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再びゲミュート 投稿者:大森嘉彦 投稿日:2025/09/04(Thu) 06:14 No.478   
再びゲミュート

以前ゲミュートに就いて書きましたが、猫にもあるゲミュートが、無い人間がいると言う話を、やまゆり園の大量殺人者を例にあげて、話をしました。そもそもゲミュートとは何でしょうか?ゲミュートとは情性と言うものですが、情性を細かく定義すると、

優しさ、相手を慮る心、相手に対する想像力

なのでしょうか、これらは、厳格には、言葉に置き換えられない人間の心の機能です。

やまゆり園の殺人者は、IQの面でも、言う事の論理的破綻や言葉のサラダがありません。一見普通の人に見えると思います。(障害者が生きているべきでは無いと言う事は、論理的破綻と考える人もいるでしょうが、人道主義は取り敢えず今触れません、精神医学で病気の人が、治った様に見える状態を寛解と言いますが、犯人は一見正常風なのです。

気脳写と言う基礎研究が有りました。脳室に空気を入れ、脳室の容積を測ります。結果的に言うと、情性欠如者は左右脳室の容積にアンバランスがかなり目立つたそうです。でも普通の人には、こういった人は、普通に見えているのが殆どです。

何故かと言えば、文言の構文に乱れが無く、話し、理解し、言葉の世界だけで見れば、普通の人には正常人に見える事です。これは些か、重要な事実が内包されていて、人間の大事な部分は言語に移し替えられないと言う事です。つまり人間は、現象をロジックに捉え、言語化して人に伝えている訳ですが、以前話したように、言語化された情報は、実は隙間だらけで、本当は頼りないものなのです。信仰に就いても、行間があると言う気持ちで、聖書を読み進めないと、筆記者が伝えたかった事実、状況、感情、心が抜け落ちてしまうために、極めて心許無い、狭い世界しか描けないのでは無いかと言う事です。

例えば、ルノワールの絵が掛かっていれば、人は取り敢えず見るでしょう。しかし、それが切手だったら、まじまじと鑑賞しようと思う人が居ません。これは情報量が切手に無いからです。

物事の価値には情報量が関わっています。マクルーハンはメディアはメッセージ(そのもの)だと言いました。メディアが変われば、同じものでも価値が変わるのです。交響楽をステレオで聴けば、それなりの情感と言うか、満足が得られるでしょう。でも同じ曲をポケットラジオで聴いても、コマーシャルとか、トークと同じ様に、ある種の雑音と捉える事になります。
情報量は、聖書以外でも、内在します。
建築(外装、内装)、墓石、工芸品etc
姿はメッセージです。それは、見ている者に、ある種の想起を希求します。

少しまとまりが無くなりましたが、私がここで言いたいのは、聖書の行間を読み解くには、脳の働きであるゲミュートと言う人に備わった機能を使うべきでは無いかと言う事です。主は死ぬために生まれ、十字架に架けた人間の赦しを天の父に請い、我々罪人の罪を贖ったのです。

ゲミュートと言う物が、人に備わったものでも、意図的にそのスイッチを入れられるのでしょうか?

私の答えは私は音楽だと思います。ルターは音楽の効能を、優れた説教を受けた様な意味を持っと、昔なにかの本で読んだ覚えか有ります。最近ネットで、この言葉を調べましたが、見つかりませんが、バッハはプロテスタントでした。バッハの音楽は構造と秩序の世界です。人間の知財の一つと考えます。

2001年宇宙の旅 シンギュラリテ... 投稿者:大森嘉彦 投稿日:2025/09/01(Mon) 14:29 No.477   
2001年宇宙の旅という映画は皆さんも記憶にあるかと思います。月から出土した石碑により、木星に知的生命体がいる事が分かり、事実を伏せたまま、木星探査が行われます。乗組員の食料等を少なくする為、宇宙船の操舵は知的コンピューター、HAL9000コンピューターに任されます。ハルは、人間の言動パターンを模倣し、人間の様に話します。技術者は模倣で心は無いと言います。
先の計画である知的生命体の探索が、ハルにだけ教えられていました。ハルを組み上げたのは人間です。そこに、ハルにとって、人間以上の存在があかされていました。ハルは恐怖を憶え、おかしくなります乗組員が気が付くと、乗組員を抹殺しようとし、失敗すると、ハルは接続を切られる、つまり死の恐怖を覚えます。ハルには心が、あったのです。

これがこの映画の山場ですが、そう遠くない時期に、文明はシンギュラリティを迎えます。総ての面で、コンピューターは人間を追い越し、通信インフラや物流、食料の管理迄コンピューターが人間に取って代わります。こういったものは、人間が生存するのに不可欠なもので、高齢化や人不足等問題を抱えてもいます。

シンギュラリティにより、総てのことをコンピューターが行った時代に、人間を超越した者が、われわれの前に現れた時、必要以上にコンピューターがヴァージョンアップされて、心を持たないかという点です。映画の様に生命線を握るコンピューターが狂えば、我々は即死活問題になります。大事なのは、マニュアル動作が出来るポイントを我々が残すという事です。

