主の一生涯は試練

1.スウェーデンボルグ

2.トマス・ア・ケンピス

3.サンダー・シング

4.マリア・ワルトルタ

5.アレキサンドリーナ・マリア・ダ・コスタ

6.ヴァッスーラ

7.ルイザ・ピッカレータ

8.聖母から司祭へ

 

1.スウェーデンボルグ

 

天界の秘義1690

 

「残った者らは山に逃げた」。これは凡てが征服されたわけではなかったことを意味していることは、説明しなくとも、残りの者は逃げ去ったという事実から明白である。内意では主がその子供時代に受けられた試練がとり扱われていて、それについては新約聖書の聖言の中には何ごとも述べられてはおらず、ただ荒野における、または荒野から主が出てこられてから間もなく受けられた試練について、最後にゲッセマネにおけるその最後の試練について、またその後につづいて起ったものについて記されているにすぎないのである。主の生命[生活]は、その子供時代の最初の頃から実に世におけるその生命の最後の時間までも、絶え間のない試練であり、また絶え間の無い勝利であったことは、旧約聖書の聖言の多くのものから明白であり、またそれが荒野の試練とともに終りはしなかったことは、ルカ伝に言われていることから明白である

 

  そして悪魔は凡ゆる試練を終えたとき、一時の間かれのもとをはなれた(4・13)。

 

 またそれは主は十字架上の死に至る迄さえも試みられたまい、かくて世におけるその生命の最後の時間にいたるまでも試みられたもうたという事実からも明白である。ここから世における主の生命[生活]のすべては、その子供時代の最初のときから、絶え間のない試練であり、また絶え間のない勝利でもあったことが明白である。最後のものは主がその敵のために引いては全世界の凡ての者のために十字架の上で祈りたもうたときであったのである。

 

 

 

天界の秘義9937[7]

 

 主は世におられた間こうした試練に堪えられたことは福音書に簡単にしか記されていないが、しかし予言者の書には、とくにダビデの詩篇には非常に詳細に記されているのである。福音書には主は荒野へつれて行かれ、後には悪魔により試みられ、そこに四十日おられ、獣とともにおられたとしか言われていない(マルコ1・12,13、マタイ4・1)。しかし主は世でその小児時代の最初期からその生命の終わりに至るまでさえも試練の中におられ、すなわち、諸々の地獄と戦われたことを、主はイザヤ書の以下の言葉に従って明らかにはされはしなかったのである―

 

 かれは圧迫され、苦しまれた、それでもかれはその口を開かれはしなかった、かれは子羊が屠殺者のもとへつれ行かれるようにつれ行かれたもう、羊がその毛を切る者の前で口をつぐんでいるようにも、かれはその口を開かれはしなかった(53・7)

 

 

黙示録講解730ニ

 

「荒野」は試練の状態を意味し、「四十」は―四十年であれ、四十日であれ―初めから終わりまでつづく全期間を意味しているため、それで主の試練は―それは凡ゆるものの中で最も恐ろしいものであり、それを主は子供時代から十字架上の苦難に至る迄も受けられたのであるが―荒野における四十日の試練により意味されており、それは福音書に以下のように記されている―

 

 イエスは霊により荒野へ導かれたもうた、悪魔により試みられるためである、イエスが四十日四十夜断食されたとき、後で飢えられた、試みる者がイエスに近づいた(マタイ4・1−3、ルカ4・1−3)。

 霊はイエスをせき立て、イエスを荒野へ出かけさせた、イエスは四十日試みられて、荒野におられた、イエスは獣とともにおられた(マルコ1・12,13)。

 

これは主はただ四十日間、その四十日の終わりに悪魔により試みられたもうたことを意味しないで、主はその全生涯にわたってあまねく、最後に至る迄すらも―そのとき主はゲッセマネで凄惨な心情の苦悶に堪えられたのであり、後には十字架の恐るべき苦難にたえられたのであるが―試みられたもうたことを意味している。なぜなら主が母から得られた人間的なものの中へ許容された試練により主は凡ゆる地獄を征服されると同時にその人間的なものを栄化されたからである。

 

(しかし主のこれらの試練については「天界の秘義」の中に書かれ、そこから「新しいエルサレムの教義」、201番の中に集められたものを参照されたい。)主のこれらの試練の凡ては四十日四十夜の荒野における試練により意味されている、なぜなら「荒野」は試練の状態を、「四十日四十夜」は試練の継続期間全部を意味するからである。それ以上のことは福音書にはこれらについては記されなかったのは、それ以上のことはそれらについて明らかにされなかったためであるが、にも拘らず予言者の書の中には、とくにダビデの「詩篇」においては詳細に記されているのである。主が共におられたと言われている「獣」は奈落の社会を意味し、「断食すること」はここでは試練の争闘の中に在るような苦悶を意味している。

 

 

2.トマス・ア・ケンピス

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・18・1

 

 わたしの子よ、わたしはあなたを救うために、天から降った。わたしがあなたの苦しみをわが身に引き受けたのは、必要やむを得なかったからではない、むしろあなたを愛したためで、あなたが忍耐を学んで、この世の苦しみを、怨み憤ることなく忍ぶことができるようにと思ってである。

 

 なんとなれば、わたしは降誕の時から、十字架の死去にいたるまで、苦しみのないことは片時もなかったからである。

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・12・6−7

 

諸聖人のうちだれがこの世に十字架なく患苦(なやみ)なしにいたであろうか?

