井戸
1.井戸
2.水を汲む
3.井戸のそばに住んだ
4.井戸の実験
5.井戸をふさぐ
1.井戸
アモス8・11−13
見よ、その日が来ればと
主なる神は言われる。
わたしは大地に飢えを送る。
それはパンに飢えることでもなく
水に渇くことでもなく
主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。
人々は海から海へと巡り
北から東へとよろめき歩いて
主の言葉を探し求めるが
見いだすことはできない。
その日には、美しいおとめも力強い若者も
渇きのために気を失う。
エレミア14・3
貴族は水を求めて、召し使いを送る。
彼らが貯水池に来ても、水がないので
空の水がめを持ち
うろたえ、失望し、頭を覆って帰る。
天界の秘義2240[5]
エレミア記には―
ユダは嘆いている、その門は衰える、それは地の上に黒くなってしまった、エルサレムの叫び声が上った、彼らの名ある者はその幼い者を水につかわした、彼らは坑に来たが、水はなかった、彼らはその器を空のままに帰ってきた(エレミア14・2、3)
ここには『エルサレムの叫び声』は誤謬を意味している、なぜなら『水がなかったこと』により、(第一部28、680、739番に示されたように)『水』である知識が何ら存在しなかったことが意味されているからである。
天界の秘義2702
『彼女は水の井戸を見た』。これは真理が発生する源泉である主の聖言を意味していることは以下から明白である、すなわち、『水の井戸』の、また『泉』の意義は聖言であり、また聖言から発している真理であり、従ってまた真理それ自身であり、『水』の意義は真理である。『水がある井戸』と『泉』は主の聖言を意味し、また聖言から発している教義を意味し、従ってまた真理それ自身を意味していることは極めて多くの記事から認めることができよう。ここには『井戸』と言われて、『泉』とは言われていないのは霊的な教会がとり扱われているためであり、それはまたこの章の以下の節にもとり扱われているのである―
アブラハムはアビメレクの僕らが取り去ってしまった井戸のためにアビメレクを非難した(創世記21・25)。
同じくまた26章には―
イサクの父の僕たちがかれの父アブラハムの時代に掘った井戸のすべてをペリシテ人はふさいでしまっていた。イサクは帰ってきて、水の井戸を掘ったが、それらはかれらがかれの父アブラハムの時代に掘ったものであるが、ペリシテ人がアブラハムの死後それらをふさいでしまったのである。イサクの僕たちは谷間を掘り、そこに生きた水の井戸を見つけた。かれらは他に一つの井戸を掘った。それについてはかれらは争わなかった。かの日イサクの僕たちが来て、かれにその掘った井戸について話して、かれに言った。わたしたちは水を見つけました、と(創世記26・15、18、19、20、21、22、25、32)。
ここでは『井戸』によりかれらから言い争われた[論争された]教義的な事柄とまたかれらから言い争われなかった教義的な事柄以外のものは何一つ意味されていないのである。もしそうでないならばかれらが井戸を掘って、それについて幾度も言い争ったことは、神的な聖言[神の言]の中に記すに足るほど重要なことではないであろう。
天界の秘義2702[3]
しかし真理が何らその中に存在していない教義は坑または『水のない井戸』と呼ばれている。例えばエレミア記には―
かれらの貴族はその小さな子供たちをその水につかわした。かれらは坑に来た、かれらは水を見出さなかった。かれらは器をからのままにして帰った(エレミア14・3)。
ここには『水』は真理を意味し、『水がその中になかった坑』は真理が何らその中にない教義である。同書に―
わたしの民は二つの悪を犯した。かれらは生きた水の源であるわたしを棄て去って、水をたたえることのできない坑を、くだかれた坑を己がために掘った(エレミア2・13)。
ここには『坑』は同じように真のものでない教義を意味し、『砕かれた坑』は誤謬化された教義を意味している。
天界の秘義3096
泉・・・純粋な高い真理
井戸・・・それ程純粋でもなく、また高くもない真理
天界の秘義3765
聖言は合理的なものがとり扱われている時は「泉」と呼ばれ、自然的なものがとり扱われているときは「井戸」と呼ばれる。
天界の秘義6774
井戸の意義は聖言である。
2702、3424
井戸・・・聖言の文字の意義
泉・・・・聖言の内意
3765
「(モーセ)は井戸のそばに住んだ。」
そこで聖言を研究した。
