議論・論争

 

 

ペリシテ井戸批評家学者哲学

 

 

1.スウェーデンボルグ・・・真理は議論を許さない

2.スウェーデンボルグ

3.ヴァッスーラ・・・成長させることのない議論を断ち切るように

4.サンダー・シング

 

 

 

 

1.スウェーデンボルグ・・・真理は議論を許さない

 

 

天界の秘義2733

 

他生では真理は論議を容認しないのである。

 

 

 

天界と地獄385

 

彼はそれがそうしたものであるか、否かを論じたいと願った。しかし、彼は以下のように言われた。真理は議論を許さない。なぜなら議論は人が楽しむところを、引いては悪と誤謬とを支持するからである。

 

 

 

結婚愛481

 

真理は議論を許さない、なぜなら議論は霊の歓びに反抗して、肉の歓びを守るからである。

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義2120

 

『海と波がほえたけること』により、全般的には教会の中に、個別的には各々の人間の中に異端と論争とがこのように吠えたけるであろうということ以外には何ごとも意味されてはいないのである。

 

 

 

天界の秘義3224[2]

 

 単に世の光に属しているものの中にのみいて、そこから悪から派生している誤謬の中にのみいる霊たちは、他生で天界から発している光を実際得るには得ているが、しかしそれは迷妄の光のような光であり、あるいは火のついた炭または松明から発してくる光のような光であって、天界の光がそれに接近すると、この光は直ぐにも消滅してしまって、暗闇となるのである。この光の中にいる者は幻想の中におり、彼らは幻想の中に見るものを真理であると信じているのであり、またそれ以外のものは一つとして彼らには真理ではないのである。彼らの幻想はまた汚れた、猥褻なものに固く結びつけられており、そうしたものを彼らは特に歓んでおり、かくて彼らは気が狂って、精神が錯乱している人間のように考えるのである。誤謬については、彼らはそれがそうであるか、否かと論じはしないで、すぐさまそれを肯定はするが、しかし善と真理とについては、絶え間なく論じて、結局は否定してしまうのである。

 

 

 

天界の秘義3428

 

「かれらはさらに他の一つの井戸を掘った、それについてもまた彼らは争った」。これは聖言の内意を、そのようなものが在るか否かについて意味していることは『他の一つの井戸』と『争うこと』の意義から明白であり(それについては前を参照)、かくて連続した事柄からも明白である、なぜなら何事でも否定する者らは、例えば、聖言の内意を否定する者らが、再び争いまたは論争するときは、それは必然的にそれが何らかの存在を得ているか否かに関わるものでなくてはならないからである。現今大半の論争はこれ以上すすまないことは知られている、しかし人間が何かの事が存在しているか否かについて、またそれがそうであるか否かについて論争することに止まっている限り、かれらは決して知恵のいかようなものの中へも進み入ることはできないのである、なぜならかれらの論争の主題となっているその事柄そのものの中に、彼らがそのものを承認しない限り、決して見ることのできない無数の物が存在しているからである、それはそうした場合彼らがそのものを認めない中は、そのものにぞくしている凡ての事柄を知らないからである。

 

 

天界の秘義3428[2]

 

 現今の学問は何かのものが何らかの存在を持っているか、否か、それはそのようなものであるか、否かと論争する以上には殆ど進んでいないのであり、その結果人間は真理の理解から閉め出されているのである。例えば、聖言の内意が在るか否かと論争するに過ぎない者は、内意の内にある無数のものを、否、無限のものを決して認めることは出来ないのであり、さらに、仁慈は教会の中で何らかの意義を持っているか否か、仁慈の凡ての物は信仰から生まれないか否かと論争する者は、仁慈の中に在る無数のものを、否、無限の物を到底知ることはできないで、仁慈とは何であるかについては全くの無知の中に止まるのである。

 

 

 

天界の秘義3428[3]

 

 死後の生命、死人の復活、最後の審判、天界と地獄の場合も同じである―これらのものは存在するか否かと単に議論しているにすぎない者は、その間知恵の扉の外側に立っていて、たんにノックするのみで、知恵の壮麗な宮殿の中を覗き込むことは出来ない人物のようなものである。しかも奇妙なことにはこのような人間は自分自身を他の者に較べて賢明な者であると信じており、何かの事柄がそうであるか否かと論じ、とくにそれはそうではないと立証することが出来る自分たちの才能に比例して賢明な者であると信じているが、それでも善の中にいて、彼らからは軽蔑されている単純な者たちは、その物が存在し、またその性質のいかようなものであるかを、一瞬にして、何らの議論もなしに、ましてや学問のある論争もなしに認めることができるのである。これらの者は真理を認識することについては常識をもっているに反し、前の者はその物が何らかの存在を持っているか否かをとりわけ論じようと欲して、このような方法によりこの常識を消滅させてしまっているのである。主が賢い者と理知ある者から事柄はかくされているが、幼児には示されていると言われるとき、主は前の者についても、後の者についても語られているのである(マタイ11・25、ルカ10・21)。

 

 

 

霊界日記1953

 

 論争に大いに携わっている者らの場合もこれに類似している、なぜなら彼らは彼ら自身に無数の事柄を、また彼らの論題または命題に適した事柄を難問として提起し、かくて内的な意義をまたは真理と善とを理解し、従って知恵に到達する道を、益々閉じ込めてしまうからである。

 

 

 

真の基督教273

 

人間は神の存在、天界、地獄、その他聖言によって教えられる凡てのものを聖言なくして知ることが出来ると、強硬に主張する人々がある。彼らは聖言を信じないで、ただ単に、彼ら自身を信ずるに過ぎない故、聖言によって彼らと議論することは無益であり、自然的な理性の光に訴えなくてはならぬ。

 

 

 

 

3.ヴァッスーラ・・・成長させることのない議論を断ち切るように

 

 

ヴァッスーラ/私の天使ダニエル P19

‘86.6.10

 

あなたに平安。 成長させることのない議論を断ち切るようにと 祈りました、それから得るものは何もありません。 神を求めて 依りかかるように。 神に栄光  ♡ ダン

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P167

‘01.5.2

 

「主の僕は口論に従事せず、誰にたいしても親切でなければならない。」

 

 

 

 

4.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P394

 

神について議論したり疑ってはなりません。そのようなことをすれば、主を辱めることになります。主を信頼し、従わなければなりません。わたしたちは主の力を見、主を証することでしょう。わたしにしてくださった大いなることを、主はあなた方にもしてくださることを、わたしは証言します。