主の試練

 

 

ルカ10・18

 

わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。

 

 

ヨハネ12・31

 

今こそ、この世が裁かれる時、今、この世の支配者が追放される。

 

 

ヘブライ2・14‐15

 

ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。

 

 

ヨハネ1・3・8

 

罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。

 

 

 

天界の秘義1651

 

 本章(創世記14章)は主の試練の争闘をとり扱っており、それがここに記されている戦いにより表象され、また意味されている。

 

 

天界の秘義1652

 

 外なる人の中にあって、善と真理として見えたに過ぎなかったところの諸善と諸真理とはそれによって主がその子供時代に幾多の悪と幾多の誤謬に対して戦われたものであった。この外面的な諸善と諸真理とが一節に記されている王たちにより意味されているが、しかし主がそれに向かって戦われた悪と誤謬とは二節に記されている王たちにより意味され、これらは不潔なものであった(創世記14章三節)。

 

 

天界の秘義1653

 

 主がそれに向かって戦われたこれらの悪と誤謬とは幼児時代以前には現れなかったが、しかし子供時代になってほとばしり出たのである、それが彼らが以前にはケダラオメルに仕えていたことにより意味されているのである(四節)。

 

 

天界の秘義1654

 

 主はレパイム人、ズジ人、エミ人、ホリ人であるところの、凡ゆる種類の誤った確信[信念]と戦われて、それを征服され(創世記14章5、6節)次に、アマレク人とアモリ人であるところの、幾多の誤謬と悪それ自身と戦われてそれを征服され(7節)、後には8節から11節に記されている王であるところの他の誤謬と悪と戦われて、それを征服されたのである。

 

 

天界の秘義1655

 

 それ自身では真理と善ではないところの、外面的な真理と善とが外なる人を所有していたが(12節)、『ヘブル人であるアブラム』であるところの合理的な人が、それを認め、その外なる人を要求して、それを自由にした(13節から16節まで)。

 

 

天界の秘義1661[2]

 

たれ一人悪と誤謬とは何であるかを学んで知らない中は、それで教育されない中は悪と誤謬に反抗して戦うことは決して出来はしない。人間は自分の理解と判断とを十分に用いない中は悪の何であるかを知らないし、ましてや誤謬の何であるかを知らない、それが人間が成人期に達しない中は試練を受けない理由となっている、それで人間はことごとくその成人期に試練を受けるが、しかし主はその子供時代にそれを受けられたのである。

 

 

天界の秘義1661[3]

 

人間はことごとく知識を通して受けている諸善と諸真理から先ず戦うのであり、その諸善と諸真理から、またその諸善とその諸真理により悪と誤謬とについて判断するのである。人間はことごとくまた、始めて戦いはじめるとき、その者が戦う源泉と成っている諸善と諸真理とは彼自身のものであると考えるのであり、すなわち、それらのものを彼自身に帰すると同時に、彼がそれによって抵抗する力も彼自身に帰してしまうのである。このこともまた許されている、なぜならその人間はそのときはそのようにしか考えることは出来ないからである。人間は再生しない中は、善と真理とは些かも彼自身からは発していないことを、また善と真理とはことごとく主から発しており、彼自身の力ではいかような悪にも誤謬にも抵抗することが出来ないことを到底知ることは出来ないし、それでそのことを彼は知り、承認し、信じていると言うことは出来ないのである、なぜなら彼は悪霊が諸々の悪と誤謬とを刺激し、それらを注ぎ入れていることを知っていないし、まして彼は彼が悪霊により地獄と交流しており、地獄は海が堤の凡ゆる部分に押し寄せているようにも彼に押し寄せており、たれ一人その地獄の圧迫には彼自身の力によっては決して抵抗することが出来ないことを知っていないからである。しかし人間は再生しない中は彼は彼自身の力により抵抗すると想像しないわけにはいかないため、このこともまた彼に許されており、かくて彼は争闘または試練に入れられるが、しかし後に彼は益々明るくされて行くのである。

 

 

天界の秘義1661[4]

 

人間が善と真理とは彼自身のものであると想像しているといった状態の中にいるときは、その者が悪と誤謬とに反抗して戦う源泉である善と真理とは、善と真理のように見えるけれども、善と真理ではない、なぜならそれらのものの中には彼自身のものであるものがあり、彼は自己の功績を勝利の中に置き、悪と誤謬を征服した者は自分であるかのように誇るが、戦って、征服するのはただ主のみであるからである。それが真に真実であることは、試練により再生しつつある者を除いては、何人も知ることが出来ないのである。

