情のいかようなものであるかが或る程度なりと人間に明らかである、なぜなら顔は自然的な人の表情であるように、自然的な心は合理的な心の表情であるほどにも、丁度自然的な心は顔とその表情とにそれ自身を表すように、合理的な心(すなわち人間の内的な意志と理解)はそれ自身をこの自然的な心の中に現わさなくてはならないからである。再生した人間の場合のようにその連結が遂行されると、その人間が何であれその合理的なものの中に内的に意志し、考えるものはことごとくそれ自身をその自然的なものの中に示すのであり、またこの自然的なものはそれ自身をその顔の中に明確に示すのである。天使たちはこのような顔を持っており、天的な人間であった最古代人もこのような顔を持っていたのである、なぜならかれらは善以外には何ごとをも欲しなかったからには、他の者がかれらの目的と意図を知ることを些かも恐れなかったからである、なぜなら自らが主に導かれるのに甘んじる者は他の何ごとも[善以外の何ごとも]決して意図しないし、または考えもしないからである。状態がこのような性格のものであると、そのときは合理的なものは善の方面で[合理的なものの善は]自然的なものの善に直接それ自身を連結させ、自然的なものの善を通してその諸真理に連結させ、また間接的には合理的なものの中に善自身と連結している真理を通して、自然的なものの真理にそれ自らを連結させ、自然的なものの真理を通して自然的なものの善にそれ自らを連結させ、ここから連結は分離不可能なものとなるのである。

 

 

 

天界の秘義3573[4]

 

 しかし現今人間はこうした状態から、かくてその天界的状態から如何にへだたっているかは、自分が考え、意図することとは異なった他の何ごとかを語り、行い、またその表情で表すことが市民としての慎重な事柄であり、実に自然的な心はそれが悪い目的を抱いて内的に考え、意志していることに反したことを、その表情にたたえもして行動するように、その自然的な心をつくろうことが市民としての慎重な事柄であると信じられもしているという事実から認めることができよう。最古代人にはこれは途方も無い邪悪であって、こうした人物は悪魔としてかれらの社会から追放されたのである。これらの事柄から、人間の合理的なものまたは内なるものが善と真理との方面でその自然的なまたは外なる人と連結することは何から成っているかが、かくて人間天使の特質はいかようなものであるかが、また人間悪魔の特質の何であるかが結果とその結果のしるしから明らかなように明らかである。

 

 

 

天界の秘義3804[2]

 

 こうした理由から一人の人物の善は、他の人物の善に正確に類似しているように見えても、それでも同一のものではないのであり、宇宙のいかような凡ゆる人物のもとでも一人の者の善は他の者の善とは異なっているのである。これは人間の顔の場合も同一であり、その顔の中には情愛の大半が映し出されており、全人類遍く一人として他に正確に似てはいないのである。真理そのものがいわば美の顔を構成しており、その顔の善は真理の形から生まれているが、しかし感動を与えるものは善である。こうしたものが天使の形の凡てであり、人間ももし内的生命から主に対する愛と隣人に対する仁慈の中にいるならそのようになるであろう。人間は神に似た形と神の映像とに向って創造られたため、このような形へ向って創造られたのであり、再生している者たちは、その身体の方面ではいかように見えようとも、その霊の方面ではこのような形である。このことから善が内的な諸真理により承認されることにより意味されていることが明白である。

 

 

 

天界の秘義4066

 

聖言に内部が『顔』により意味されている理由は、内部は顔から輝き出て、その顔の中にその内部自身を鏡または影像の中に示すように示しているということであり、そこから顔または容貌は思考の状態と情愛の状態とを意味しているのである。

 

 

 

天界の秘義4796

 