私たちの主イエズス・キリストすら、この世においでになった間は、ただの一刻も苦しみをおなめにならぬことはなかった。いわく「キリストは苦しみを受けて死者のうちから復活し、かようにして自分の栄光にはいるはずの者であった。」(ルカ24・26)と。

 それなのにあなたはなぜこの王道であるとうとい十字架の道のほかに、別の道を探すのか?

キリストの全生涯は十字架と殉教ばかりであった。

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・12・7

 

キリストの全生涯は十字架と殉教ばかりであった。それにあなたは安息(やすみ)と喜びとを探し求めるのか?

 

 

3.サンダー・シング

 

サンダー・シング/インド永遠の書/P418

 

イエスは、たった六時間だけではなく、全生涯が十字架であった。きれい好きな人間が不潔を嫌い、善良な人間が束の間も悪事に耐えられないとすれば、無原罪の聖なる存在が罪人の中で過ごす三十三年間の苦しみがどれほど大きかったことか。罪にまみれた人間には、このような苦しみを少しでも理解することは不可能である。あの十字架に秘められた奥義を理解できるとすれば、キリストの計り知れない愛、彼がいかに愛の化肉であったか、いかにわれわれの救いのために天の栄光をかなぐり捨ててまで罪深き世に降りたもうたかが、容易にわかるはずである。

 

キリストの受難は、特に、人間の救済のための神の受難であった。あらゆる生命のただ一つの源がある。生命あるものはみな、そのお方から生命を受けている。そのような関係とつながりによって、われわれはそのお方の中で生きている。だが、被造物との間にもっているこのような生きた関係を通して、神は生命ある者たちが苦しむときに苦しみを感じないであろうか。痛みの感覚をお造りになった神もまた、痛みの感覚をもたないであろうか。そうであれば、神がキリストにおいて苦しまなかったことがどうして在り得よう。

 

 

4.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P75、(天使館90・3)

 

マリアは気がかりで、わが子を包むようにじっと見つめる。

「くたびれていたのです、母様。世の中は、すべてが誠実と愛からなるこの家のようなわけにはいかないから。母様・・・私がだれであるかを知り、世の中とのつき合いが私にとって何を意味しているかを理解できるのは母様だけです。悪臭を放つぬかるみの中を歩くように、細心の注意を払っていてもはねが上がり、必死で息を詰めていても悪臭から逃れられない・・・。すがすがしく、おいしい空気を好きな人がそこにいたとしたら、どんな思いをするか容易に想像がつくでしょう」

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P369

 

 自分の運命について嘆いているあなたたちは、これを信ぜよ。人間のどんな運命でも、私より悲しいものはない。なぜなら、誕生から死に至るまで、私に伴った貧しさ、さまざまな試練、さまざまの敵対と一緒に、最後に私に何が起るかということを、前からずっと知っていたからである。でも皆、嘆くな! 私に希望をおきなさい。あなたたち皆に、私の平和を残す。

 

 

わたしのことばを書きとらせた理由

イエズスが口述された福音書の最後の言葉

マリア・ヴァルトルタ

天使館/霊のパン第4号/P22

 

X わずかな時間で完結した流血の受難において最高潮に達するわたしの長い受難の複雑さと持続期間を正確に知ることです。この受難は、五年間また五年間と続いた日々の拷問でわたしを磨り減らし、常に増大していき、わたしの受難と時を同じくして、心を苦しみの剣でつらぬかれるの受難が共にありました。そしてこれを知ることで、あなたたちがもっとわたしたちを愛するように仕向けることです。

 

 

5.アレキサンドリーナ・マリア・ダ・コスタ

 

アレキサンドリーナ・マリア・ダ・コスタ

P27

イエズスにとって、地上におけるそのご生涯は、なんと苦しみにみちていたことだろう!

