十字架

 

苦しみ完全

 

 

 

 

1.聖書

2.マリア・ワルトルタ

3.トマス・ア・ケンピス

4.ヴァッスーラ

5.ルイザ・ピッカレータ

6.アグレダのマリア

7.スウェーデンボルグ

8.サンダー・シング

 

 

 

 

1.聖書

 

マタイ16・24−28

 

それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

 

 

マルコ8・34−38

 

 それから、群集を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者はそれを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

 

 

ルカ9・23−27

 

 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」

 

2.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ワルトルタ/復活/P187

(主はヨハンナの農夫たちに出現する)

 

私が私の十字架を耐えたように、あなたたちは、あなたたちの十字架を耐え忍びなさい。いつも忍耐強くありなさい。そして、ゆるし合いなさい。どのようにして死んだか語り継がれるであろう私に倣いなさい。苦しみの道は、天の国に至る道である。平和をもって、その道を歩みなさい。そうすれば、私の国に至るであろう。神の思し召しに対しての甘受、寛容、慈愛以外の道はない。その他の道があったなら、私はあなたたちに教えたであろう。私の通った正しい道、不変の十戒とシナイの律法、そして私の教えに忠実でありなさい。そして悪人の誘惑に引き込まれないように教える人たちが来るであろう。私はあなたたちを祝福する。いつもあなたたちを愛し、私が栄光に入る前と後に、あなたたちの所に来たことをいつまでも覚えていてほしい。真に言うが、他の人には、私を見たくとも見えないであろう。私は私を愛している人々に現れる。

 

 

3.トマス・ア・ケンピス

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・12・15

 

もし人間の救いのために、苦しみよりももっとよい、もっと役に立つことがあったならば、キリストはきっとそれをみ言葉ならびに模範をもってお示しになっただろう。

 ところがかれはかれにしたがったお弟子たちやしたがおうとするすべての人々に、十字架を負うことを明らかにお勧めになって仰せられるには、「もしわたしの後について来たいと思うならば、自分を捨て、日々自分の十字架を取ってわたしにしたがえ。」(ルカ9.23)と。

 だから私たちはすべてを読んで調べた後、こういう結論に達するのである。「私たちは多くの艱難を経て、神の国にはいらなければならない。」(使徒行録14・21)

 

 

黙示録3・7−13

 

フィラデルフィアにある教会の天使にこう書き送れ。

『聖なる方、真実な方、

ダビデの鍵を持つ方、

この方が開けると、だれも閉じることなく、

閉じると、だれも開けることがない。

その方が次のように言われる。「わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。見よ、サタンの集いに属して、自分はユダヤ人であると言う者たちには、こうしよう。実は、彼らはユダヤ人ではなく、偽っているのだ。見よ、彼らがあなたの足もとに来てひれ伏すようにし、わたしがあなたを愛していることを彼らに知らせよう。あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい。勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう。耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」』

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・12

 

[]「自分を捨て、自分の十字架を取ってイエズスにしたがえ。」(マタイ16・24)とはひどい言葉だと多くの人は思っている。

 しかし「のろわれた者よ、わたしをはなれて永遠の火に入れ。」(マタイ25・41)という最後の言葉はもっとひどく聞こえるだろう。

 だからいま喜んで十字架の言葉を聞き、これに従う者は、永遠の刑罰の宣告を聞く心配はあるまい。

 主がさばくためにおいでになる時には、この十字架の印が天に現れるだろう。

 その時生前自分を、十字架に付けられたもうお方に肖らせた十字架のしもべたちは、みな大きい信頼をもって審判者であるキリストに近づくだろう。

 

[]それなのにあなたはなぜ天国に行かれるよすがとなる十字架を、わが身に負うことを恐れるのか?

 十字架に救いがある、十字架に生命がある、十字架に敵に対する防ぎがある。

 十字架に天上の楽しさの泉がある、十字架に心の力がある、十字架に霊魂の喜びがある。

 十字架にいっさいの善徳がふくまれている。十字架に聖の完成がある。

 十字架のほかに霊魂の救いはなく、永遠の生命を得る見こみもない。

 ゆえに自分の十字架を取ってイエズスにしたがえ、そうすれば永遠の生命にはいるだろう。

かれはその十字架を取ってあなたの先に行き、あなたのために十字架の上で死にたもうたが、それはあなたにも十字架を負い、十字架の上で死ぬことを望ませるためであった。

それは、あなたがもしかれとともに死ぬならば、またかれとともに生きるだろうし、あなたがもしかれと苦しみをともにするならば、またかれとその栄えをともにするだろうからである。

 

[]見よ、いっさいは十字架を基礎(もと)とし、いっさいは自我に死ぬことにある。

 聖なる十字架の道と毎日自我に死することとのほかに、生命と真の安心とに達する道はないのである。

 どこでも行きたいところへ行き、なんでもほしい物を求めよ。聖なる十字架の道以外に、上にはもっと高い道がなく、下にはもっと安全な道が見出されまい。

 自分の気にいるように、よいと思う通り、すべてを始末し整理せよ、それでもあなたはいやでも応でも何かがまんしなければならぬことを発見し、そういうふうにあなたはつねに十字架を見出すだろう。

 というのは、あなたはからだに痛みを感じたり、霊魂に苦しみを受けたりするだろうからである。

 