 天使たちがかれら自身を他の者の前に示すときは、その内的な情愛はすべてその顔から明らかに現れ、また輝き出ており、それで顔はその情愛の外なる形であり、またその表象的な映像である。天界では自分の情愛の顔以外のいかような顔も持つことは許されていない。他の顔を佯って装う者はその社会から追放されるのである。このことから、顔は全般的に内的なものの凡てに、人間の情愛のみでなくその思考にも、またその意志のものであるものに、その理解のものであるものに相応していることが明白である。ここからまた聖言では『顔』により情愛が意味され、主がたれかに『その御顔を上げられること』により、主が愛のものである神的な情愛からかれをあわれまれることが意味されるのである。

 

 

 

天界の秘義4799[3]

 

何であれ人間が隠そうとすることはことごとくその顔をこわばらせるのであり、

 

 

 

天界の秘義5102

 

「言った、なぜあなた方の顔は今日は悪いのですか」。これは、その悲哀はいかような情愛から発したか、を意味していることは、『顔』の意義から明白であり、それは内部であり(358、1999、2434、3527、4066、4796、4797番を参照)、かくて情愛である。なぜなら思考もまた内部であるが、その思考が発生している源泉である人間の内部は情愛であるからである。なぜなら情愛は人間の愛のものであるため、それはその生命のものであるからである。周知のように、無垢の者にあっては情愛はその顔に明らかに示されており、情愛はそのように示されているように、全般的に思考も示されている、なぜなら思考は情愛の形であるからである、そこから顔は、それ自身において観察されるなら、内部を表象している映像以外の何ものでもないのである。天使たちには顔はすべてそのように現れ、それ以外のものとしては現れてはいない、なぜなら天使たちは人間の顔の物質的な形を見ないで、その霊的な形を、すなわち、その情愛とそこから派生している思考とが示している形を見るからである。それが人間の顔そのものを作るものであることは、顔はそれをはぎとられると、全く死んだ物となり、顔はそれから生命を得ており、またそれに応じて快いものとなっているという事実から知ることができよう。情愛の悲哀が、または『それはいかような情愛から発しているか』が、かれが『なぜあなた方の顔は今日は悪いのですか』といったことにより意味されているのである。

 

 

天界の秘義5165[3]

 

外的な自然的なものの性質は他生では非常に明らかになっている、なぜなら霊たちと天使たちとの顔は、それから形作られまたそれに従って形作られるからである。天界の光の中では内的なものは、とくに意図または目的は、その顔から輝き出ている。もし主に対する愛と隣人に対する仁慈とが内的なものを形作っているなら、そこから顔に輝きが現れ、顔そのものが愛と仁慈との形となっているが、もし自己と世を求める愛とそこから生まれてくる憎悪、復讐、残酷、そういったものがあるなら、そこから顔に悪魔的な表情が現れ、顔そのものは憎悪、復讐、残酷の形となっている。

 

 

 

天界の秘義5565

 

 歯のような、さらに固い骨に関係している若干の霊もまたいるが、しかし私は彼らについては多くを知ることは許されず、ただ彼らは霊的な生命を殆ど残されていないため、天界の光の中で目に示されると、いかような顔も持たないで、ただ顔の代わりに歯のみを持って現われることを知ったのである、なぜなら顔は人間の内部を表象し、かくて彼の霊的な天的なものを、即ち、信仰と仁慈とのものを表象するからである。それで身体の生命の中でこの生命を自分自身で何ら得なかった者らはこのように現れるのである。

 

 

 

天界の秘義5695

 

顔は内部を表象している外なるものである、なぜなら顔は内部がその中に物を映し出す鏡の中に現れるように、また他の者がその顔からその人物が自分にどのような心を持っているかを知るように、形作られており、それで彼は話す時、その感情をその言葉のみでなく、顔によっても示すからである。天的な教会のものであった最古代の人々はこのような顔を持っていたのであり、天使たちも凡てそれを持っているのである、なぜなら彼らは隣人に良かれと考え、ただ良かれとのみ考えているためその考えているところを他から隠そうとは全く願ってはいないし、また自分自身のために隣人に良かれと密かに考えてもいないからである。しかし奈落の者らは、天界の光の中に見られない時は、その内部に相応した顔とは異なった顔を持っているのである。その理由は身体の生命の中では彼らの顔は単に彼ら自身の名誉と利得のためにのみ隣人に対する仁慈を示したものの、その隣人が自分に好意を示さない限り、その者には良かれとは決して望みはしなかったということである。その結果彼らの顔の作りはその内部とは甚だしく離反し、時としては、その顔は隣人愛で輝いているように作られてはいるものの、内には敵意、憎悪、復讐、殺意が潜んでいるのである。このことは現今内部と外部との間の不一致がいかに甚だしくなって、そこからそうした技術が磨かれていることを示しているのである。