天界の秘義6774
「井戸のそばに住んだ」。これはそこで聖言を研究したことを意味していることは以下から明白である、即ち、『住むこと』の意義は生命であり(そのことについてはすぐ前の6773番を参照)、ここでは生命の研究であり、『井戸』の意義は聖言である(2702、3424番)。聖言は時には『井戸』と呼ばれ、時には『泉』と呼ばれているが、『井戸』と呼ばれている時は聖言の文字の意義が意味され、『泉』と呼ばれている時は、聖言の内意が意味されているのである(3765番を参照)。彼がここに『井戸のそばに住む』と言われているのは、聖言の文字の意義が意味されているためである、なぜならそれが、ここの内意に取扱われているところの、再生しつつあって、真理の神的なものへ進みつつある者たちにおける最初の意義であるからである。ここに『ミデアン』により意味されているところの、単純な善の諸真理の中にいる者たちもまた文字の意義以外のものは顧みないのである。
天界の秘義2700
「井戸」
真理が存在する源泉である主の聖言
「彼女はそのびんに水を満たした」
聖言から発した真理
天界の秘義2702
「ベール」井戸・・・ベールシバ
「水のない井戸」・・・真理が存在していない教義
天界の秘義3765
聖言のこと。
自然的なものがとり扱われているとき
天界の秘義3464
「その掘った井戸について(それを)かれに示した、かれらは言った、私たちは水を見つけました」。
これはこれらのものによる内的な諸真理を意味していることは以下から明白である、すなわち『井戸』の意義は聖言であり(3424番)、『水』の意義は真理であり(2702番)、すなわち、聖言から発している真理であり、かくて『かれらの掘った井戸について(それを)かれに示す』ことは、かれらが教義的なものを得た源泉である聖言について、を意味し、『かれらは言った、私たちは水を見つけました』は、それらのものの中に、すなわち、教義的な事柄の中に内的な諸真理が在ったことを意味している。
なぜなら前に言ったように聖言の文字の意義は水をたたえた井戸のようなものであるため、文字の意義から引き出される凡ゆる教義的な事柄の中には内的な真理が存在しているからである、なぜなら聖言の各々の物と凡ゆる物の中には[聖言の一切のものの中には]内意が在り、内意はまた聖言から発している教義的な事柄の中にも在るからである。
2.水を汲む
天界の秘義3058
「水を汲む」
教えられること、そこから明るくされること
3.井戸のそばに住んだ
天界の秘義6770
「井戸のそばに住んだ」
そこで聖言を学んだ
天界の秘義6774
そこで聖言を研究した
井戸・・・聖言の文字の意義
泉・・・・聖言の内意 (3765)
4.井戸の実験
井戸の実験
6368、1857
天界の秘義1857
善と悪とは先ず互いに他から分離されねばならない。
なぜならそれらは対立したものであって、何人もその両方に傾くことは許されてはいないからである。これがアモリ人の悪が満ちなくてはならないことにより意味されていることである。しかし善良な者の場合は異なっており、かれらは主により天界に向って絶えず挙げられており、その悪は絶えず拭い去られつつあるのである。
5.井戸をふさぐ
天界の秘義3411
創世記26・15−17節。「かれの父アブラハムの日[時代]にかれの父の僕たちが掘った井戸をことごとく、ペリシテ人はふさいで、それに塵埃を満たした。アビメレクはイサクに言った、わたしたちから去りなさい、あなたはわたしたちよりもはるかに強大ですから。で、イサクはそこから去り、ゲラルの谷間に天幕をはって、そこに住んだ」。『かれの父アブラハムの時代に、かれの父の僕たちが掘った井戸をことごとくペリシテ人はふさいだ』は知識の記憶知の中にいた彼らは神的なものから発している内的真理を知ろうとは欲しないで、それらを抹消したことを意味し、『それに塵埃を満たした』は、知的なものにより、を意味し、『アビメレクはイサクに言った』は主がこの教義について認識されたことを意味し、『わたしたちから去りなさい、あなたは私たちよりはるかに強大である』は、かれらはそれらの真理にそれらの真理の中に在る神的なもののために堪えることができなかったことを意味し、『イサクはそこから去った』は、主は内的な教義的なものから去られたことを意味し、『ゲラルの谷間に天幕をはり、そこに住んだ』は、主は低い合理的な物に行かれた、すなわち、内的な外観から外的な外観へ行かれたことを意味している。