[]あなたは時として神に捨てられたように感じ、時としてあなたの隣人から迷惑を受け、さらにこまったことには、しばしば自分が荷やっかいになることさえあるだろう。

 それでもあなたはどんな方法、どんな慰めによっても、救われたり苦痛を軽くされたりすることはできないだろう。ただ神がよしと見たもう間、あなたは耐え忍ばなければならぬのである。

 なんとなれば神は、あなたが慰めなしに患難をしのぶことを学び、みずからまったくかれらに服従し患難によっていっそう謙遜になるのをお望みになるからである。

 キリストと同様な苦しみを耐え忍ばなければならぬ立場におかれた者ほど、そのおん苦しみを心に深く感ずる者はいない。

 それゆえ十字架はつねに用意されていて、いたるところにあなたを待っている。

 どこへ行こうがあなたはそれから逃げおおせることができない。なんとなればあなたはいたるところに自分というものを伴って行き、つねに自分を見出すからである。あなたは上を向こうが下を向こうが、外を向こうが内を向こうが、どんな所にも十字架を見出すだろう。

 だから内心の安らかさを得、永遠の栄冠を受けようと思えば、どこへ行っても忍耐しなければならぬ。

 

[]もしあなたが喜んで十字架を負うならば、それもあなたを負うて憧れの目的地、すなわちすべての苦しみの終わる所―それはこの世の中にはないが―そこへ連れて行ってくれるだろう。

 もしあなたがそれをしぶしぶ負うならば、それはあなたに重荷となり、なおさら自分を苦しめるばかりであるが、それでもあなたはそれを負わなければならぬのである。そして一つの十字架を投げ捨てても、あなたはかならずほかの十字架、しかもいっそう重いのを見出すだろう。

 

[]死すべき者のうちだれもまた避けることのできなかったものを、あなたは逃れ得ると信じているのか。

諸聖人のうちだれがこの世に十字架なく患苦(なやみ)なしにいたであろうか?

私たちの主イエズス・キリストすら、この世においでになった間は、ただの一刻も苦しみをおなめにならぬことはなかった。いわく「キリストは苦しみを受けて死者のうちから復活し、かようにして自分の栄光にはいるはずの者であった。」(ルカ24・26)と。

 それなのにあなたはなぜこの王道であるとうとい十字架の道のほかに、別の道を探すのか?

 

[]キリストの全生涯は十字架と殉教ばかりであった。それにあなたは安息(やすみ)と喜びとを探し求めるのか?

 あなたがもし悩み苦しみ以外に何かを求めるならば、それは間違っている、ほんとうに間違っている。なんとなればこの世の生活はまったく不幸に充ち満ちていて、どこもかしこも十字架の印に囲まれているからである。

 そして人が精神において、進歩すればするほど、いよいよかれは重い十字架を見出すことがしばしばある。それは島流しの身の苦痛が、愛によってますます加わるからである。

 

[]しかしこういう人は、かようにさまざまの苦しみをなめるうちにも、これをやわらげる慰めがないわけではない。というのは、その十字架を耐え忍ぶことから豊かな結果が生ずることを感じているからである。

 みずから望んでその下に身をおくと、患苦(なやみ)のどんな重荷も変じて神のおん慰めに対する信頼となるのである。

 そして肉が患苦(なやみ)におしつけられればおしつけられるほど、霊魂は内部(うち)なる恩恵によって強められるのである。

 またときどき人はキリストの十字架にあやかることを愛する心から、災難やつらいことを望み、その望みに強められて、苦しみや難儀なしにはいたくないと思うことさえある。それはこういう人は、自分が神のおんために忍び得ることの多ければ多いほど、またつらければつらいほど、ますます主のおぼしめしに適う者となると信じているからである。

 弱い肉体に作用(はたら)いて、生まれつきではつねにいやがって避けることに、霊魂の熱心をもって着手し、それを愛することができるようにするのは、これは人間の力でなく、キリストの恩恵である。

 

[]十字架を担い、十字架を愛し、肉を懲らしてこれを征服し、栄誉をさけ、甘んじて恥辱(はずかしめ)を忍び、自分をつまらぬ者と思い、人にもそう思われることを望み、すべての不幸と損害とをこらえ、この世の栄華をねがわないこと、これは人間にはできぬことである。

 自分で自分を観察して見よ、これらのうちの一つも、あなたは自分の力ではできまい。

 しかしもし主にお頼りするならば、あなたは天からの力を与えられ、この世と肉とはあなたの支配にしたがうようになるだろう。

 もし信仰で武装し、キリストの十字架の印をつけられるならば、あなたは敵なる悪魔を恐れぬだろう。

 

[10]だからあなたはキリストの善良忠実なしもべとして、あなたの主、すなわちあなたを愛して十字架に付けられたもうた主の十字架を、雄々しく担う覚悟をせよ。

 このみじめな人生において、多くの不幸とさまざまな患難とを耐え忍ぶ用意をせよ。なんとなればあなたがどこにいようとも、それはあなたをはなれず、あなたはどこに見を隠そうともふたたびこれに出会うだろうからである。

 それはどうにもならないことで、ただ耐え忍ぶ以外には不幸のなやみ苦しみを逃れる方法は一つもないのである。

 もしあなたが主の友となり、主とともにいようとするならば、愛をもって主のおん杯を飲め。

 慰めは神にお任せせよ、主はみ旨のままになさるだろう。

 けれどもあなたは患苦(なやみ)を耐え忍ぶ覚悟を定め、これを最大の慰めと思え。というのは、この世の苦しみは、そのすべてをあなたひとりに受けても、将来の光栄をかちえるに足らないからである。

 