 

 

 

天界の秘義6752[]

 

『顔』は内なるものを意味していることについては、1999、2434、3527,3573,4066,4796−4805,5102,5695番を参照。

 

 

 

天界の秘義7236〔2〕

 

更に諸天界では善は天使たちの顔を形作っているのである。

 

 

 

天界の秘義7648

 

遍く支配しているものはいかような性質を持っているかは、それが成功する時のその歓喜から、またそれが成功しない時のその苦痛から知ることが出来よう。人間を遍く支配しているものはその人間の霊の外なる形を作るのであり、その顔は全くそれに順応しているのである。もし悪と誤謬とが支配しているものであるなら、その霊の形は悪魔的なものであるが、もし善と真理とが支配するものであるなら、その形は天使的なものである。なぜなら霊は、それ自身において認められるなら、形をとった情愛[情愛の形]であり、その支配している情愛はその形そのものであり爾余のその諸情愛はその支配している情愛[の用]にそれ自身を充当[適用]させているからである。

 

 

 

天界の秘義8242

 

 私はまた木星に住む者たちはいかような種類の顔を持っているかを示されたが、それは私がその人々自身を見たわけではなく、その霊たちがかってその地球上にいる間持っていた顔に似た顔をつけて見られたのである。しかしこれが示される以前に、彼らの天使たちの一人が輝いた雲の後に現れ、許しを与えたのであり、そのとき二つの顔が示されたのである。それは私たちの地球の人間のように、きれいであったが、しかし更に美しく、誠実と慎ましさとがそこから輝き出ていたのである。

 

 

 

天界の秘義8243

 

 木星の霊たちは私と共になると、私たちの地球に住んでいる者たちの顔がいつもより小さく私に見えたのであるが、その原因はその霊たちが自分自身の顔について抱いていた考えが、それはもっと大きいという考えが彼らから流れ入ったということであった。なぜなら彼らは彼ら自身の地球に人間として生きている間、自分たちの顔は死後さらに大きくなって、形も丸くなると信じており、こうした考えが彼らに刻みつけられているため、従ってそれは残っていて、彼らは霊になると更にに大きな顔を持っているように彼ら自身には見えるからである。彼らが自分たちの顔は更に大きくなると信じている理由は以下のごとくである、即ち、彼らは顔により己が思いを語り、また示すために、かくて心は顔を通して、いわば、透明になっているため、顔が身体ではないと言っており、従って顔を心の形のように考えており、それで自分たちはこの世の生活の後には更に賢明になることを知っているため、その心の形、即ち、その顔はもっと大きくなると信じているのである。

 

 

 

天界の秘義8249

 

