役立ち・用・業

 

行う仁慈

 

 

 

 

1.役立ち・用

2.業

3.用=職業

4.用=真の礼拝

5.目的

6.愛されるものは用、用は知恵と愛との容器

 

 

 

 

1.役立ち・用

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P47

 

人の偉大さは知識や地位によるのではない。これだけでは人は偉大たりえない。人は他の人々に役立つときこそ偉大である。そして、自分の人生が他に役立つかどうかは他への奉仕にかかっている。そのように、人が無条件の愛の中で他の人々に仕えれば仕えるほどに、ますます人は偉大な者となるのだ。「あなた方の間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」(マタイ福音書第20章26節)とキリストがいわれた通りである。

 

 

 

 

霊的な生命・神の聖言−遺稿―(黙示録講解からの抜粋)P55

 

にも拘らず、業はその用の卓越さに応じて善の度を異にしているのである、なぜなら業は用でなくてはならないからである。その最善のものは教会に対する用のために為されるものである。善の点でそれに次ぐものは、己が国家に対する用として為されるものであり、以下それに準じているが、用が業の善を決定するのである。(黙示録講解975)

 

 

 

 

天界の秘義6119

 

 真理に従った活動

 

 

 

天界の秘義7208

 

仁慈の実践である用

 

 

 

天界と地獄112

 

主と隣人とを愛することは全般的には用を遂行することである。

 

 

 

天界の秘義8995

 

 用そのものが人間の霊的な生命を作っており、富は単に手段として仕えているにすぎないのである。(6933−6938)

 

 

 

神の摂理215

 

 用により善が意味され、それゆえ用を遂行することにより善を為すことが意味され、用を遂行することにより他に奉仕し、他を助けることが意味される。

 

このような人間は栄誉と富とを受けるけれど、これをたんに用を遂行し、または他の者に仕え、これを助ける手段としてのみ顧みるにすぎない。

 

この事が主の言葉に意味されている。

 

「誰でもあなたたちの間で偉大になろうと思う者はあなたたちに仕える者となり、誰でもあなたたちの間で第一になろうと思う者は、あなたたちの僕とならねばならない。」(マタイ20・26、27)

 

これらの者はまた主から主権を委ねられる者である。なぜなら主権は彼らにとり用を遂行する、すなわち善を成す手段であり、それ故他に仕える手段であるから。そして用または善が愛の目的であるとき、支配するものは彼らではなくて、主である。なぜなら善は凡て主から発するからである。

 

悪魔に導かれている者は自分自身と世のために用を遂行するが、しかし主により導かれている者は主と天界のために用を遂行し、そして悪を罪として避ける者は凡て主から用を遂行し、悪を罪として避けない者は凡て悪魔から用を遂行している。

なぜなら悪は悪魔であり、用または善は主であるから。

 

 

 

 

2.業

 

 

スウェーデンボルグ/天界の秘義3934

 

これらの記事から業は人間を救うものであり、また人間を罪に定めるものであることが明白である。なぜなら人間の業の中に人間の意志が存在するからである。善を意志する者は善を行うが、しかし善を行わない者はいかほど自分は善を意志していると言うにしても、それを行わないときは依然それを意志してはいないのである。

 

主の王国は業のものである生命から人間の中に始まることを知られよ。なぜならかれはその時再生の始まりの中にいるからである。しかし主の王国が人間の中にあるときは、それは業の中に終結し、その時人間は再生しているのである。

 

 

 

スウェーデンボルグ/天界の秘義6073

 

善(6048)。

かくて任務と用。なぜなら任務と用は善であるから。

用とは業以外の何ものでもない。

仁慈そのものはそれ自身において観察されるなら、それが行為となって業とならない中は仁慈とはならないのである。

 

その者に対する仁慈の凡ゆるものは、その行為または業そのものの中に含まれている。

 

人間の業はその人間の仁慈と信仰との総合体。

業に含まれている仁慈

主はヨハネを他の弟子より愛された。(ヨハネ21・20)

 

 

 

 

3.用=職業

 

 

神の愛―遺稿13(黙示録講解第12巻に併録)

 

第3天界の天使について

 

かれらは主を愛することは用である善を行うこと以外の何かであるとは全く考えてはおらず、用は自分たちの許におられる主であられると言うのである。

 

用によりかれらは、祭司、統治者のみでなく、商人と工人における聖職、統治、職業を理解しており、かれらの職業に関係していない善い業をかれらは用とは呼ばないのであり、それらを施し、喜捨、心附けと呼んでいる。

 

 

 

神の愛と知恵431

 