[11]キリストを愛するゆえに、苦しみが楽しくなり好きになったという境地にまで達したならば、あなたは自分について万事よろしと考えてよい。なんとなればその時あなたは地上に楽園を見出したからである。

 しかし苦しみがつらく思われ、それから逃れようとする間は、あなたは幸福ではない。逃れようとする苦しみはどこへでもあなたを追いかけてゆくだろう。

 

[12]もしあなたは自分のしなければならぬこと、すなわち苦しみをしのぶことおよびおのれに死することを覚悟するならば、あなたはいっそうよくなって平和を見出すだろう。

 たといあなたが聖パウロとともに第三天まであげられたとしても、そのためにあなたがもはや苦しみに会わぬとは受け合われない。イエズスは言っておいでになる、「かれがわたしの名のためにどれほど苦しまなければならぬか、わたしはそれをかれに示そう。」(使徒行録9・16)と。

 だからあなたがイエズスを愛して、たえずかれに仕えようとするならば、あなたはどうしても苦しまなければならぬ。

 

[13]ああ、どうかあなたが、イエズスのみ名のために、何か苦しみを受けるに足る者となるように!そうすればどんなに大きな栄光があなたを待っているだろう、神の諸聖人はどんなに喜びの叫びをあげるだろう、あなたの隣人たちはどんなに感化を受けるだろう。

 すべての人は忍耐をよいと言う。しかし苦しみを耐え忍ぼうとする者は少ない。

 実際、あなたはキリストのおんためにわずかな苦しみくらい甘んじて受けるべきである、多くの人々はこの世のためにすらもっとひどい苦しみを忍ぶのだから。

 

[14]あなたは絶えず自我に死する生涯を送らなければならぬことをしっかりと明らかに知れ。人は自我に死ねば死ぬほど、ますます神に生きるようになるものである。

 キリストのおんために苦難を忍ぼうとする者でなければ、決して天上のことを悟ることはできないのである。

 キリストのおんために喜んで苦しむよりも、神に嘉され、あなたのためになることはこの世にない。

 もし勝手に選ぶことができるならば、あなたは多くの慰めを受けることよりも、キリストのおんために苦しみをなめることを望まなければならぬ。なんとなれば、かようにするとあなたはいっそうキリストに似、ますます諸聖人にあやかるからである。

 思うに私たちの功勲(いさおし)、私たちの修道者としての進歩は、慰めや楽しみにあるのではなく、かえって大きな患難不幸を耐え忍ぶところにあるのである。

 

[15]もし人間の救いのために、苦しみよりももっとよい、もっと役に立つことがあったならば、キリストはきっとそれをみ言葉ならびに模範をもってお示しになっただろう。

 ところがかれはかれにしたがったお弟子たちやしたがおうとするすべての人々に、十字架を負うことを明らかにお勧めになって仰せられるには、「もしわたしの後について来たいと思うならば、自分を捨て、日々自分の十字架を取ってわたしにしたがえ。」(ルカ9.23)と。

 だから私たちはすべてを読んで調べた後、こういう結論に達するのである。「私たちは多くの艱難を経て、神の国にはいらなければならない。」(使徒行録14・21

 

 

 

 

4.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P72

‘88・11・16

 

♡ あなたのために食卓を整え、自らの手で、あなたの口に私の食物を運んだ。 あなたの神 私はどれほどあなたを愛するか!!嫉妬せんばかりに愛している!それからあなたに油を注ぎ 私のものとした、あなたを伴侶とし 主人となった、私は恵みであなたを覆い 我が宝石で富ませた、我が十字架、釘と茨の冠を与えたであろう? 伴侶がその愛する者へ これ以上の尊い宝を与えることができようか?

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P246

‘89・9・6

 

後ほど、私に十字架を置いて行かれた後、神秘的な仕方で、悲しみの雨を夜遅くまで身に受けました。世界がその罪とともに迫ってくる感じでした、あらゆる種類の罪とともに。この苦悶の中で突然、ゲッセマネの園におられるイエスを思い出し、激しく泣いたのです、一方ほんのしばらくでも、イエスを軽くしてさしあげられて満足です。 ― 後にイエスがおいでいなり、十字架を持って行かれました。

私の生徒は完全であってほしい

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P249

‘89・9・13

 

望むままあなたを用いさせてくれるように、愛している、そしてあなたに抱く大いなる愛ゆえに、私の苦い杯から飲むのを許す、あなたにたいする愛が大きければ大きいほど、もっと多く飲むのを許そう、そして伴侶として私の最も尊い宝石を与えた、我が十字架、釘と茨の冠を任せたであろう? これほど愛しているのが分かってくれたか? 私の道はあなたのとは違う、私はあなたを 完徳 そして聖性の道へと導き、霊魂を清めている。 花嫁よ、私の宝石であなたを飾らせなさい、我が受難を見せるのを許してほしい、自己否定は完徳へと導く、そこで霊魂にとって最もよいことを 自由に行えるままにさせておきなさい そして覚えておくように、みことばと 私のやり方を十分に理解していなくとも、イエスが救い主という意味であるのを 覚えておくように。 ♡

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P25

‘89・10・30

 