凡ゆる地球の中の凡ゆる者の最初の言葉は顔によるものであり、これは顔の二つの起原から―唇と目から発していることをわたしは天使から知らされたのである。こうした言葉が最初のものであった理由は、顔が人間が考えまた欲する色々な事柄をただ形で現すようにのみ形作られたということであり、そこから顔はまた心の映像、指標と呼ばれもしたのであり、また最古代では、または最初の時には誠実が存在して(8118番を参照)、人間は自分の顔から輝き出るのをねがったことをのぞいては何ごとも考えず、また考えようともしなかったのであり、それで低い心の情愛とその思いがそのあるがままに、しかも完全に示されることができたためである。このようにしてそれらはまた目に、形をとったもののように示され、しかも非常に多くのものが共になって示されたのである。それでこの言葉は視覚が聴覚にまさっているように、すなわち、国を直接に見ることがその国について記されたことを聞くことにまさっているように、言葉による言語にまさっていたのである。こうした言葉は天使たちの言葉と一致しており、さらにその時代の人々はその天使たちとも交流していたのである、とかれらは附言した。さらに顔が話すときは、または心が顔を通して話すときは、それは人間のもとでは最も外なる自然的な形をとった天使的な言葉であり、一方の者の内なる視覚または思考が他方の者の内なる視覚または思考の中に現存するのであるが[一方の者がその内なる人の中で見る、または考えるものが、他方の者がその内なる人の中で見るまたは考えることの中に現存するのであるが]、口が言葉により話すときはそうしたことは行われないのである(この地球上の最古代の人々も同じようにはなしたことについては、607、608、1118、1120、7361番を参照されたい)。語による言葉は最古代の人々には不可能であったことはたれでもまた認めることができよう、なぜなら言語の語は直接に与えられはしないで、発明されて、事物に適用されねばならず、そうしたことは時間をかけなくては行われることはできないからである。

 

 

 

天界の秘義8250

 

 人間のもとに誠実と正直[公正]とがあるかぎり、こうした言葉もまた存続したのであるが、しかし心の考えることと話すこととが相違しはじめるや否や―それは人間が自分自身を愛して、隣人を愛さなかったとき起ったのであるが―そのとき語による言葉が成長しはじめて、顔は沈黙するか、または同じようにいつわったのである。ここから顔の内なる形は変化し、それはそれ自身を抑えつけ、こわばり、ほとんど生命を欠きはじめたが、これに反し、その外なる形は、自己への愛の火に燃やされて、生きているようにも見えたのであるが、しかし下に在って、内部に面となっている生命が欠けていることは、人間の眼前には現れないものの、天使たちの眼前には現れているのである、なぜなら天使たちは内なる物を見るからである。これが考えることと話すことの異なっている者らの顔である、なぜなら現今叡智とされている口実、偽善、狡猾、詐欺はこうしたものへ導くからである。

 

しかし他生では事態はことなっており、そこでは話すことと考えることが異なることは許されてはいないのである。その相違は各々の語の中にも、声の調子の各々の中にも明らかに認められ、それが認められると、そうした相違を宿している霊は交わりを絶たれて、罰金を科せられるのである。その後かれらは色々な手段によりその考えるように語り、その欲するように考えるようにしむけられて、ついにはその心は一つのものとなり、分割されないものとなるのである―もし善良であるなら、善を欲し、善から真のものを考え、話すようになり、悪であるなら、悪を欲し、悪から誤ったものを考え、話すようにしむけられるのである。善良な者はそれ以前に天界に挙げられはしないのであり、悪い者もそれ以前に地獄へ投げこまれもしないが、これは地獄には悪以外には何ものもなく、そこの誤謬は悪の誤謬となり、天界には善以外には何ものもなく、真理は善の真理となるという目的によっている。

 

 

 

天界の秘義10578[]

 

しかし主に対する愛の何であるかを、または主を愛することの何であるかを簡単に述べてみよう。自分は主を愛していると信じながらも、主の戒めに従って生きない者は非常に誤っている、なぜなら主の戒めに従って生きることが主を愛することであるからである。この戒めは主から発しているところの、かくてその中に主がおられるところの真理であり、それでその戒めが愛される度に比例して、すなわち、人間が愛からその戒めに従って生きる度に比例して、主は愛されるのである。その理由は主は人間を愛されて、愛から人間が永久に幸福になれるようにと望まれており、そして人間は主の戒めに従った生命[生活]によらなくては幸福になることはできないということである、なぜなら主の戒めにより人間は再生して、霊的なものとなり、かくして天界へ挙げられることができるからである。しかし主の戒めに従った生活を欠いて主を愛することは主を愛することではない、なぜならその時は主がその中へ流れこんでその人間を主御自身のもとへ引き挙げられるものが何一つその人間のもとには存在しないからである、そのことはかれは中に何も入っていない容器のようなものであり、その信仰の中には生命は些かもないためである。永遠の生命と呼ばれている天界の生命は何人にも直接には注がれてはいないのであり、それは間接に注がれているのである。この凡てから主を愛することの何であるかを、また主を、またはその御顔を見まつることの何であるかを、すなわち、主はこうした信仰と愛から見られたもうことを認めることができよう。

