完全・完徳

 

主と一緒(私たち)

私の生徒は完全であってほしい

求めるのは愛、忠実と 清さだけ

手本十字架

 

 

 

1.聖書

2.デボラ

3.ヴァッスーラ

4.ルイザ・ピッカレータ

5.聖母から司祭へ

6.グリニョン・ド・モンフォール

7.サンダー・シング

 

 

1.聖書

 

 

マタイ5・14−16

 

あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。

 

 

 

マタイ5・48

 

だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

 

 

 

ペトロ1・2・12

 

また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。

 

 

 

 

2.デボラ

 

 

デボラ/生ける神より明かされた英知/5巻下P16

 

 完徳を熱望しなければならない。それは、霊魂の本質的願いだからである。あなた達のその良い意志の中に、非常な力が包含されているからである。あなた達は神の似姿である、と記されている。それは、あなた達の良心の中には、自分の状態の様々な段階を識別させることのできる目がある、ということを意味する。

 

 

 

 

3.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P261

‘89・9.22

(聖母のメッセージ)

 

愛された娘よ、アッバは皆を愛しておられます ♡

 

主に讃美。

 

子どもたちにこう伝えて下さい: あなた方に平和。 我が娘 息子たちよ、心開くのを自分たちにお許しなさい イエスが入って来られ 癒されますように。 今日のメッセージを通して イエスがどなたであるかを思い出させましょう、イエスは崇高な愛の源、この世の光でいらっしゃいます、あなた方を救うために十字架を耐え忍ばれました、その恥辱を意に留めないで、イエスは柔和 謙遜でいらっしゃいます、来てあなたの神として認めて下さい、イエスを認めることこそ、完全な徳だからです。イエスを感じ、その聖なる現存を感じるように、あなた方の一人と見なし、「私たち」と言うのを学んで下さい、祈っていない時にイエスを忘れてしまわないように、絶え間なく心に思い浮かべ、心にお入れしたら 鍵を締めておいて下さい ♡ 私たちのメッセージを脅しとは受け取らないように、私たちのメッセージは、神の無限の慈しみによる、愛と平和のメッセージです、何かを口に出す前はよく考えて 神をお悦ばせなさい、口に出した言葉で責めを受けないように、口に上る言葉はすべて あなたが聖性、従順と清さの霊を持った 神の子どもたちであるのを証すものとなりますように、熱心に正しい目的のためにお仕えなさい。 今日はこう尋ねましょう:「自分のように隣人を愛していますか?」 これを覚えていてほしいのですが あなたが弱い者でも もし主に道を案内していただくなら完徳に到達できるでしょう、日々主に自らを明け渡しなさい、怖れずにあなたの意志をお捧げするように、あなたの能力を主はご存じですから 害になることは何もお願いにならないでしょう ♡ 祈りを通して霊魂を引き上げなさい、聖性のうちに成長し、神が溢れるほど豊かに与えておられる愛のうちに成長なさい。 決して反逆者の声に耳を傾けてはなりません。 心に隙を残さないで 悪魔の誘惑を許さないようになさい、信仰、希望と愛だけに留まっているように、これらを 心を満たす果実となさい ♡ 神が−あなた方の−さ中に−おられ 霊魂に欠けているすべてを備えて下さいます。 主の葡萄畑は何倍にも増え 何千もの人びとを養うに十分な収穫を上げるでしょう。 創造主は新たな愛の時代にあなた方が入る準備を 整えておられます。 創造主を聖なる仲間、御父、伴侶、贖い主、相談相手として見なすように、慈しみ深い呼びかけをして下さる主に讃美、主はこう言われています: 「私は呼びかけを増やし 減らしはしない、子どもたちを非常に近づけて 私自身の手で養う。 その心に我が掟を置き 彼らはそれに留まり 我が愛を避難所としよう、私のもとに、真理に、連れ戻しながら彼らを慰めよう。 真の糧を与えるために 乳離れさせよう、祝福が歓迎されなかった時代はもうない、亡骸を包む布をほどき 彼らを甦らせよう、」 愛は愛として戻って来られ あなた方の間に住まわれるでしょう ♡ 私たちのメッセージを思いめぐらし 私たちのメッセージを生きて下さい。 安心するように、皆とともにいます ♡ あなた方とご家族を祝福します、祈って下さい、私もともに祈っています (ローザ・ミスティカより)

♡ 来なさい 娘よ ♡

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P25

‘89・10・30

 

花よ、私の愛は: 我が受難 という贈物を あなたに捧げる。 我が受難。 それをくぐり抜けて 私のように御父をお喜ばせしなさい。 あなたを情熱込めて愛しており これが私の 霊魂たちにたいする愛の表し方です ♡ あなたの道案内となって 我が受難の道を案内させなさい。 霊魂たちには不平を言わないで耐え忍ぶように教えている そして一人ひとりその能力に応じて与える ヴァッスーラ、学びなさい: 完徳に達する道は一つです: 我が受難の道であり それは我が十字架です ♡ 愛を込めてそれを耐えなさい、忍耐をもって耐えなさい、私の十字架を抱きしめなさい 我が子よ、すべては間もなく終わろう そしてあなたはそばに来よう。 私を拝みなさい、拝みなさい、あなたを祝福する ♡

