天界の秘義553

 

 天界に相互的な愛の中にいる者たちは絶えずその若い青春期へ進んでおり、数十年間生きるに応じて益々喜ばしい幸福な春へ進んで行くのである。年老いて死に、身も衰弱したものの、主に対する信仰と隣人への愛とその夫との幸福な結婚愛に生きた女性達は年が経つにつれ益々青春の花盛りへ進み、自然的な視覚に認められることができるような美の凡ゆる観念さえも凌駕した美しさに入って行くのである。なぜならそれは善と仁慈とがそのもの自身に似た形を形作り、示し、その容貌の最小の造作の各々からさえも仁慈の歓びと美しさとを輝き出させているものであり、かくてそれらは仁慈の形そのものとなって、或る者はそれらを眺めて、驚嘆するからである。他生で、そのあるがままに見られる仁慈の形はこうしたものであり、表現し、また表現されるものは仁慈そのものであり、しかしそれは天使全体が、とくにその顔がいわば仁慈となり、仁慈が明白に眼前に現れもし、心に認められるようにもなっているのである。こうした形が見られるとき、それを見る者の心の最も内なる生命そのものを仁慈をもって感動させるものはその言い尽くし難い美である。この形の美を通し信仰の諸真理は映像となって目のあたりに示され、そこから認識されさえもしている。主に対する信仰の中に、すなわち、仁慈の信仰の中に生きた者はこうした形にまたはこうした美になるのである。天使は凡て無数の変化をもったこうした形であり、天界はこうした者から成っているのである。

 

 

 

天界の秘義1470

 

 「ねがわくは見なさい、わたしはあなたが見るに美しい女であることを知っています」。これは天的な起原から発した真理は歓ばしいものであることを意味していることは見るに美しい女の意義から明白である。天的なものであるところの、または天的なものから生み出された真理はことごとく内なる人の中では幸いなものであり、外なる人の中では歓ばしいものであり、天的な天使たちのもとでは、そのように認められているが、しかしそれが天的な起原から発していないときは全く異なっているのである。内なる人の中には二種類の幸福があり、それに外なる人における二種類の歓喜が相応しており、一つは善のものであり、他は真理のものであって、天的な幸福と歓喜とは善のものであり、霊的な幸福と歓喜とは真理のものである。真理それ自身には幸福と歓喜とが伴っていることもまた知られているが、しかしこれらは真理が天的なものから発している時にのみ本質的にそうしたものとなっているのである、なぜならそのときは真理それ自身もまた天的なものとなって、天的な真理と呼ばれるからである。比較して言うなら、そのとき真理は、その胸の中に熱を持って、そこから地上の凡ゆるものが生長するようになり、いわば生気を与えられ春の太陽の光に似ているからである。この天的な真理は美しいものそれ自身であり、または美それ自体である。これがここに『見るに美しい女』と呼ばれている真理である。これらの言葉の中にさらにいかようなアルカナが含まれているかは以下に明らかにされるであろう。

 

 

 

天界の秘義3080

 

「その乙女は見るに非常に善かった[美しかった]」。これは真理の情愛の美[真理に対する情愛の美]を意味していることは、『乙女』の意義から明白であり、それは無垢がその中に宿っている情愛である(3067番)。『見るに非常に善い[美しい]』は美しさを(ここではそれがその乙女について言われているため、真理の情愛の美を)意味していることは、美はことごとく無垢を宿している善から発しているという事実から発している。善そのものはそれが内なる人から外なる人の中へ流れ入るとき、美を作り、ここから人間の美がことごとく発しているのである。このことは同様に以下の事実から認めることができよう、すなわち、たれ一人他の者の顔により心を動かされはしないで、その顔から輝き出ている情愛により心を動かされるのであり、善の中にいる者たちはそこに存在している善の情愛により心を動かされ、しかもその善の中に無垢が存在している度に応じて心を動かされるのである。かくて心を動かすものは自然的なものの中に在る霊的なものであって、霊的なものを欠いた自然的なものではない。同様に善の中にいる者たちは小さな子供たちにより心を動かされるのである、なぜならその子供たちはその顔、動作、言葉の中にある仁慈の無垢に比例してかれらには美しく見えるからである。(善良さと仁慈とが美を作り、それを生むものであることは前の553番に見ることができよう)。それ故『その乙女は見るに非常に善かった』が善を宿している真理の情愛の美しさを意味していることはここから発している。

 

 

 

天界の秘義5199

 

「姿の美しい」。これは、それらは信仰のものであった、を意味していることは、『美』と『姿』の意義から明白である。霊的な美は内的な真理の情愛[内的な真理に対する情愛]であり、霊的な姿は信仰であり、ここから『姿が美しい』により信仰の真理の情愛[信仰の真理に対する情愛]が意味されている(553、3080、3821、4985番を参照)。霊的な美は内的な真理の情愛であることが、真理は善の形であるためである。天界の神的なものから発している善そのものは天使たちが生命を得ている源泉であるが、しかしかれらの生命の形はこの善から発している諸真理により与えられている。それでも美は信仰の真理によっては生み出されないで、善から発しているところの、信仰の諸真理の中に在る情愛そのものにより生み出されている。信仰の真理のみから発している美は化粧をした、または彫刻された顔の美のようなものであるが、しかし善から発しているところの、真理の情愛から発した美は天界の愛により生気を与えられている生きた顔の美のようなものである、なぜなら美は顔の形から輝き出ている愛または情愛のあるがままのものとなっているからである。ここから天使たちは表現を絶した美をもって現れており、その顔からは愛の善が信仰の真理を通して輝き出ており、それは眼前に現れているのみでなく、またかれらから発しているスフィアからも認められるのである。

 

 

 

天界の秘義5433[6]

 

わたしは諸々の国民におまえの裸を示し、諸々の王国におまえの恥を示そう(ナホム3・5)。

 

 ここでは『諸々の国民に裸を示すこと』は醜さを示すことを意味している、なぜなら醜さは凡て真理が欠けていることから起り、美は凡て真理から発しているからである(4985、5199番)。

 

 

 

霊界日記6110(82)

 

もし美のみが連結させて、善が連結させはしないなら、それは姦淫である、これは、また美は善から発し、善が美の本質そのものであることが信じられないかぎり、人間的なものではない。善良なこともまた顔に現れていることは単なる自然的な科学[記憶知]からも知られている。純粋な結婚愛における、また純粋でないものにおける恐怖の性質。この二つのものにおける恐怖の性質。