花よ、私の愛は: 我が受難 という贈物を あなたに捧げる。 我が受難。 それをくぐり抜けて 私のように御父をお喜ばせしなさい。 あなたを情熱込めて愛しており これが私の 霊魂たちにたいする愛の表し方です ♡ あなたの道案内となって 我が受難の道を案内させなさい。 霊魂たちには不平を言わないで耐え忍ぶように教えている そして一人ひとりその能力に応じて与える ヴァッスーラ、学びなさい: 完徳に達する道は一つです: 我が受難の道であり それは我が十字架です ♡ 愛を込めてそれを耐えなさい、忍耐をもって耐えなさい、私の十字架を抱きしめなさい 我が子よ、すべては間もなく終わろう そしてあなたはそばに来よう。 私を拝みなさい、拝みなさい、あなたを祝福する ♡

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P66

‘91・2・4

 

♡ あなたとともにいて 完徳の道へと 足取りを導こうとしているが 我がヴァッスーラ 私の十字架を通らなければ誰も完徳に達するをえない。自己否定によって 完徳の道へと導かれることをしりなさい、それは私の誉れとなりあなたを清めよう。

 

 

5.ルイザ・ピッカレータ

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P182

 

 それでは私がイエスとともに十字架につけられることについて、熱い望みを感じていたということに戻りましょう。それは私の全ての善なら方への愛と私の過去への償いと贖いのためでした。イエスはいつものように、私自身の外へと私を出させるために再びいらっしゃいますと、主があの痛ましいご受難を忍ばれた聖なる土地へと私の魂をお連れになりました。あの聖地をめぐっているあいだに、私たちはたくさんの十字架を見ました。「花嫁よ、十字架がそのうちに含み持っているこのうえない善と、それがいかに霊魂を尊いものとするかを全ての人が知ったなら彼らは皆それを是非にと熱望することでしょう。なぜなら十字架を持っているという善を所有している人は、それによってこのうえなく貴重な価値のある宝石を獲得するからです。あなたには次のように言うだけで足りるでしょう。わたしは天から地上に来たとき生活の富とか楽しみを選ぶことはせず、もっとも親しく愛すべきものとして十字架と貧しさ、恥辱と非常な苦しみを所有しました。また全てこれらの事柄とその存在の中で、いつもわたしの受難と十字架の死の時が早く近づくようにと熱心に望んでいました。なぜならこのことの中にわたしは霊魂の救いのわざをかけていたからです。」

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P183

 

 イエスはこのように話されているあいだに、主が苦しまれた時におぼえられた味わいと喜びの全てを私に感じさせて下さいました。そのお言葉は苦しみへの熱い望みと愛の昇華、少しでも早く主のように十字架につけられることへの熱望の火を私の中に燃やしました。そこで、あらん限りの声をふりしぼって私は次のように祈りました。「ああ聖なる花むこよ、苦しみを与えて下さい。十字架をお与え下さい。それによってあなたがいかに私を愛して下さるかが分かりますように。そうでなければ、あなたを否定した私へのあなたの愛についての不安のうちにいつも生きなくてはならないでしょう。」するとイエスはいつになく私のこの嘆願を気に入られて、すでに私が前に見たひとつの十字架の上に私が身を横たえることをお許しになりました。

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P185

 

 ついにある朝、それは「十字架の称讃」の祝日の日でした。イエスはとても忙しそうな様子でおいでになりますと、再び私をエルサレムの聖地にお連れになり、十字架の神秘と徳についてたくさんのことを考察おさせになったあとで、やさしくおっしゃいました。「愛するものよ、あなたはすっかり美しくなりたいですか? それでは、天地で見出すことができるもののなかで最も美しい輪郭をあなたに与えてくれる十字架を観想してごらんなさい。それによって神はご自身のうちに全ての無限の美しさをもっているにもかかわらず、その神をしてあなたとの愛においちいらせるでしょう。それからあなたは一時的にでなく、永遠にわたってたくさんの富に満たされたいですか? よろしい、もしあなたのうちに、その全ての富とともに天国を所有したいという熱望を持っているのなら、ますます十字架を愛しなさい。それはあらゆる種類の小さな苦しみというごく小さな部分から始まって、より重い十字架がもたらす数えきれない量にまでいたり、あなたにその全ての富を注ぎ入れてくれるでしょう。他方で人びとは、やがては捨てなくてはならない一時的なお金をほんの少しでも余計にもうけようと捜し求めることにあまりにも必死となり、永遠の善のためにほんのちょっとでも努力することにはなんの注意も払わないのです。けれどもわたしは、彼らが永遠の善に関すること全てにたいして無頓着なのを見て憐れみをおぼえる時、善意をもってその善を得ることができるような機会を差し出してあげます。ところが彼らは、わたしに感謝するかわりに、わたしにたいして憤慨し、その強情さをもってわたしを侮蔑するのです。娘よ、この可哀想な人類のうちに、どれほどの盲目性があるか見えますか? 本当は十字架のうちには全ての凱旋、最も大きな獲得品と勝利がこめられているというのに。あなたは反対に十字架以外、他のどんなものも意図しないように。なぜならそれだけで十分足り、全てを代用するでしょうから。

 そこで今日こそ、今まで適当でなかったあの十字架の上に完全にあなたを釘づけることによって、あなたを満足させてあてましょう。この十字架がわたしの愛の甘い魅力をあなたの上に引き寄せ、その上にあなたを完全に釘づけることをわたしが納得するものであるということを覚えていなさい。あなたが今まで我慢してきた十字架は、あなたの愛の証拠品として所有し、わたしへの愛の証しとして天の全ての住人に示すためにわたしが持っていきましょう。この十字架の代わりとして、あなたの苦しみへの熱望に応えるためにもっと重く苦しい別の十字架を天からあなたに下しましょう。それは間もなくあなたに関するわたしの計画を完成するために与えられるでしょう。」

