北部九州戦国時代史
1467年〜1600年

西暦 年号 出来事日本史
1434 永享6年 江上常種、探題渋川満直を討つ。のちに筑後より神埼に移る。
1469 応仁元年 応仁の乱
筑前・豊後支配の大内政弘、応仁の乱で西軍支援。
1469 文明元年 少弐氏、筑前に攻め入り大内軍と戦う。
豊後の大友、豊前国平定。
少弐頼忠、大内・大友を駆逐し、筑前・豊前を支配下に置く。
1470 文明2年 大内政弘の伯父も政弘に反旗。
1477 文明9年 大内政弘、周防・長門・筑前・豊前の守護職に。
1478 文明10年 大内政弘、九州に渡り少弐政資を討ち、豊前・筑前を制圧。箱崎宮焼け落ち。
1501 文亀元年 大内義興、大友・少弐軍を豊前馬ヶ岳城で破る。
1513 永正10年 大友義長(相隣の祖父)、星野伯耆守を謀殺。
1532 天文元年 大内方温科盛長ら、立花親貞を筑前立花山で破る。
1533 天文2年 大内方陶興房、少弐資元と筑前で戦う。
1534 天文3年 星野対問注所の合戦。(耳納山・大生寺周辺)
1536 天文5年 大内義隆、少弐資元を攻め、自殺に追い込む。
大内義隆、菊池と組んで筑後進出を伺う大友を牽制。大内安定期に。
1551 天文20年9月 大内義隆、重臣陶隆房の反乱で自殺。
天文20年 陶隆房、大友宗麟の弟晴英(大内義長)を大内の後継に迎える。
1556 弘治2年 秋月文種、大友氏に反す。大友宗麟、これを討つ。
1557 弘治3年 大内義長、毛利元就に滅ぼされる。
大友宗麟、豊前・筑前・肥前3国を平定。豊後・肥後・筑後を加えて北部九州の覇者となる。
1558 永禄1年 龍造寺隆信、先手を打って勢福寺城(神埼の)少弐冬尚を討伐することを表明。
1559 永禄2年 江上常種は少弐氏について探題渋川満直を討つ。のちに筑後より神埼に移る。
少弐冬尚、龍造寺に攻められて、勢福寺城で自害。名門少弐家十五代で消滅。
反大友、博多に侵入し市街を破壊。
大友宗麟、豊前・筑前の守護となる。宗麟、九州探題に。
1560 永禄3年 織田信長、桶狭間で今川義元を討ち天下をとる。
1562 永禄5年 1月、大友軍、豊前松山城を攻める。3月、再び豊前に出兵。宇佐宮を焼き討ち。
1563 永禄6年 毛利元就、大友宗麟と和議。
1566 永禄9年 高橋鑑種、大友に反する。
1570 元亀元年 大友宗麟、戸次鑑連(立花道雪)を立花城督とする。
1571 元亀2年 毛利元就死去。毛利軍、豊前より撤兵。宗麟6カ国大名となる。
1578 天正6年 秋月種実、筑紫惟門の兵を岩屋城に攻める。
龍造寺隆信、筑前へ侵入。
1578 天正6年 大友、日向の耳川で薩摩の島津氏に壊滅的大敗を喫す。
仕方なく大友に従っていた国人たちが離反して反大友が入り乱れ。
肥前の龍造寺隆信、筑後に進出。
1581 天正9年 大友、彦山を焼き討ちする。
1584 天正12年 大友の高橋紹運・戸次道雪、筑後へ出陣。
島津軍、沖田畷の戦いで龍造寺軍に勝利。龍造寺隆信戦死。
羽柴秀吉と徳川家康講和。
1586 天正14年 全九州制圧に燃える島津氏、筑後を抜き大友の高橋紹運が護る筑前の岩屋城を囲む。
紹運は討ち死に。島津も打撃を受けて筑後に後退。
1587 天正15年 大友宗麟の救援要請で豊臣秀吉、九州に出陣。島津、降伏。
島津義久、剃髪の上豊臣秀吉に降伏。
九州、統一政権で平定。
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