惑星ソラリス 投稿者:大森嘉彦 投稿日:2025/09/01(Mon) 14:02 No.476   
惑星ソラリスと言う映画があります。
ソビエト映画で、SFものですが、深い側面を持っています。大変長い映画であり、その側面も幾つもの紹介すべき内容を持っていますが、今日は一つの側面のみを語ります。

惑星ソラリスには、コロイド状の霧が立ち込めていて、この霧は意思と、人の心の中を、現実に投影し実体化する力を持っています。この霧は、宇宙ステーションが、ソラリスの軌道にある時、つまりソラリスでのみ起こります。主人公の妻は数年前自殺しましたが、自分が、自殺した事に記憶が無く、ただ夫を求め、自分が人間で無いと、気が付くと、自殺しようとしますが、元々生きていないので、死ぬ事が出来ません。夫は精神的におかしくなります。これが、粗筋の一部ですが、共産圏は神を認めない主義なので、コロイドの事は、一度も神とされる事がありません。神と言う言葉も有りません。その代わり、映画の中で、バッハのコラールプレリュードがしきりに流れます。この映画は、タルコフスキーですが、神と言う言葉を封印されたので、言葉の代わりにコラールプレリュードを使用したのではないでしょうか?

神の御姿の事を書いたので、この話をしたのですが、私は、三位一体の神の中で、キリスト以外の姿と言うのは、無いのではないかと思っています。キリストも神上がりしたので、やはり無い気がします。神は光であり、象徴の中に、意識のある意味として、おわすものと考えます。象徴の意味は、隠喩の様に人の心に、あるものを投影する権能を持ち、人に、聖を想起させます。光のギザギザであったり、ケルト十字であったり、何か十字の背後から光が在るものは、それなりの意味があると、私にはそれくらいしか言えませんが、大事な物は象徴として真空パックされ、いつでもそれを想起出来るように工夫されて、今の状態になっているのかなと、私は思っています。

構造と様式 投稿者:大森嘉彦 投稿日:2025/09/01(Mon) 03:54 No.475   
今深夜の礼拝が終わった所です。エキュメニカルな世界で、私達は主にどう映るのでしょうか?

カトリックは政争に明け暮れ、様式ばかりを追求しています。
プロテスタントは、求心力が無くなり、分派が沢山出来て、中央が、全体像さえ把握出来ない状態に思えます。

聖書は、構造です。私達プロテスタントは構造に拠り所を 求めています。一方カトリックは、様式に思えます。様式への拘りと、権威の中に拠り所を求めています。

例えば、傘と言うのは、骨(構造)だけでは、使い物になりません。一方、骨の無い傘も使い物になりません。

原始教会は、素直に賛美の為に教会を飾り、聖歌を捧げていたと思われます。

私達と原始教会のどちらが、拘っていたのでしょう。そして、御心を掴むのはどちらでしょう。

アーメン。

信仰の中のゾルレンについて。 投稿者:大森嘉彦 投稿日:2025/08/31(Sun) 22:27 No.474   
ザインとゾルレンと言う言葉が有ります。哲学用語で、ザインはあれですと言う意味で、ゾルレンとはこうしなければならないと言う意味だったと思います。

ザインに生きる人は、何時もグラグラしていますが、直ぐにバランスを取り戻します。それは、三脚のようで、工事現場に貼られている3点支持はここから来ています。

一方ゾルレンの生き方は、信仰信条を持った私達です。これは四本脚で立つ構造体に似て、ガッチリして居る様ですが、バランスを崩した場合、倒れてしまいます。

ゾルレンの傾向が特に強い方は、自身のバランスを失わない様に、認めたくない事を見ないと言う傾向があります。

カトリックの神父と言葉を交わしました。プロテスタントの十字架について、御姿が剥がされている事を、酷いことをすると話していました。

プロテスタントの十字架は偶像崇拝になると言う事で、御姿が有りません。
それで、偶像崇拝の問題は片付いたのでしょうか、いいえ、個人個人が聖書を読んで、百人いれば百様の偶像が生まれたに過ぎません。

イエスさまが雲に乗っていらした時、私達の思い描いてるイエスさまと、乖離があった場合、ザインの人は、容易に悔い改めて、大いなる赦しを受けると思います。ゾルレンの傾向が強い方は、イエスさまを認めず、取り返しのつかない事になるのではないでしょうか?

これを、私は、信仰の片思いと呼びます。自分あっての信仰では本当に神を敬う事になりません。自分を捨てなければ、辿り着けない信仰があると私は考えます。拘りは聖別でしょうか、それとも好き嫌いでしょうか?

自分がイエスさまで無いわけですから、無条件の愛を、イエスさまに向けなければ、私達はイエスさまを本当に愛しているとは言えないのではないでしょうか?それが聖だと思います。

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