 

 

 

 

4.ルイザ・ピッカレータ

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P64

 

「愛する子よ、愛する人のために何かの行為をいつ行うか、知りたいか? 犠牲や苦しみに出会うとき、人はそれを甘味と喜びに変えるということができる。真の愛の本質とは、苦しみを喜びに、苦みを甘味に変質させる、あの特質のことである。もしその反対を経験するとき、それは、行動的なまことの愛ではないというしるしである。もしも、私は神のためにこれをすると言っておきながら、あとずさりするとしたら、それは神のためではなく、自分の利益か自己満足のためであったことが分かる。」

 それから更におっしゃいました。「人は、自己の意志はあらゆる物事を損ない、もっとも聖なる行ないも傷つけると言う。しかし、もしこの自分の意志が神の意志とつながっているなら、それを超えることのできる徳はほかにない。なぜならば、この神の意志があるところには、善を行なうことのうちに、いのちがあるからである。一方神の意志と連結した自己の意志がないところには、行為することの中に死があることになるか、または臨終のあえぎの中でしてでもいるかのように、かろうじて行なっているということになる。」

 

 

 

 

5.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1995.3.22

 

― わたしは聖徳の道を歩むあなたがたの努力によって慰められています。

 こん日、世の救いのために司祭たちの聖徳が如何に必要なことでしょう!

 悪魔のものになった世において、世俗主義や道徳的な自由放任主義で暗くされた教会において、救いと平和へとつながる確実な道をみんなに指し示すために、司祭たちは聖なるものでなければなりません。

 罪をあなた方の最大の悪としてこれと戦いなさい。「ゆるしの秘跡」は、今日大変なおざりにされていますが、これをいつでも授ける構えをしていなさい。悪に曇らされた人たちに「神の恵み」を与えなさい。すべての徳の花咲く道を喜んで歩きなさい。そうすればあなた方は聖徳に達するでしょう。

 このために、わたしの汚れなき心に奉献するよう、あなたがたにお願いします。

 

 

 

 

6.グリニョン・ド・モンフォール

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/P27

 

(2)とりわけ、完徳にあこがれる人たちにとっては、どうしてもマリアが必要です。

 

43.マリアへの信心が、ただ単に救いをえるためにだけでも、すべての人にとって必要だとするなら、まして特別の完徳に召された人たちにとってはなおさらのこと、もっともっと必要になってくるのです。マリアとの親しい一致がなければ、またマリアの助けに完全にすがっていなければ、イエズス・キリストとの親しい一致に達することもできないし、また聖霊への完全な忠実を身につけることもできません。これはたしかです。

 

 

 

 

7.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P277

 

ダイヤモンドその他の宝石が、大自然という実験室の中で幾十万年もの間熱と寒さと圧力に耐え続け、初めて完成された美を表現するように、われわれもまた完成される以前に痛みと苦しみを体験していなくてはならない。また、化学者がダイヤモンドほかの宝石を人工的に造ることができても、注意深くテストすればすぐに傷がわかるように、われわれも一夜にして傷なき完成に至ることはできず、天の父に近づきその臨在の中に絶えず生きることによって、父が完全であるように完全なるものへと到達することができるのである。

 

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P360

 

アメリカで、ある実業家から次のような質問を受けた。

「わたしはクリスチャンとして最善を尽くしていますが、神の求められているようには完全ではありません。これは、わたしの救いにとって障害となるものでしょうか」

わたしはこう答えた。

「わたしたちが天の父のように完全になれるのは、天においてだけなのです。それでも、神の御恵みによって、人としてできる範囲の完全さに至ることはできます。救いは現在の完全さによるのではなく、われわれが救われた後で、最終的に完全になるということです。この世で、“死の体”に縛られていても失望することはありません。体には汚れがつきものですが、毎日洗っていれば汚れは害になりません。そのように、たとえわたしたちが欠点や弱さをもっていても、生命の生命、霊の霊であられる神の聖霊が内に住み、また毎日の祈りによって生活が洗い清められていれば、何一つ問題はないのです。しかし、いくら洗っていても霊魂が離れ去ってしまえば、体の腐敗は防ぐことができません。同じように、神の聖霊が人間の不従順によって離れ去ってしまうようなことがあれば、霊的な腐敗と死は避けられません。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P361

 

 神は、世にありながら世のものならぬようわたしたちに求めておられますが、それはわたしたちがこの世にあって、自分も人をも救えるためです。船の場所は水の中にありますが、水は船の中にあってはなりません。浸水すれば、船をも乗員をも沈めてしまうことになる。同じように、クリスチャンは世の中にあっても、世が彼らの中にあってはならないのです。この方法によってのみ、彼らも彼らとともにいる者も、天の目的地へと安全に船出することができるのです。

 そこで、祈りの時間がもてなくなるほどに、仕事に取り込まれないようにした方がよろしい。世と世への愛着に心奪われ、打ち負かされたりせず、むしろ打ち勝てるために世から超然としているべきです。わたしたちは不完全なため、思いと行いも不完全ですが、くじかれてはなりません。未来における完成を約束する種子を手にしているからです。わたしたちを神の子の地位にまで高めてくださった神が、正しいときにわたしたちを完全にしてくださいます。