森の塚山の白蛇
八女市(旧上陽町)
【関連資料】
黒木の歴史
第55話 劒が渕悲話
上陽町から見上げる森の塚山
八女郡上陽町(合併後は八女市)は、星野川の急流に沿ってできた街である。この町のシンボルといえば、標高387bの森の塚山(地元では「もんのづかやま」と呼ぶ)だろう。むかしから人々は、この山を「神のおわす場所」として崇めてきた。
山一つ隔てた南隣は、「日本一の大藤」で有名な黒木町。鎌倉時代から、北河内村(現上陽町の中心部)は、その黒木と密接な関係にあった。それは、森の塚山に次いで目立つ存在の北河内山のことを、「調山」と呼んだことからも頷ける。「調」とは、鎌倉時代に黒木城(別名猫尾城)の主であった黒木助能が、時の天皇から授かった由緒ある名前だからだ。
山頂の白蛇は
時は未だ戦国の世の天正年間。生駒野城の主は、十五代目の川崎鎮堯であった。
川崎家の家老弦斎は、別宅のある久木原から、供も連れずに一人で森の塚山に登った。何やら気難しそうな顔をしている。秋も終わりに近づき、星野川から吹き上げてくる風が冷たさを増していた。
頂上が近づいて、ふと足元に目をやると、草むらから3尺(90a)ほどの白蛇が出てきて、弦斎の前を横切った。「美しい」、蛇の白い鱗がいつまでも弦斎の眼底に残った。
弦斎が単身山に登ったのには、理由があった。それは、毎年正月4日に行われる、調山での初狩りのことである。狩りは、一族の黒木家と共同で催される。まず、黒木家の当主が自慢の鷹を放ち(先狩)、その後に川崎家当主が鷹を放つことになっている。得た獲物は、近くの森の塚山の神に捧げるというのが、長い間の慣わしであった。
つまらぬ意地が…
当主の鎮堯は、その順番が気に食わない。「平安の世から、生駒野の川崎荘は、矢部と黒木の親方筋に当たる家柄のはず。なのに、なぜ黒木の後狩りに甘んじなければならぬのか」
鎮堯が、詰め寄るたびに弦斎は困り果てた。
「鷹をどちらが先に放とうが、大勢に影響はござりませぬ。相手をいい気持ちにさせておくほうが、よほど利口者のやることですぞ」と諌めるのが精一杯であった。
時勢は、重高が考えるより何倍もの速さで、筑後国全体に襲いかかっていた。東(豊後)の大友宗麟、西(肥前)の龍造寺隆信らは、勢力を拡大するために上妻・下妻(現在の八女地方)を挟んで厳しく睨み合っている。そんな時に、一族の黒木家と争うことは最も危険だったのだ。
「ワカに理性を賜りますよう」
弦斎は、森の塚山頂上に設けられた祠に向かって、熱心に祈願した。祈りが終って下山しようとすると、再び白蛇が横切った。その際白蛇が、ふいと鎌首をもたげて弦斎に目をやったような気がした。
長年の慣行を破る罪
年が明けて、初狩りの日がやってきた。黒木家の当主が自慢の鷹を放とうとしたその瞬間、左隣の鎮堯の鷹がものすごい羽音を響かせて、遥か先を駆ける獲物に向かった。
弦斎は、黒木家当主の前に進み出て頭を下げた。
「何を気迷ったか、我が殿の鷹が飛び出してしまいました。何とぞ、この場は穏便に」
いったん血相を変えた当主も、家老の剥げ頭を目の前にして、その場はいったん鉾を収めた。
だが、100年以上も続いた初狩りの慣わしを一方的に反故にされたことに違いはない。いかに一族の仲とはいえ、黙ってすますわけにはいかないのだ。翌年からの初狩りは、中止することになった。調山での獲物を森の塚山の神に供える行事も止まった。
弦斎は、山の神の怒りを恐れた。
「ワカ、早く手を打たないと取り返しのつかないことになりますぞ。ここで黒木を敵に回せば、お互いが身の破滅です」
弦斎は、鎮堯に和解するよう勧めるが、十五代目もなかなか頑固なもので、まったく動こうとはしなかった。
神に逆らい、思わぬツケが
そんなある日、調山で狩りをする鎮堯の足に、3尺の白蛇が食いついた。慌てて下山した重高は、高熱にうなされた。重高の奇病に促されるように、星野川は氾濫し、一帯に疫病が蔓延した。城下は、手の施しようもない惨状に覆われたのである。
「調山で殿に噛み付いた蛇は、もしかして…?」
いつぞや森の塚山で見たあの白蛇ではあるまいか。あの時白蛇が弦斎を振り返った様が、神の使いに見えたものだった。そうすると、やはり山の神は、初狩りのお供えを怠ったことを怒っておられる。 弦斎は、急ぎ森の塚山に登り、祠の前にひれ伏した。「何とぞ、お許しあれ」と。
だが、時は戦国の世である。次々に恐れていた事態がのしかかった。佐嘉の龍造寺が黒木の猫尾城を攻め立てる。その勢いで龍造寺は、一気に川崎鎮堯の居城も。鎮堯も必至で抵抗したが、力の差は如何ともし難く、瞬く間に軍門に下ることになってしまった。(天正7年)
「ワカ、再興を期しなされ。そのためには、領民と一族を大切に考えることです。努々、山の神を粗末になさいますな。それから、小さなことにこだわり過ぎませぬように」
弦斎は、心残りを言い残してこの世を去った。星野川のほとりに真の平和を取り戻すのは、それから相当の時間を費やしてからのことであった。(完)
旧上陽町を縦断する星野川には、見事な石橋がいくつも架かっている。最上流が、物語の、森の塚山や調山が見下ろす「栗林眼鏡橋」。二連式の直線と円形の美しさは、芸術的でもある。昭和4年に石工の山下佐太郎と大工の小川弥四郎が造ったと説明がなされていた。橋を中心にして、130軒の民家が軒を連ねる。そのむかし(元禄時代)、ここに銅山があったそうで、最盛期には800人の鉱夫が働いていたそうな。星野川沿いにぽつんと大集落が存在することが、鉱山の名残りとでもいえようか。写真は、栗林眼鏡橋
久木原から7キロ下ったところが、上陽町の中心をなす北川内地区である。470世帯1900人の地区だが、何といっても渓谷の美が自慢だ。丁度桜の満開の時期にお邪魔したら、北川内公園に植えられたソメイヨシノの枝が星野川に覆い被さる様子は、上等の油絵を観ているみたいだった。ここにも、立派な寄口眼鏡橋がある。最近では、上陽町を「ホタルの里」として売り出しているとも聞く。
物語は、徳川以前の戦国時代である。国盗りの亡者たちは、こんな静かな山奥の村にまで食指を伸ばしていたのか。そういえば、現代においても、滅多に人も車も通わない山奥に「朧橋」なる、立派過ぎる「政治橋」も架かっている。
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