 

 

 

天界の秘義10579

 

主はエホバの『御顔』そのものであられる

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P81

 

 大地の汚辱は、サタンの住処から漏れ出る煙と大差ない煙を、襲いかかる涜聖者のように神の玉座の足もとにまで立ちのぼらせている。わたしの栄光が現れる前に、東洋と西洋は、わたしの顔の出現にふさわしくなるために、清められるように。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P19

‘99・2・5

 

娘よ、あなたは特別に護られ世話されていることを 覚えておくように。 あなたの上に私の面影を見る恵みを与えられ、私の出現で鼓舞された人びと(*)の証言を聞いたであろう? だから私の聖なる力を見くびらないように。 これからもあなたの上に私自身を現し、私の面影であなたを飾ろう それが御父をお喜ばせするゆえ。

 

 

 *キリストの聖なるみ顔が私の顔に現れたと さまざまな国で多くの人が証言しています。

 

 

 

マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P63

 

 病人や貧しい人のお世話をする時、私たちはキリストの苦しんでいる体のお世話をしているのです。

世界中のどこであれ、貧しい人々は、苦しんでいるキリストご自身なのです。貧しい人々の中で神の子は生き、かつ死んでおられます。彼らを通して、神は、ご自分のみ顔を示していらっしゃるのです。

 

 

 

 

2.エホバの御顔

 

 

天界の秘義5585[3]

 

エホバまたは主の『御顔』は慈悲であり、また平安と善は慈悲のものであるため、その平安と善であることも同じく以下の記事から認めることができよう。祝とうには―

 

 エホバ、その御顔をあなたに輝かせ、あなたに慈悲をたれたまわんことを。エホバ、あなたにその御顔を上げ、あなたに平安をたまわんことを(民数記6・25、26)。

 

『御顔を輝かせること』は慈悲深くあられることであり、『御顔を上げること』は平安を与えることであることは非常に明白である。

 

 

 

天界の秘義9545

 

『顔』の意義は、主について言われる時は、神的な愛から発した凡てのものであり、例えば無垢、平安、楽しさであり、かくて人間と天使における天界そのものである(223、5585、9306番を参照)。

 

 

 

 

3.御顔の天使

 

 

天界の秘義5585[2]

 

神的な人間的なものにおける神的な慈悲[神の慈悲]はイザヤ書では『御顔の天使』と呼ばれている―

 

 わたしはエホバの慈悲を述べよう。かれはその慈悲に従って、その豊かな慈悲に従って、かれらに報いられるであろう、かれはかれらのために救い主となられた。そしてかれの御顔の天使は、かれの愛のために、またその憐れみのために、かれらを救われた(イザヤ63・7−99)。

 

 それが天使と呼ばれているのは、『天使』は聖言の内意では主の何ものかを意味しており(1925、2821、4085番)、ここでは主の慈悲を意味しているためであり、それでそれは『その御顔の天使』と呼ばれている。

 

 

 

 

4.御顔を輝かす

 

 

天界の秘義5585[3]

 

エホバまたは主の『御顔』は慈悲であり、また平安と善は慈悲のものであるため、その平安と善であることも同じく以下の記事から認めることができよう。祝祷(しゅくとう)には―

 

 エホバ、その御顔をあなたに輝かせ、あなたに慈悲をたれたまわんことを。エホバ、あなたにその御顔を上げ、あなたに平安を賜わんことを(民数記6・25、26)。

 

『御顔を輝かせること』は慈悲深くあられることであり、『御顔を上げること』は平安を与えることであることは非常に明白である。

 

 

 