 

 

天界の秘義1661[5]

 

主はその子供時代の最初期に諸々の悪と、諸々の誤謬とに反抗する最も痛ましい争闘に入れられたもうたため、主もまた当時それ以外のことを想像したもうことはできなかったのであるが、これは主の人間的な本質が神的な本質へ導入されて、不断の争闘と勝利とによりそれに結合されることが神的秩序に順応していたためであったのみでなく、主が諸々の悪と諸々の誤謬とに反抗して戦われた源泉である諸々の善と諸々の真理とは外なる人のものであったためでもあったが、それでこうした善と真理とはことごとく神的なものでなかったため、それでそれらは善と真理との外観と呼ばれているのである。主の神的な本質はその人間的な本質を、それがそれ自身の力から征服するためにこのように導入したのである。しかしここには到底書き記すことのできないアルカナがあるのである。約言すると、最初の争闘にあっては、主がそこから争闘されたところの、主における諸々の善と諸々の真理には、母から遺伝したものが浸透していたのであり、そしてそれらのものに母から遺伝したものが浸透している限り、それらのものは神的なものではなかったのであるが、しかし徐々に、主が悪と誤謬とを征服されるにつれ、それらのものは清められて、神的なものにされたのである。

 

 

天界の秘義1690

 

「残った者らは山に逃げた」。これは凡てが征服されたわけではなかったことを意味していることは、説明しなくとも、残りの者は逃げ去ったという事実から明白である。内意では主がその子供時代に受けられた試練がとり扱われていて、それについては新約聖書の聖言の中には何ごとも述べられてはおらず、ただ荒野における、または荒野から主が出てこられてから間もなく受けられた試練について、最後にゲッセマネにおけるその最後の試練について、またその後に続いて起ったものについて記されているにすぎないのである。主の生命[生活]は、その子供時代の最初の頃から実に世におけるその生命の最後の時間までも、絶え間のない試練であり、また絶え間の無い勝利であったことは、旧約聖書の聖言の多くのものから明白であり、またそれが荒野の試練とともに終りはしなかったことは、ルカ伝に言われていることから明白である

 

  そして悪魔は凡ゆる試練を終えたとき、一時の間かれのもとをはなれた(4・13)。

 

 またそれは主は十字架上の死に至る迄さえも試みられたまい、かくて世におけるその生命の最後の時間に至るまでも試みられたもうたという事実からも明白である。ここからヨハネにおける主の生命[生活]のすべては、その子供時代の最初のときから、絶え間のない試練であり、また絶え間のない勝利でもあったことが明白である。最後のものは主がその敵のために引いては全世界の凡ての者のために十字架の上で祈りたもうたときであったのである。

 

 

天界の秘義1690[2]

 

福音書における主の生命[生活]の聖言の中には、荒野における主の試練を除いては、最後の試練以外には何一つ記されてはいない。それ以上のものは弟子たちに明らかにされなかったのである。明らかにされた事柄は文字の意義ではほとんど言うに足りないものであるほどにも軽微なものに思われている、なぜなら主の試練はいかような人間にも決して把握されることも信じられることもできないほどに苛烈なものであったにも拘らず、そのように語り、また答えもすることは何ら試練ではないからである。何人も試練のいかようなものであるかをその中にあった者を除いては知ることは出来ないのである。マタイ伝4・1−11、マルコ伝1・12、13、ルカ伝4・1−13に述べられている試練は凡ゆる試練を要約して含んでいるのである、すなわち主は全人類に対する愛から地獄に満ちている自己と世への愛と戦われたのである。

 

 

天界の秘義1690[3]

 

試練は凡てその人間がその中に宿っている愛に対する攻撃であり、その試練の度もその愛と同一である。もし愛が攻撃されないならば、試練は存在しない。たれかの愛を破壊することはその人間の生命そのものを破壊することである、なぜなら愛は生命であるからである。主の生命は全人類に対する愛であり、実に純粋な愛以外の何ものでもないほどに偉大であり、またそのような性質のものであったのである。この主の生命に対し、前に言ったように、その子供時代の初期から世におけるその最後のときまでも、幾多の試練が絶えず許容されたのである。主の生命そのものであった愛は主が『飢えられたこと』により、また悪魔が以下のように言ったことにより意味されているのである―