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P23

 

イエズスは十字架の貴重さを示される。

1899年3月31日

 

 今朝お慕いするイエズスは十字架につけられた姿で現れ、その苦しみを私に伝えられたのちに言いました。

 

「私の受難において私を苦しめた傷は多くあったが、十字架は一つでした。このことは、私が霊魂を完徳へと導く道は多くあるが、これらの霊魂が一体化する天国は一つであるのを意味しています。もしその天国を間違うと、彼を永遠に祝された者としてくれる天国はもう他にはないのです。」

 それからつけ加えて、「ここを見てごらん。十字架は一つでも、十字架は幾つかの木で作られています。つまりそれは、天国は一つでも、栄光の多い場所と少ない場所との組合わせで出来ているのです。それはこの地上でその人が耐えた苦しみの量によって、各々の場所があてがわれるということです。ああ、もし皆が苦悩に耐えるということの貴重さを知ったなら、きっと彼らはもっと苦しみたいと思って競争することでしょう。でもこの知恵はこの世では知られていないので、人びとは、自らをより富んだ者としてくれるこの真理を嫌うのです。」

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P49

 

「十字架は、魂を忍耐強くする。十字架は天を開き、天と地を一つに結びつける。つまり、神と霊魂を。十字架の徳は力強く、それが魂の中に入ると、世俗のさびをすべて落とす働きをする。それは俗事を退屈で、わずらわしいもの、軽蔑の対象とし、天上のことすべてに味わいや喜びを感じるようになる。それでもこの十字架の徳のことを知っている人は少なく、それを軽蔑する人は多いのです。」

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P172

 

「我が娘よ、十字架の道とは、星を散りばめた道です。その十字架と一致して歩む人にとり、それらの星は輝かしい無数の太陽となる。永遠に無数の太陽に囲まれ霊魂はどれほどの幸せを味わうでしょう。十字架の大いなる価値は測りようがなく、幅も長さもない。それは人間の頭ではほとんど理解できない。なぜなら、十字架の忍耐は、人間の力ではなくて、神のわざなのだから。」

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/3巻P29

 

「愛する主よ、十字架とは何であるか、そして十字架が何をするかということについて、いったい誰があなたに何か申すことができるでしょうか? あなたのおん口のみが、十字架の崇高性についてふさわしく話すことがおできになります。けれどもあなたが望まれますのでやってみましょう。イエス・キリストよ、あなたによって苦しまれた十字架は、私を悪魔の奴隷の身分から解放し、解くことのできない絆によって私を神性に一致させました。十字架は多産なものなので、私の中に恵みを産み出します。十字架は光。それは、はかない偽りを除き、私に永遠を明かしてくれます。十字架は炎。それは神でないすべてのことを灰と化し、私の心にあるほんの小さな雑草も焼き去ります。十字架は計ることのできない価値を持ったおかね。もしそれを得る幸せを私が持てるとしましたら、聖なる花婿よ、天国で一番お金持ちになれるように、私はこの永遠のおかねによって富を増やしましょう。天国で通用するおかねとは、この地上で苦しんだ十字架のことですから。また十字架は、私に自分自身について理解させてくれるのみでなく、神についての知識を与えてくれます。十字架は私の中に全ての徳を接ぎ木してくれます。それは神の英知の貴い教壇であり、もっとも崇高で繊細、かつ高い知識を与えてくれます。十字架はそれだけで、この世の学者や博識者には隠された事柄のすべて、もっとも隠れた神秘、もっとも隠れた事柄、もっとも完全な完全性を私に明かしてくれます。十字架とは、私を清めるだけでなく、徳のために必要な滋養物も私に与えてくれる恩恵の水です。それによって私を成長させ、それは私が永遠の生活に入ったときにのみ私から別れます。十字架は私を純潔に保ち、その百合の花で飾ってくれます。十字架は希望の糧、活動的歩みのための灯火です。十字架は愛徳の炎を常に保つよく乾いた木片で、全ての傲慢と虚栄の煙を追い払い、謙遜な霊魂の中に謙遜のすみれの花を咲かせます。十字架は悪魔を怒らせ、彼らの毒牙から私を防いでくれます。十字架を所有している霊魂は天使や聖人たちからさえ羨ましがられ感嘆されますが、悪魔たちの間には憤怒と立腹を起こします。十字架とは私にとっての地上の天国です。もし幸いな人々が天国で愉悦を味わっているとしましたら、地上の天国では苦悩があります。我が主よ、十字架とはあなたと私を結びつけるもっとも純粋な金の鎖です。それはもっとも親しい一致の状態を作りますので、私の存在はもはや消え失せ、私の愛する目標であるあなたのうちに私を変化させて、私自身はあなたのうちに無くなってしまい、あなたのいのちそのものを生きているかのように感じさせるまでにいたります。」

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P253

1903年3月5日

 

 いつもの状態におりますと、幸いなるイエスと一緒に居る自分を見いだしましたが、主は十字架の束と茨を腕にかかえ、すっかり疲れて苦しげでした。このような状態の主を見た私は申しました。

「腕にそのような束をかかえて、何のためにあなたはこんなに苦しそうなのですか?」

「我が娘よ、これは悟りの十字架である。私は被造物の迷いを覚ますために、いつもこれを用意して持っている。」

 主がこうおっしゃると、私たちは人々のあいだに居ました。イエスは、被造物に愛着している一人の人を見るやいなや、その十字架の中から一本の苦難の十字架を取り上げて、それを彼に与えられました。この人は自分が圧迫され、誤解されるのを見て、その迷いから覚めました。彼は、その苦難の原因は被造物であって、神のみが本当に愛されることに値する、ということを理解したのです。

