キリストと共に治める

 

 

天使の喜び用・役立ち仁慈仁慈の業ヨハネ

主に仕える

 

 

 

真の基督教736

 

「貴方がたは天国に於て偉大なる者となろうと欲する者は、僕とならねばならないという主の御言葉を忘れられたのか。王となり、君となり、基督と共に統べ治めることは、賢明となり諸々の用を果す事を意味しています。天界なる基督の王国は諸々の用の王国であります。主は凡ゆる者を愛し、凡ゆる者に善を為そうと欲し、而して善は用と同一のものです。主御自ら天使と人間とを媒介として善を為し、諸々の用を果されます。而して主は忠実にこれらの用を成就する者達に用への愛を伝え、これが永遠の幸福なる内的な幸いをもたらします。

 地上と同様に天界には壮麗なものの付随している高い位階があります。何故なら政府と官職があり、それ故、高下の権力と位階があるからです。最高の官職に在る者達は宮殿と宮廷に住み、その壮麗と光輝とは地上の皇帝、王のそれを遥かにしのいでいます。彼らは多数の廷臣、長官及び見事な服装をした従者により威厳を与えられています。しかし、最高の者は、その心が公の善の中に在って、この壮麗を奉仕のためにのみ尊重する人々から選ばれます。さて、公の善は各自が社会に何か役立つことを必要とします。而して、凡ゆる用は主から発し、天使達と人間達とによって彼ら自身によって行われるかのように行われます故、公の奉仕は主と共に支配する事の意味であることは明らかであります」。

 

 

真の基督教825

 

こうした 聖徒の状態は彼等に祈願することの全く無意味であることを示している。彼らは地上で自分達に捧げられる祈りを、路傍の彫像または教会の壁、その尖塔に巣を作っている鳥のように聞きはしないと私は断言することが出来る。世にある彼等の帰依者らは聖徒らは主イエス・キリストと共に天界を治めていると語るが、しかしこれは虚構である。何故なら馬丁がその王と共に、門番が貴族と共に、従僕が大監督と共に治めないように彼らは主と共に治めないからである。バプテスマのヨハネは自らを我等の主の靴の紐を解くにも価しない者と語ったのである(マルコ1・7。ヨハネ1・27)。ましてこれらの者に於いておや。

 

 

 

 

結婚愛7

 

あなたらは天界で偉大なものになりたいと願う者は僕とならなくてはならないという主の御言葉を忘れましたか。それで王と君により、またキリストとともに統べ治めることにより何が意味されているかを―それは賢明なものになって、用を遂行することであるということを学びなさい。なぜなら天界であるキリストの王国は用の王国であるからです。なぜなら主は凡ての者を愛され、愛から凡ての者に善を願われており、善は用であるからです。そして主は天使を通して、世では人間を通して間接的に善または用を行われるため、用を忠実に行う者に、用の愛[用に対する愛]と内なる祝福であるその報酬とを与えられます、そしてそれが永遠の幸福です。

 

地上と同じく天界にも無上に卓越した主権と無限の富があります、なぜなら諸々の政治と政治の形があり、それで権力と高貴にも大小の相違があるからです。そして最高の位にある者は宮殿と宮廷とを持っており、それは壮麗と光輝とでは地上の皇帝と王にまさっており、また彼らは多くの廷臣、大臣、随行員とそんお服装の輝かしさから名誉と光栄とに取り囲まれています。しかしこれらの者の間でも最高の者は、その心が公共の福祉におかれて、その身体の感覚のみが服従のために絢爛たるものの中におかれている者たちから選ばれます。そして人各々が共同体と同じく社会の中でも若干用に立つのは公共の福祉のためであり、また用の各々は主から発して、天使と人間とにより、恰も彼ら自身から為されるかのように為されるため、このことが主とともに統べ治めることであることが明らかです」。