 

  もしあなたが神の子であるなら、この石がパンになるように命じなさい、

 

またイエスは

 

人はパンのみで生きはしない、神の凡ゆる聖言により生きるのである

 

と答えられたことに意味されているのである(ルカ4・2−4、マタイ4・2−4)。

 

 

天界の秘義1690[4]

 

主は世を求める愛に対してまたは世を求める愛に属した凡ゆるものに対して戦われたことは、以下により意味されている―

 

  悪魔は彼を高い山に連れて行き、またたく間に世の凡ゆる王国を彼に示して言った、この凡ての権力とそれらの栄光とを私はあなたに与えよう、それは私は私の欲する者にたれにでもそれを与えるからである、それでもしあなたが私の前に拝するならば、凡てのものはあなたのものとなるであろう。イエスは答えて彼に言われた、サタンよ、わたしの後に退け、主なるあなたの神を拝さなくてはならない、ただ彼にのみ仕えなくてはならないと記されているからである(ルカ4・5−8、マタイ4・8−10)。

 

 

天界の秘義1690[5]

 

主は自己への愛とまた自己への愛に属した凡ゆるものと戦われたことは以下により意味されているのである―

 

  悪魔はイエスを聖い都へ連れて行き、神殿の頂きにおいて、彼に言った、もしあなたが神の子であるなら、自分自身を下に投げつけてみよ、かれはあなたについてその天使たちに命令を与えられるであろう、彼らはあなたがその足を石に打ちあてないようにその手にあなたを支えるであろう、と記されているからである。イエスは彼に言われた、あなたはあなたの神、主を試みてはならない、ともまた記されている(マタイ4・5−7、ルカ4・9−12)。

 

 その試練の後で『天使たちが来て、彼に仕えた』(マタイ4・11、マルコ1・13)と言われていることにより不断の勝利が意味されているのである。

 

 

天界の秘義1690[6]

 

約言すると、主はその子供時代の最初期から世におけるその生命の最後の時間までも、凡ゆる地獄に攻撃されたもうたのであって、主はこれと絶えず戦われて、これを征服され、これに打ち勝たれたのであるが、しかもそれはひとえに全人類に対する愛から発したのである。そしてこの愛は人間的なものではなくて神的なものであったため、またその愛が偉大であるがままに、その試練も偉大になるために、その争闘はいかに苛烈なものであったかを、また地獄の側の凶暴さもいかに大いなるものであったかを認めることが出来よう。この凡てはそのようなものであったことを、私は確実に知っているのである。

 

 

天界の秘義2795[2]

 

 ここでは私たちは単に、主は神的なものそれ自身の中におられた時は些かも試みられる筈はなかったと言っておこう、なぜなら神的なものは試練そのものを無限に超越しているからであるが、しかし主はその人間的なものの方面で試みられたもうことが出来たのである。これが、主が最も痛ましい、また最も内なる試練を受けられねばならなかったとき、3節に記されているように、御自身に、先在した[前の]人間的なものを、すなわち、その人間的なものの合理的なものと自然的なものとを接合された理由であり、またこの節に言われているように、主が後に御自身をこれらのものから分離されたが、しかしそれにも拘らず主が試みられたもうことが出来る手段となるものを依然保持されていた理由であり、またそれがここに『わたしの息子イサク』とは言われないで、『その少年』と言われている理由であり、その『少年』によりこのような状態にある神的な合理的なものが意味されており、すなわち、最も痛ましい、また最も内なる試練の争闘に対し準備された真理の状態におかれている神的な合理的なものが意味されているのである(2793番参照)。神的なものそれ自身も神的な人間性もまた試みられる筈はなかったことは、天使たちすらも神的なものには近づくことが出来ないし、まして試練をもたらす霊どもは近づくことは出来ないし、いわんや地獄はそれに近づくことは出来ないという事実のみからでも各人に明白であるに違いない。ここから主が世に来られて、弱さをまとうた人間的な状態そのものを着けられた理由が明らかである。なぜなら主はそのようにしてその人間的なものの方面で試みられたまい、その試練により地獄を征服し、一切のものをことごとく服従と秩序とに帰し、至高の神的なものからそれ自らをかくも遠くに遠ざけてしまった人類を救われることが出来たからである。