 もう一人の人が富に執着していますと、イエスはあの十字架の束の中から、貧しさのそれを取り出して彼に与えました。この人は自分の富が消えてゆき、惨めな状態になったのを見て、この世のものはすべて煙と同じであり、本当の富とは、あの永遠のものであることを理解しましたので、そのあと彼の心は、すべて永遠の事柄に結びつけられました。もう一人の人は、人々からの尊敬と知識に心がしばられていましたので、イエスは優しさをこめて、中傷と恥辱の十字架を取って彼に与えました。彼は人々から恥辱と中傷を受けて、自分の仮面を脱ぎ、自分の虚無を理解しました。こうして彼の存在と内面のすべては、ただ神の秩序に従って整頓され、もう自分に従うことはしませんでした。こうして他の全ての十字架も、そのように働きました。

 このあと崇むべきイエスは私に言われました。

「なぜ私が、この十字架の束を腕にもっているかが分かったか? 私は被造物に対する絶え間ない愛の姿勢に留まっているので、この愛が彼らのために十字架の束を持っているように強制するのである。十字架とは、最初の覚醒剤であり、被造物の働きにたいする最初の裁判官である。もし被造物が降参するならば、十字架が神の裁きを免れさせてくれるだろう。人がこの世に生きているあいだ、十字架の裁きおもとに自分を従わせるなら、私は満足するからである。しかしもしそれに屈伏しないなら、この被造物は第二番目の悟りの環境を見いだす。つまりそれは死による悟りである。彼は生前、すべてが愛の裁きである十字架の裁きから逃げたので、この時にはもっと厳しく神から裁かれるであろう。」

 このあとイエスは消えられました。私は、イエスがこれほど十字架を愛されるので、人間も度々、自分に十字架を与えてくださるようにとイエスを励まし、促すことがあることを理解しました。事実、もし人が神の秩序に基いて、自分自身と被造物との間に秩序を保って生きるとしたら、主は彼の中に何の混乱も見つけることがおできにならないので、平和を与えてくださるでしょう。

 

 

6.アグレダのマリア

 

アグレダのマリア/神の都市/P186

元后の御言葉

 

 私の娘よ、御子の御受難と十字架には大変な価値があり、十字架の道行きに参加する人々にもその価値があることを私は理解しました。従って、私自身も御子に付き添い、御子の悲しみと苦しみ全てを共に受ける許可を御子に願い、頂きました。その苦しみの期間、神がいつも下さる喜びを抹消して下さることもお願いし、そうして頂きました。御子は私を心から愛しておられるので、私のこの願いは御子の希望でもあったのです。喜びが消えると御子はよそよそしくなり、私をカナの婚宴や十字架刑の時、私を母と呼ばず、婦人と呼ばれたのです。御子自身の苦しみと私の苦しみを一致同化するための印です。

 私たちの内、ほとんど全員は、自己犠牲と十字架への本当の道を嫌がり、怖がります。そして、この世の真の最高の祝福を失います。受難は、罪からの回復のための唯一の手段であるから、苦しみを避ける限り、回復は不可能となります。苦しみと悲しみにより、罪の湯気は減り、情欲は押し潰され、誇りと高慢は引き下ろされ、感覚はコントロールされ、悪への傾向はなくなります。自由意志は理性による枠の中に入れられ、情欲に我が身を任すことはなくなるでしょう。神の慈愛は、苦しみ悲しむ人々の上に注がれます。この苦しみの意味を知らない人や、苦しみから逃れる人は、愚かか気違いです。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P232

 

元后の御言葉

 御受難と御死去の秘密とは、唯一、真の人の道は十字架であることも、招かれた者全員が選ばれていないことを、あなたは納得したことと思います。主に従いたい者は多いが、主を真似る者は少ない。十字架の苦しみを感じるやいなや、十字架を棄てます。永遠の真理を忘れ、肉欲を求め、肉の喜びに耽る者は多いのです。人々は名誉を熱心に求め、不名誉から遠ざかります。富を求め、貧困を批難します。このような人たちは主の十字架の敵です(フィリッピ3・18)。

 もう一つのごまかしが世に広まっています。それは大勢の人たちが主に従っていると想像していますが、苦しまないし、労働もしていないことです。罪を犯さないことで満足します。自己犠牲や苦行を避けるという賢慮または自己愛を完徳と考えます。もしも、御子が救い主だけではなく、先生でもあることを考えるなら、この人たちは間違いに気づくでしょう。主は愛を誰よりも良く理解しておられ、誰よりも完璧に愛を実行されました。肉体にとって易しい生活ではなく、労働と苦痛の生活を選ばれました。主は、悪魔、肉欲と我欲をどのように克服するかを教えて下さいました。つまり、十字架、労働、償い、苦行と侮辱の甘受により勝利を得るのです。

 

 

 

7.スウェーデンボルグ

 

黙示録講解934〔2〕

 

『彼が持っていた凡てのものを売ること』は、彼は言い伝えであった彼の宗教の事柄を放棄しなくてはならないことを意味し―なぜなら彼はユダヤ人であったからである―また彼は彼自身のものであった幾多の物を放棄しなくてはならない―それは神にまさって自己と世とを愛することであり、自分自身を導くことであったのであるが、そのことを―放棄しなくてはならない、を意味しているのである、主に従うは主のみを承認し、主により導かれることを意味しており、それでまた主は言われたのである、『なぜあなたはわたしを善いと呼ぶのですか、神のみを除いてはたれ一人善くはありません』と言われたのである。『十字架を取り上げる』は悪と誤謬とに反抗して戦うことを意味しており、悪と誤謬とは自分自身のものであるものから発しているのである。