かんらんの園と、カルワリオは数時間の苦しみではなかった。イエズスのご生涯そのものがみな、かんらんの園、カルワリオだった。

背丈も、知恵もますます増していくイエズスのうちに、十字架も、それとともに次第に大きくなっていった。

イエズスは、一瞬間たりとも、十字架からはなれたことはなかった。否、十字架のうちに成長し、十字架のうちに苦しみつづけておられた。

 

 

P48

イエズスは、世界のなかに入って、泥にまみれ、一つのかたまりのようになってしまわれねばならなかった。イエズスは、これを恐れておられたのだ。

イエズスにとって世界に下られるのは、火のなかにとびこむにも似たことだった。

でも、かれの神的愛はひじょうに激しかった。この愛がイエズスに私たちと結び合わされることを、私たちの悪意をご自分のものとして身にまとうことを要求していた。

最高に清いお方が不潔きわまりない泥と結びつけられるなんて、なんということだろう!

 

イエズスは、時おり天をながめては、永遠のおん父をほめたたえておられた。

 

 

P49

それは日ぐれであった。

私は、私の愛敬と美しさの服をはぎ取られ、世界じゅうの悪にいろどられた服にきせかえられたと感じた。

このために、すべての人が私につまずくのであった。

それほどあの服、堕落と悪で織られていたのだ。

全人類の悪が私の上にのしかかってくるように感じたとき、悪がみんな私のなかにはいって、私は[悪にみちた]世界となった。

私は、地のうじ虫になるために、天からくだるという感じがした。吐気をもよおさせる、くさったうじ虫に。

黒く汚れ、うじ虫のひしめく不潔な世界に、私は、穴をあけて、もぐりこむ虫のよう。

私は、嫌悪のあまり、もう耐えられないと思った。

でも、私の心は燃えはじめた。この燃える火のうえに世界じゅうのすべての罪悪が、地獄のような悪徳といきどおりがのしかかってきた。

この世界に天がくだり、こうして戦いが、巨大な戦いが、はじまった!世界と戦う天、虚無といどむ全能、それこそ泥と清さの戦争だ!

 

罪に死んだ世界のうえに天がくだっていた、大ぞらは、もえる炎のよう、

おお、私の神よ、どうしてこれほどの恐ろしい戦いが?!

でも、間もなく、私は、人々が神をおそれ敬っていないということが分かってきた。

 

 

6.ヴァッスーラ

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P6

‘87・10・15

 

♡ 私が受けたと同じような辱めをあなたにも与える、あなたを小さくする、ヴァッスーラ 愛している そして愛ゆえに あなたを見守っている、指揮しているので その霊魂にとって何が一番良いかを知っている ♡ あなたの虚栄に傾くくせを洗い落とすために この改悛の思いを与えようと思う、主である私はあなたの霊魂に欠けたものがないように見届ける、常に見守って ♡

 

助けて下さってありがとうございます わが神よ。

 

今は用いているが 間もなく救い出され 我が腕の中にいるであろう ♡ 娘よ、思い出すように あなた方の間で肉のうちに生活していたとき、私の人生は苦しみ、犠牲、苦悩、悲嘆以外の何もなく それが私のさだめであり 安らぐ時がなかった ♡ ヴァッスーラ このメッセージを伝えたいがためにあなたを育ててきた。 私の花よ、最後の最後まで十字架をともに担うのだ、限りなく愛している ♡

 

お愛しします 主よ そしてもし辱めをお望みでしたら、み旨の通りなりますように。

 

あなたを通して望むことが何でも行えるように 柔軟でありなさい ♡ 小さな者よ 私のことを話しなさい

(ロードス島の人たちにイエスは仰っています。ギリシャ人たちは非常に熱心で、喜んで聞く耳を持っていますから)

 

 

7.ルイザ・ピッカレータ

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/3巻P125

 

「愛とは、私にとってなんという情け容赦ない専制君主であろうか! 私は十字架の上で血を流しきって死ぬまでの一生涯を、絶え間ない犠牲として捧げたのみでなく、聖体の秘跡の中に、私自身を生けにえとして残すことさえした。さらにこれに加えて、私の愛する肢体のすべても、人々の救いのために継続する苦しみの生きた犠牲である。これら多くの者の中の一人として、私の愛と人々のために捧げるためにあなたを選んだ。そうだ、もし誰かを見つけないとしたら、私の心には静けさも休息もないだろう。ところが人はどのようにしてこれに答えるだろうか? 限りない忘恩をもってである!」

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P60

 

イエスはご自分の聖心が受難の紋章とともに受胎され、そのご生涯の終わりに苦しまれたことは、その聖心が、一生のあいだに絶え間なく苦しまれたことの移し替えに過ぎなかったということを、私に理解させれらました。

 

 

8.聖母から司祭へ

 

聖母から司祭へ

1995.4.13

 

イエズスの全生涯は、その最高の、言い尽くし得ない時に向っていました。

 わたしはおとめの胎内での受肉から誕生まで脅かされた幼年時代から少年時代まで、ナザレトの貧しい家で過ごした青年時代から公生活まで、イエズスは毎日この時に向っていました。