批評家

議論・論争

 

1.スウェーデンボルグ

2.ドレックス教授

 

1.スウェーデンボルグ

 

(他生における単なる批評家の性格について)

霊界日記1950〜1955

 

霊界日記1950

 

或る霊たちが―彼らは身体の生命の中では多くの努力と時間とを言葉の意義に捧げはしないて、言葉そのものに捧げ、従って彼ら自身を批評の技術に捧げたのであるが、(その中にはまた数人の者は聖書の訳出に力を尽くしたのであるが)―私と共にいたのである、しかし私は以下のことを言明することが出来るのである、すなわち、彼らがその場に居合わせている間は、何であれ、書かれもし、考えられもしたことはことごとく(彼らがその場に居合わせていることにより)、私は何一つ全く殆ど理解することが出来ないほどにも明確なものではなくなり、混乱してしまい、実に、私の思いは、謂わば、牢に閉じ込められてしまったのである、なぜなら彼らは考え〔思考〕をことごとく専ら言葉に決定づけて、それをその表現している文章の意義から引き離してしまい、かくて彼らは私を極度に疲れさせ、怒らせさえもしたのであるが、それでも彼らはそのことで自分ら自身は他の者にもまさって賢明なものである、と考えはしたものの、最低の階級の人々から来ている者といった者でも、実に、子供たちでさえも遥かに彼らよりも賢明であって、その意義をさらに賢明に理解することが出来るのであり、ここから、こうした博識は、またはこうした人間の知恵はいかような性質を持っているかだ明らかであり、すなわち、それは、彼らはそのことにより内的なものに至る道を閉じてしまうからには、田舎者の、また子供のそれよりも遥かに劣っているのである。

 

 

霊界日記1951

 

こうした者らは、また、例えばへブル語といった言語には極めて通暁はしているものの、文法上の問題では彼らほどには理解はしてはいないが、批評家連ではなかった者たちよりも、聖書を訳すに当たっては、さらに甚だしく誤りを犯したのであり、依然、実に現在も犯しているのである、このことは、たとえ人間の心の中にはそれとは反対の見解が定着していることを私は知ってはいるものの、非常に多くの理由から、証明されることが出来るのである。1748年〔60歳〕5月13日

 

 

霊界日記1952

 

 批評家の、また言語と文法上の研究に多くの労力を捧げた者らの考えはまた、前の場合、内には何一つ無い閉じられた線として私に表象されたのである。

 

 

霊界日記1953

 

 論争に大いに携わっている者らの場合もこれに類似している、なぜなら彼らは彼ら自身に無数の事柄を、また彼らの論題または命題に適した事柄を難問として提起し、かくて内的な意義をまたは真理と善とを理解し、従って知恵に到達する道を、益々閉じ込めてしまうからである。

 

 

(批判家は批判家ではない者たちに較べるなら何一つ知っていないことについて)

霊界日記2040

 

以下のことがしばしば私に示された、すなわち、批判家連〔批評家連〕は、または、例えば、ヘブル語といった幾多の言語に極めて通じている者らは、実に、辞典を作り上げて、モーセと予言者の訳者であった者らさえも、批判家ではない者たちよりも遥かに知的なものではないのである、なぜなら言葉を考察する結果、その言葉に当てられる色々な意義のために心が錯乱してしまい、単なる言葉そのものに執着してしまうからであり、こうした批判家連は何かの言葉の何か特殊な意義を掴み取ると、それにしがみつき、純粋な意義を全く無視してしまい、その意義をこなたかなたとひねくりまわし、それを彼らの見解に一致させるために、無謀にも臆面もなく曲解してしまうのであり、そうしたことを、ひとたび何かの言葉の意義が仮定されると、彼らは無数の方法をもってやってのけることが出来るのである。こうしたことの凡てが生きた経験により私に示されたのである。748年〔60歳〕5月22日

 

 

霊界日記2041

 

 その結果彼らは物質的な観念〔考え〕または言葉にしがみついてしまって、そこから霊的な事柄については知的なものでなくなるのみではなく、その中には主の聖言を彼らはただ言葉の意義が仮定されると、そのときは彼らは意味をそれに一致して捻じ曲げてしまい、そのことは無数の方法で(前にも言ったように)行われることが出来るからである。ここから、物質的な観念と混合することにより誤謬化されてしまって、他生では、誤謬は物質的な観念の中に密着しているからには、彼らに妨害と損傷とをもたらす霊的な観念は消散されなくてはならないのである。1748年〔60歳〕5月22日

 

 

2.ドレックス教授

 

天使館/天使のパン15号P37

『信仰は従順より重要である』ドレックス教授への救い主の御言葉

1971年6月4日早朝の主の御言葉

 

 私の特別な恵みの時に、私は反キリストについて以前語ったことがある。そして今、私が貴方に語ることに耳を傾けなさい。

 数多くの人々が、わが唯一にして真の教会から背を向けるようになるであろう。なぜなら、こうした人々は三位一体への信仰を失い、悪意ある司祭や教師たちによって誤った道へ導かれ、盲目にされてしまうからである。

 このような傲慢で不忠実な者たちは、超自然や神秘、祈りなどを無視して、ただ宗教について語るだけなのである。彼等が語るのは人間についてだけで、もはや神について語ろうとしない! このような邪な司祭や教師たちは真理を逆さまに変え、隣人愛に権威を与え、理不尽な憶測によって神への愛を忘れ、愛を失い、しかも否定までしている。