 

 

生命99

 

『十字架』は(またマタイ10・38、16・24、マルコ10・21、ルカ14・27におけるように)試練を意味している。自分の生命により(またマタイ10・39、16・25、ルカ9・24、特にヨハネ12・25におけるように)人間の固有性の生命が意味されており、それはまた『何ら益を与えない肉の生命』である(ヨハネ6・63)。

 

 

 

 

8.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P162

 

人は好むと好まざるとにかかわらず、十字架を避けて通ることはできない。キリストの十字架負うことがなくても、この世の十字架を負わなくてはならないからである。初めは、キリストの十字架は重く、この世の十字架の方が軽いと思うかもしれないが、実際にはこの世の十字架は重く、その結果はローマ帝国の時代と同じく奴隷死であることが、経験によってわかるのである。だが、キリストは十字架は栄光へとお変えになった。かつては汚名と死の象徴だった十字架が、今や勝利と生命の象徴となったのである。十字架を負う者は、十字架が自分たちを背負って安全に目的地に連れていってくれることを、身をもって知る。だが、この世の十字架は、われわれを引きずり回した挙句に破滅に導く。自分がどちらの十字架を負っているか、考えてみる必要があるだろう。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P162

 

その人の働きと霊的状態に応じて、負う十字架もまちまちである。外側は釘だらけにみえても、十字架には甘美で平和な性質がある。それは、鋭い針をもつ蜜蜂が甘い蜂蜜を造るのにも似ている。外側の難しさを恐れるあまり、十字架のもつ大きな霊的祝福を失ってはならない。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P162

 

何も知らない旅人は、山を登り下りするのに疲れて、神は間違って山を造ったに違いない、平地だけ造ってくれていればずっと楽なものを、と考える。それは、山が沢山のことに役立ち沢山の宝を秘めていることを知らないからである。例えば、山は水を循環させ続けているが、水の循環は体内での食物の循環と同じほど、世界にとっては大切である。同じように、人生の浮き沈み、十字架を負うことの辛苦がわたしたちの霊的生命を循環させ続け、それが淀むことを防いで、魂に限りない祝福を与えてくれるのである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P163

 

大戦中のこと、ある肥沃な土地に塹壕(ざんごう)が掘られて、田畑が駄目にされたことがあった。ところが、しばらくしてその塹壕に美しい花が咲き、実が成り始めた。それは、肥沃な土壌の下にもっと肥沃な

土壌が隠れていたからである。そのように、わたしたちが十字架を負って苦しむときに、霊魂に隠された富が表面化してくる。それが自分を滅ぼすとみえても、絶望する必要はない。十字架は、霊魂に秘められている、これまで使われずにいた力を表に出すのである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P163

 

スイスでのことだが、ある羊飼いが一頭の羊の脚を折った。なぜそのようなことをするのかとの問いに、他の羊たちを迷わせて危険な断崖絶壁に連れていく癖があるから、と羊飼いは答えた。羊は非常に怒って、この羊飼いが餌をやりにくる度に、彼の手を嚙もうとした。だが、しばらくすると、羊飼いと仲直りし、手をなめるようになった。同じように、悲しみや苦しみを通して神は不従順な者たちを安全な道に導き入れ、永生へと招いてくださる。

 

 

 

 

徳間書店/林陽訳/サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P163

 

気体は寒いときには光を幾らか吸収するが、暑いときには逆に放出する。それと同じく、わたしたちは霊的に冷えていると、義の太陽が照らしているにもかかわらず暗黒の中で生きることになる。だが、十字架の摩擦によって聖霊の炎が点火され、熱が生じてくると、神の光によってまず自分が照らされ、次に人々にその光をもたらすようになる。

 

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P164

 

ダイヤモンドは、研磨されなければ美しい輝きを放つことはない。カットされると、太陽光線がカット面に反射して、えもいわれぬ光彩を放つようになる。そのように、十字架によって磨き上げられるときに、わたしたちの霊魂は天の王国において宝石のように輝くようになる。

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P239

 

弟子―十字架の意義、目的とは何でしょうか。この世に苦しみが存在するのはなぜでしょうか。

 

キリストー1.十字架は天界への鍵である。わたしが洗礼を受け罪人の救いのための十字架を身に負ったそのときに天が開かれ、三十三年にわたり背負った十字架とその上での死によって、罪のためにそれまで閉ざされていた天が、信じる者のために永遠に開かれたのである。

 そして今、信じる者は自分の十字架をとってわたしに従うや否や、わたしを通して天界に入り、この世では理解できないあの計り難き至福を歓び始める。天界は信じざる者には閉ざされているからである。希望と経験は、苦のあとに楽がくることを不信者に教えるが、そのような歓びは長くは続かない。だが、わたしは子供たちに苦しみの中での安らぎ、完全な幸せと平和を与える。歓びをもってわが十字架をとる者は、その十字架によってもち上げられ、その十字架に支えられたまま、ついには天界に入る。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P240

 