 

5.神の御顔を見まつる

 

 

天界の秘義5585[4]

 

マタイ伝には―

 

 あなたたちはこの小さい者たちの一人を侮らないようにつつしみなさい。わたしはあなたたちに言う、天にいるかれらの天使は天におられるわたしの父の御顔を常に見まつっている(マタイ18・10)。

 

『神の御顔を見まつっている』は慈悲から平安と善とを楽しむことを意味している。

 

 

 

天界の秘義5608[5]

 

 たれ一人無垢を多少なりと持たないかぎり天界へ入ることはできないのであり(4797番を参照)、さらに小さな子供たちは無垢の形である天使たちにより支配されるままになっていて、自分自身を自分自身の判断と意志とにより支配する大人の場合とは異なって、未だ自分自身のものにより支配されるままにはならないのである。小さな子供たちは天使たちにより支配されるままになっていることはマタイ伝の主の御言葉から明白である―

 

 あなたらは気をつけてこの小さい者たちの一人を侮らないようにしなさい、わたしはあなたらに言います、天にいるかれらの天使たちはわたしの父の御顔を常に見ているのである(マタイ18・10)。

 

 たれ一人無垢によらなくては神の『御顔を見る』ことはできないのである。

 

 

 

 

6.御顔を隠す

 

 

天界の秘義5585[5]

 

 しかしそれに対立していることは『顔を隠すこと』、または『覆い隠すこと』であり、また『顔を背けること』であり、それは慈悲深く現れないことを意味している、例えばイザヤ書に―

 

 わたしは怒りが溢れみなぎって、しばらくの間あなたから顔を隠した、が、永遠の慈悲をもってあなたを憐れもう(イザヤ54・8)。

 

 ここでは『怒りが溢れみなぎること』は試練を意味しており、主は試練の中では慈悲深くあられないように見えるため、『わたしはしばらくの間あなたから顔を隠した』と言われているのである。

 

 

 

天界の秘義5585[6]

 

 怒りが燃えることは離れ去る[そむける]ことを意味し(5034番)、顔を隠すことは慈悲深くあられないことを意味している。これらのことが、エホバ、または主は決して怒られはしないし、また決してその御顔をそむけられはしないものの、エホバまたは主について述べられているが、しかしそのように、悪にいる人間における外観から言われているのである、なぜなら悪にいる人間は自分自身をそむけ、自分自身から主の御顔を隠し、即ち、自分自身から主の慈悲を遠ざけるからである。そのことを為すものは人間の悪であることもまた聖言から認めることができよう、例えばミカ書には―

 

 エホバはそのとき彼らから、彼らがその業を悪くしたに応じて、御顔を隠されるであろう(ミカ3・4)。

 

エゼキエル書には―

 

 彼らはわたしにそむいて罪を犯したため、それでわたしは彼らから顔を隠した。彼らの不潔に従って、彼らの咎に従って、わたしは彼らに行い、彼らから顔を隠した(エゼキエル39・23、24)。

 

特にイザヤ書には―

 

 あなたらとあなたらの神とを引き離すものはあなたらの不法である、あなたらの罪が御顔をあなたらから隠している(イザヤ59・2)。

 

 これらの、また多くの記事からその内意は明らかであり、それはここかしこに現れていて、求める者に見出されるのである。

 

 

 

 

7.彼の顔の変化は彼が交流する幾多の社会から発しており

 

 

天界の秘義6604

 

彼の顔の変化は彼が交流する幾多の社会から発しており、その交流の変化に従って、即ち、一つの社会とは他の一つの社会よりも更に近く交流が行われ、それが絶えず継続して行われるに応じて生れるのである。

 

 

 

 

8.死後顔は変化する

 

 

天界と地獄457

 

