偽善者
1.偽善的な信仰は信仰でない
2.偽善者は時としては、説教家になる
3.徹底した偽善者は悪魔が天使を嫌忌するように、真に霊的な人間を嫌悪する
4.白く塗った墓
5.金を被せた糞
6.マリア・ヴァルトルタ
1.偽善的な信仰は信仰でない
真の基督教381
(3)「偽善的な信仰は信仰でない。」
人間は絶えず自分のことと、自分の他に対する優越性とを考える時、偽善者になる。何故なら、彼はかくしてその思いと情とを自分自身とその肉体的感覚とに集中するからである。それ故、彼は自然的、感覚的、形体的となり、その心はその執着する肉から引き離されることは出来ず、また神へ向かって揚げられることが出来ず、また天界の光によって神的な或は霊的なものを何一つ見ることが出来ない。而して、彼は肉欲的な人間であるため、その聞く霊的な事柄を、空中に浮遊する蜘蛛の巣か馬の頭をぶんぶんうなり乍ら飛び回る蝿のような単に幻想的なものに見做し、心にこれを軽蔑する。何故なら自然的な人間は霊の物または霊的な物を迷妄として認める事は良く知られているから。偽善者は感覚的である故、自然的な人間の中で最も低級な者である。何故ならその心は身体の感覚に執着する余り、その感覚の暗示するものを除いては如何なる物をも見ることを欲しないからである。而してその感覚は自然のスフィアの中にある故、その心は信仰その他凡ての事柄を自然に基づいて考えるように強いられる。
2.偽善者は時としては、説教家になる
真の基督教381
偽善者は時としては、説教家になる。その時、彼は小児および青年時代に信仰について学んだものを記憶に留めているが、信仰に関する彼の考えは今は霊性を欠き、それ故、それに基づく彼の説教は空虚な饒舌である。それは真面目に聞こえるかも知れないが、それは自己と世に対する彼の愛が聴衆を雄弁を以って魅了しようとの欲望をもって彼をたきつける故である。偽善的な説教家が講壇を降り、家に帰ると、信仰に関する己が説教と聖言からの引用とを嘲笑し、恐らくかく独言するであろう、「俺は水の中へ網を投げ入れて、かれいと貝とを生け捕った」と。何故なら、これが彼の会衆の中で、真の信仰を持つ凡ての者に対して、彼の抱いている見解であるからである。
3.徹底した偽善者は悪魔が天使を嫌忌するように、真に霊的な人間を嫌悪する
真の基督教381
偽善的な教職者は老練な喜劇役者、道化者、俳優であり、彼らは王、大公、大僧正、監督の役目を演ずることが出来るが、その芝居衣装を脱ぎ捨てるや否や、淫売窟に行って、娼妓と交わる。彼らは一方の入口が閉じている間に他方の入口の開く回転式扉のようなものである。何故なら、彼らの心は地獄に、或は天国に向かって開かれることが出来、天界に向って開かれるときは地獄に向っては閉ざされるからである。奇妙なことではあるが、彼はその聖職に従事し、聖言によって真理を教えている時は地獄に向かって戸が閉じられる故、彼らは自分ではそれを閉じていると想像するが、家に帰ると戸は天界に向かって閉ざされる故、何物も信じないのである。徹底した偽善者は悪魔が天使を嫌忌するように、真に霊的な人間を嫌悪する。彼らはこの世に住んでいる間は、このことに気づかないが、それは死後、彼らが由って以って自らを霊的な人間として通用させることの出来たその外的なものが取り除けられることによって明らかにされる。しかし私は「羊の粧して来れども内は奪い掠むる狼」(マタイ7・15)のような霊的偽善者は、天界の天使に如何ように現れるかを語ってみよう。彼らは手で歩いて悪魔に祈り、これを賛美し、空中で雨靴を打ち叩き、かくして天に向かって音を立てる軽業師のように現れるが、自らの足で立つと、その眼は豹のように歩み、口は狐のようであり、歯は鰐のそれの如く、信仰については禿鷹同様いささかもこれを持たない。
天界の秘義3812[10]
『骨』は誤謬を意味し、『墓』は誤謬をその中に宿している悪を意味しているため、また偽善は外面では善として現れているが、しかし内面では誤った冒涜的なもので汚れているため、主はマタイ伝に言われている―
偽善者よ、禍いなるかな、学者、パリサイ人よ、あなたらはあなたら自身を白く塗った墓のようなものにしている、それは外では実際美しく見えるが、内では死人の骨と凡ゆる不潔なものとに満ちている、まことにそのようにあなたらもまた外では人に義しいものに見えはするが、しかし内は偽善と不法とに満ちている(マタイ23・27、28)。
これらの記事から『骨』により理解の自分自身のものが、真理の方面でも、誤謬の方面でも意味されていることが今や明白である。
仁慈の教義202
主は人間各々を通して善を生み出されることが出来、悪い人間が生み出す悪を善に向けられることが出来るのである。主は悪い人間をその人間自身のために、また世のために善を行うように刺激されることが出来るが、しかしその時でも主はその人間の悪の中へ流れ入られはしないで、その周囲に、その人間の円周の中へ流れ入られ、かくてその者の外なるものの中へ―その人間はその外なるものにより善として見えるように願っているのであるが、その外なるものの中へ―流れ入られるのである。それでこの善は、それが悪である限り、皮相的なものであり、本質的には悪である。偽善者のもとではそれは金を被せた糞であり、それは純金以外のものであるとは殆ど信じられはしないものの、嗅覚の鋭い鼻孔のもとへ持ってこられると、その汚臭が認められたのである。
ヴァルトルタ/自叙伝/P542
私たちの人生は、偽善によって組み立てられてはいけません。つまり、罪を犯しては告白し、そしてまた罪を犯すというのでは、いけないのです。そうではなく、愛によって善へと駆り立てられて、キリストの口づけに値する者となるように、悪を抑えるものでなければなりません。もし私たちが良いことをしたなら、微笑みながらイエズスのところへ行きましょう。もし私たちが悪いことをしたのなら、後悔の涙を流しながらイエズスのところへ行きましょう。イエズスは涙を乾かそうとしておられます。彼によって慰められれば、私たちは気力を取り戻すでしょう。もしも自分だけで背負うなら、気力をなくして、飛べなくなってしまうでしょう。神への信頼は、私たち人間のあらゆる欠陥を埋め合わせします。罪意識の欠如ばかりでなく、私たちにつきものの精神的、霊的素質の欠如をも補ってくださいます。神を信頼するなら、私たちのうちては、どれもこれも改善されるのです。