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昨今、仏教界は追善供養にばかり気を取られ、葬式仏教と揶揄されることがあります。もちろん、葬送という行事は大事なことであり、それが仏教をはじめとする宗教団体・組織の大きな存在意義の一つであることは確かでしょう。
仏教の教えとは、それを一歩前進させて、死者に対する供養はさることながら(あるいは、そのことを通じて)、追善供養を行っている自分自身が諸々の悩みや苦しみから救われていくことにあるものと思います。
すなわち、自分の身に備わっている仏性を自覚・認識し、悩みや苦しみを乗り越えて生き生きとした生き方を目指すことが仏教の根源と考えます。
しばしば、他力本願とは‘果報は寝て待て’的な意味合いで語用されることがありますが、真宗の教えとしては、何も努力せずに成果が降って湧いてくることを意味しているのではありません。その真意は、まずは阿弥陀仏の本願を信ずることに始まり、ひたすら念仏を唱えて我が身・我が心を阿弥陀仏に任せれば、最終的には阿弥陀仏という他力により救われ、極楽往生できるとすることにありものと考えます。
なお、厳しい修行を積み重ねることや、出家のような形態をとることによって悟りを得ることは、自力本願となりましょう。
こちらもしばしば、悪人(時として罪人)のほうが救われるとするのはなぜ?等々の質問が挙がりますが、少々の誤解があるものと思われます。つまり、真宗で云うところの‘悪’の定義が、人間の迷い・悩み・苦しみといったことを指すということです。俗世において愚かで迷い苦しんでいるのが我々凡夫であり、その迷い・悩み・苦しみが悪とすれば、そのような悪人こそ救いを受けられる機会や根拠があるということを説いているのが悪人正機説ということであると私は解釈しています。
では、非倫理的・非道徳的な行いをしたり、罪を犯したりするような、いわゆる狭義の悪人は真宗の教えによって救われるのか、という点が次なる疑問として湧いてきますよね。その点については・・・これから答えを探していこうと思っています。
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