2.苦しみは、人間の強情な反逆的性質から生じるものである。それは、熱帯の炎熱が寒帯に住む者にとっては煩わしく苦痛なものとなり、寒冷が熱帯に住む者にとって苦痛を生むのと同様である。寒さも暑さも、太陽に対する地球の位置関係によって決まるものである。そのように、人は自由意志の使い方によって、神と一致もすれば不和も起す。神の法は人の霊的健康と幸せのためにあるのだから、それに対立すれば霊的苦悩を生むのは当然である。神はこうした神の意志への対立と反逆の状態を一掃してしまうことなく、この世が人間の住処(すみか)として創造されたものではなく、人間にとって異邦の地であることを人にわからせるために、それをお使いになっている。

 この世は、人を完全な不滅の内へと準備させるためのものにすぎない。また、打ち続く不幸も、人が不注意になり、真理から外れてこの滅ぶべき世と運命を共にしたりせぬよう、霊魂を目覚めさせるために与えられているのである。人は創造主との聖き交わりに入り、現(うつ)し世の悲哀から逃れたのちに、永遠の幸福と平和の天界に入るべく意図されている。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P240

 

3.苦悩は毒のように苦いとはいえ、ときとして毒そのものが解毒剤になることはよく知られていることである。わたしが信者の霊的健康と力を増すために、ときどき苦悩という苦い薬を使うのもこのためである。完全な健康が得られるや否や、すべての苦しみは終わりを告げる。人の痛みはわたしにとっては何ら歓びではない。人間の永遠にわたる幸せが、わたしのただ一つの目的である。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P241

 

4.地震の衝撃によって熱砂の中に清水が湧き出し、不毛の地が灌漑されて実り豊かな土地と化すように、人によっては受難の衝撃によって生ける水の泉が胸の奥深くに開かれ、それまで不平不満ばかりのあった場所に感謝と歓びの水が吹き出ることがある。

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P241

 

5.世に生まれ落ちるや否や、子は最初の産声を上げることが何より必要になる。呼吸が自由になり、肺が隈なく使われるようになるためである。何かの理由で産声が上がらなければ、産声を上げるまで子の尻を叩く必要がある。完全の愛についても同じことがいえる。わたしは、子供たちの祈りの呼吸が霊魂の肺を自由に巡り、彼らが新しい力を得て終わりなき生命に生きるため、苦難の鞭をもって子を叩き、産声を上げさせることがある。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P241

 

6.十字架は、外皮は苦くとも内実は口当たりよく栄養価に富むクルミに似ている。十字架は、傍目には何ら魅力を与えずとも、十字架を負う者にその真価は明らかにされる。彼は、そこに霊的平和という最上の甘味を識る。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P241

 

7.わたしは世に生まれ落ちた瞬間から、人類救済のための過酷な十字架を背負った。十字架上での六時間だけでも、伝道の三年半だけでもなく、三十三年半にわたる全生涯を通じ、人類が死の苦しみから救われるために十字架を負ったのだ。清潔な人間が不潔な場所にただ二、三分いるだけでも苦痛を覚えるように、わが内に留まる者もまた邪悪な者たちの間に住むことをもっとも忌み嫌う。罪汚れに心悩ませた祈りの人々の中に、世を放棄して砂漠や洞窟に退き、隠者となって生きる者たちがいるのもこのためである。

 そこで、よく考えよ。もともと罪人であった人間でさえ、仲間に我慢できなくなるほど罪の存在に耐え難くなり、彼らの元を去って二度と帰ってきたくないと思うほどであるなら、わたしの十字架はどれほど辛く苦しいものであったことか。聖なるものの源泉たるわたしが、三十三年以上もの間、罪にまみれた者たちと絶えず生活を共にしなければならなかったのだ。このことを理解し正しく認識することは、人間の精神の力を超えている。それは天使たちすら、知りたがっていることなのである。創造以前より、彼らは神が愛であることを知っていた。その神の愛は、被造物を救い、彼らを永生に入れるために神自らが受肉し、苛酷な十字架を負わなければならないほど大きなものであった。このことは、彼らにとってさえもっとも驚嘆すべきことだったのだ。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P242

 

8.わたしは今の世においても、わが内に生きる者たちの十字架を共に負い、彼らと受難を共にする。彼らは造られた者、わたしは造り手である。だが、ちょうど肉体と霊魂とが別々のものであっても、体の僅かな痛みが即座に霊に知覚されるほど両者が緻密なつながりをもっているように、わたしは子の生命であり霊であり、子はいわばわたしの体でありその各部である。わたしは彼らの痛み、悲しみを一つ一つ共にする。そして、適ったときに彼らに安らぎを与える。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P242

 

わたし自らが十字架を背負ったのであるから、たとえ彼らが迫害の火をくぐるとも、わたしは十字架を負う者たちを救い、全き避難所に入れることができる。わたしはネブカドネザル

の炉の中で三名の者とともにいた。炉はどれほど激しく燃えさかろうと彼らを害することはできなかった。そのように、聖霊の洗礼によって新生命を受けた者たちは、迫害の火もどのような危害も感じることはない。彼らは、永遠の平和と安全の中にいるわたしの内に住むからである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P360

 

不純な金鉱石が火の中で純化され、形もわからないダイヤモンドの原鉱石がカットされて美しい結晶を表面(おもて)に出すように、聖霊がクリスチャンの生活を汚れから清め、十字架が、さらにそれを磨き上げて美しく形を整え、神の栄光を映すほどの輝きを与えることになるのである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P434

 

 キリストに従う者は自我を退け、キリストを証言するために苦しみの十字架を負う。自分の利益ではなく、人のためになることを求めるときに、われわれの人生は百倍も豊かになる。