しかし後にはその顔は変化して、全く異なったものになる。それは、彼の心の内部が世で抱いていたところの、また彼の霊が身体の内で抱いていたところの情愛、または支配的な愛〔彼を支配していた愛〕に似たものとなるからである、なぜなら人間の霊の顔はその身体の顔とは非常に相違しており、身体の顔は両親から来るが、霊の顔は彼の情愛から来て、それを映し出しており、その情愛へ霊は、身体におけるその生命の後に、外部が除かれて、内部が明らかにされるとき入るからである、これが人間の第二の状態である。私は世から来て間もない幾人からの者を見、彼らをその顔と言葉から知ったが、後に彼らを見た時は彼らを知らなかったのである。良い情愛にいた者は美しい顔をしているのが見られたが、悪い情愛にいた者は醜い顔をしていた、なぜなら人間の霊は、それ自身において観察されるならば、その人間自身の情愛以外の何ものでもなく、その外なる形が顔であるからである。

 

 

 

天界と地獄458

 

 偽善者の顔は他の顔よりも変化が遅いが、それは彼らはその内部を善い情愛を模倣するように形作る習慣を、そうしたことを再三行うことによって身につけてしまったからである。

 

 

 

天界と地獄481

 

形体的な愛である者らは粗野で、すすけて、黒く、不具になって現れるが、天界的な愛である者たちは、瑞々しく、明るく、端正で、美しく現れる。彼らはまたその思考、感情の点で全く異なっており、天界的な愛である者たちはまた理知的で、賢明であるが、形体的な愛である者らは愚鈍で、いわば頓馬である。

 

 

神の摂理224

 

外なる物は内なる物から存在し、従って外なる物はその本質を内なる物から得ていることを誰が認めることが出来ないか。そして外なるものはその内なる本質とは異なったものに見えることが出来ることを誰が経験から知らないか。なぜならこれは明らかに偽善者、おべっか使い、詐欺漢の実情であり、人間は俳優や物まね師から明白であるように、外では自分のものでない性格を演じることが出来るからである、なぜなら彼らは王、皇帝の実に天使の語調、言語、顔、動作をもそのあるがままに模倣する方法を知っているからであるが、しかも彼らは俳優に過ぎないのである。このことを記したのは人間はそれと同様に社会的な、道徳的な、霊的な事柄でも偽ることが出来、多くの者がそれを行っていることが良く知られているからである。それ故、内なるものがその本質では奈落的なものであり、外なるものがその形では霊的なものに見え、しかも既に述べたように、外なるものはその本質を内なるものから得ているとき、その本質は外なるものの何処に隠されているのかとたずねられるかもしれない。それは動作、語調、言葉、または顔つきの中には現れていないが、しかもこの四つのもの凡ての中に内的に隠れているのである。これは霊界のこのような人物の経験により真であることが証明されている、なぜなら人間は自然界から霊界へ入ると―彼は死ぬとそこへ入るのであるが―その心の外なる属性を身体と共に自分の後に残して、その霊の中に貯えておいた内なる属性を保有しており、そのとき、もし彼の内なる心が地獄的なものであるなら、彼は、世に生きていた頃その霊においてあったままの悪魔のように現れるからである。凡ての者は霊となる時、身体と共に外なる物を残し、内なる物に入ること誰が認めないか。このことに私は付言しよう、霊界では各人の情愛とその情愛の生む思考とは他の者により認められ、そのため、かの世では誰もその考えることとは違ったことを語ることは出来ず、また凡ての者の容貌はそこでは変化して、自分の情愛に似たものとなり、かくしてその顔は性格の指標となる。偽善者は時々その考えるところと異なったことを語ることを許されるが、しかしその声の調子は彼らの内的な思考と全く調和していないことが認められ、この調和が欠けていることによって彼らは看破される。このことは内なる心は外なるものの語調、言葉、顔、動作に内的に隠れていて、これは自然界の人間には認められないけれど、霊界の天使には明白であることを示している。

 

 

 

 

9.顔は愛の象徴

 

結婚愛35

 

顔は愛の象徴(タイプ)である、なぜなら容貌は愛の幾多の情愛に応じて変化することは知られているから。愛に属した願いも、その喜びと悲しみもまた顔から輝き出ている。