 これに私は以下の注目すべき経験を附加しよう。天界では、用に対する情愛から用を行う者は凡て、その中に住んでいる交わりのために、他の者よりも賢く、幸福である、彼らにあっては用を行うことは各々に特有な仕事に誠実に、正直に、公正に、忠実に行動することである。これを彼らは仁慈と呼び、礼拝に属する儀式を仁慈のしるしと呼び、他のことを義務、恩恵と呼び、以下のように言っている、即ち人がその職業の義務を誠実に、正直に、公正に、忠実に行うとき、共同体の善は維持され、永続され、そしてこれが『主の中にいる』ことである、なぜなら主から流れ入る一切は用であり、それは部分から共同体の中へ流れ入り、また共同体から部分へ流れ入っているからである。そこの部分とは天使であり、共同体とは天使たちの社会である、と。

 

 

 

 

4.用=真の礼拝

 

 

天界の秘義7038

 

 『主に仕えること』は用を遂行することを意味していることは、真の礼拝は、用を遂行し、かくて仁慈を実践することにあるためである。

 

 主に仕えることはたんに礼拝所に足しげく訪れ、そこで説教を聞き、祈ることから成っており、それで充分だと信じている者は非常に誤っているのである。

 

 主を礼拝することは用[役に立つこと]を遂行することであり、世における人間の生活の間では用は各々の者がその地位における義務を正しく遂行し、かくて心から自分の国に、社会に、隣人に仕え、友に誠実に振舞い、各人の性格に応じて深重に親切な務めを果たすことにあるのである。

 

 これらの用は主として仁慈の業であり、そのことによって主が主として拝されるのである。

 

礼拝所に足しげく訪れ、説教を聞き、祈りをとなえることもまた必要ではあるが、前にかかげた用を伴わないなら、それらには何ら益がないのである、なぜならそれらは生命のものではなく、その生命からいかようなものでなくてはならないかを教えるからである。

 

天界の天使たちは用から、また用に応じて、幸福をすべて得ており、かくてかれらには用が天界である。

 

幸福は神的秩序から用に従って発している。

 

 

用に応じて幸福が天界で主から与えられており、また用を通して主は主として拝されることが明らかとなるであろう。

 

このことからヨハネは食卓で主の胸にもたれかかり、主はかれを他の者以上に愛されたのであるが、しかしこれはかれ自身のためではなくて、かれが仁慈の実践を、すなわち用を表象したためであったのである。(ヨハネがこの用を表象したことについては、創世記18章、22章の序言と3934番を参照されたい)

 

 

 

天界の秘義7208

 

仁慈の実践である用から発する生命の幸福を受け入れることが与えられ

 

 

 

天界の秘義4926

 

用そのものがそれらのものを形作り、用自身に適応させているのである。

 

善が諸真理を形作る。

 

善はそれ自身において観察されるなら用以外の何ものでもない、

 

 

 

 

5.目的

 

 

天界の秘義1103

 

人間は世に住んでいる間に、または他生に住んでいる間にも、主の良しとされることに従って、その住んでいる社会に、また隣人に対し用を遂行するという目的以外の目的のためには生まれていない。

 

このことは身体の場合も同一。人間の身体の各部分も、実に、それ自身では無価値な物でさえも何かの用を果たさなくてはならないのである

 

 

 

天界の秘義4459[6]

 

 利得と利益をただ金銀のためにのみ愛し、それを得ることに己が生命の唯一の喜びをおいている者は、最も外なる、または最も低いものの中にいるかれらはいるのである、なぜならかれらの愛の目的はたんに地的なものであるからであるが、それに反して何らかの用のために金銀を愛している者はその用に従って自分自身を地的な物の上に引きあげているのである。人間が愛している用そのものがその人間の生命を決定して、それを他のものから区別しているのである、悪い用はその人間を奈落のものとし、善い用はかれを天界のものとするのであるが、実際それは用そのものではなくて、その用に対する愛である、なぜなら人各々の生命はその愛の中に在るからである。

 

 

 

 

6.愛されるものは用、用は知恵と愛との容器

 

 

神の愛と知恵297

 

 多少明るくされて考える者は凡て、愛は用を目的として、それを意図し、知恵により、それを生じさせることを認めることが出来る、なぜなら愛は愛自身によって用を生じさせることは出来ず、ただ知恵を媒介としてのみそれを生じさせることが出来るからである。愛される物がないならば、事実、愛は何であろう。その愛される物とは用である、用は愛されるものであって、知恵により生まれるため、用は知恵と愛との容器であることが推論される。愛、知恵、用のこの三つのものは、縦の度に応じ秩序を以て続き、最も外の度は先在的な度の合成体、容器、基底であることはすでに示されたところである(209−216その他)。この凡てから愛の神的なもの、知恵の神的なもの、用の神的なもののこの三つのものは主の中に在って、その本質は主であることを認めることが出来よう。