伝説紀行 劒が渕 黒木町


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第055話 02年04月14日版

2007.04.22  2007.12.09 2008.01.20 2017.02.25 2019.03.10
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 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

劒が淵悲話

福岡県黒木町


劒が渕

 黒木町は全国有数の茶どころ。「八女茶」のブランドは、室町時代に栄林禅師が明国から持ち帰った種を当地の笠原地区に蒔いて栽培したのが始まりだとか。その笠原地区を水源とする笠原川と東方の釈迦岳から流れきた矢部川が合流するあたりに、劒が淵(つるぎがふち)はある。そのむかし、淵から見上げる小山の頂上には黒木城が聳えていた。別名「猫尾城」とも呼ばれ、山のすぐ下の現在黒木中学校あたりを「陣の内」といって、城主やその家族と家来衆が住んでいたそうな。
 猫尾城の主は
黒木大蔵またの名を源助能(みなもとのすけよし)といった妻の名は春日で、家来衆や領民からも慕われる仲のよい夫婦であった。ところが、この夫婦に、取り返しのつかない不幸が襲った。

不吉な便り

 ときは鎌倉時代。
 春日は、愛する夫の帰りを待ちわびていた。3年前に禁裏(後鳥羽天皇の住居)を警護する大番役(武士が交替で御所を警護する役目)で都に出立して以来、寂しい毎日を過ごしていたからである。
 そんなある日、助能に随行していた家来が早馬で駆け込んできた。夫の無事と土産話を先行させるための遣いだと信じて出迎えた春日は、急ぎ自室に招き入れた。
「・・・して、殿さまは無事であろうの。ご家来衆はみな・・・?」
 春日の問いに、なぜか家来の顔が冴えない。
「それが・・・、実は・・・、殿には帝のそばにお仕えする女官を妻として迎えられ、いっしょに黒木へご帰還でございます」
 話の途中から、春日の胸が騒ぎ出した。

単身赴任の男に妻をくださる

家来が語るには・・・。
 源助能が都での任務を終えて帰り支度にかかった日のこと。後鳥羽天皇は、慰労のために、助能を御殿に招かれた。宴もたけなわとなる時刻、天皇は助能の横笛を所望なされた。
「なんと名誉なことよ」
 助能はすべてを忘れて口元の愛笛に集中した。帝もたいそう満足されて、「褒美をとらす」と、助能に「調(しらべ)」という姓と合わせて、一振りの剣、それに「待宵小侍従」という美しい女性を下げ渡された。写真:後方猫尾城跡
 助能は、天にも昇る気持ちで、待宵を連れて帰路に就いたのであった。

都妻に男児誕生

 いよいよ夫助能が猫尾城に帰り着くという日、春日は武士の妻らしく気丈に振舞った。助能は数百の軍を従えて凱旋した。
 その日から、2人の妻を持つ城主のもと、以前と同じように一見平穏な営みが始まった。助能は春日への気配りから待宵の館に通うことも少なかった。春日の館でも上洛前と同じように横笛と琴の合奏はあるものの、以前の弾むようなアンサンブルとはならない。
 それから1年が経過した6月の中ば。待宵に玉のような男の子が誕生した。助能は、春日が産んだ子をさておいて、待宵の子を後継者に指名し、毎夜のごとく待宵館へ通うようになった。

琴線が切れる

 城中にあっては内面の苦悩を表に出さない春日であったが、自室に戻ると毎夜泣きの涙で暮らす日が続くようになった。そして、いつの間にか、夫が恨みの対象に変った。
「あんまり、思いつめなさいませぬよう」
 乳母の紅梅が慰めるが、春日には聞こえない。世継ぎの初めての誕生日を迎え、大広間では家来一同集っての祝宴が何日も続いた。その席に春日は呼ばれなかった。寂しさを紛らすために侍女を相手に愛琴に向かう春日。そのとき、1本の弦が激しい音をたてて切れた。
「すぐに取り替えますほどに」
 侍女が立ち上がった。写真:陣内があったあたり
「よい、今宵は止めじゃ。気がすぐれぬ故、そこらを歩いてくる。誰もついてきてはならぬ」
 縁側から庭に降り立った春日は、生い茂る植え込みの中に消えた。

渦巻く淵に

 何どき待っても春日は戻らない。
「もしかして・・・」
 紅梅は胸騒ぎに堪えきれず、館の脇を流れる矢部川の岸辺に急いだ。梅雨の真っ只中で、川の水嵩は増え、濁流が渦巻いている。暗闇の中で見るその光景は、まさしく龍が炎を吐きながら、旋回しているさまであった。
「まさか」紅梅の不安が的中した。龍が大口をあける岸辺に、春日の履物が揃えて置かれてあった。履物で押さえるようにして、「呪」の一文字を記した紙切れが・・・。
 主人から目を離した罪を悔いる紅梅は、自らも龍の大口に立ち向かった。紅梅に続いて、侍女12人もつぎつぎと。

怨念は黒木の里を飲み込んで

 助能は、宴の席で春日と12人の侍女の最期を知らされた。家中総動員で矢部川の捜索が始まった。だが、渦巻く淵には近づくことさえ難しい。翌朝も里人を加えて大捜索が展開され、陣の内から1`下流の本分村築地(ついじ)の瀬で、春日の遺体と13人の侍女たちの遺体が引き上げられた。
 雨はさらに激しくなり、川の水は土手を越えて、黒木の里が湖と化した。春日らを飲み込んだ龍が、怨念を代行するように。あふれ出た水は橋を流し、植えたばかりの早苗を剥ぎ取り、牛馬をも押し流した。大水とともに村中には疫病が蔓延し、人や家畜が次々と倒れた。
 助能は初めて自分の犯した罪の重さを意識した。
「悪かった、余が悪かった、春日よ。そなたのような心根優しい妻を持ちながら、帝に誉められたぐらいで有頂天になってしまった余を許してくれい」
 助能は、春日が飛び込んだ淵に向かって号泣した。そして、天皇にいただいた劒を惜しげもなく“龍”の口めがけて投げ込んだ。以後里人は、助能が宝刀を投げ入れた場所を「劒が淵」と呼ぶようになった。
 助能の気持ちが春日と13人の侍女の霊に通じたのか、それから間もなく雨は止み、蔓延していた悪病もおさまった。


写真は、春日の局などを祀る築地午前霊社

 里人は、身投げした春日主従の霊を弔うために、遺体が上がった本分村(現黒木町本分)に築地御前社(祠)を建て、赤手拭、白粉、紅粉と赤緒の草履を供えるようになった。その行事は今も続いている。

 黒木町で有名なものは、「八女茶」と美人女優の黒木瞳、それから国道に覆い被さる大藤棚。4月15日から「大藤祭り」が開催されていると聞いて出かけた。駐車場や出店など祭りの飾りつけは完了しているものの、肝心の藤の房はまだ10センチ程度(1分咲き)。藤棚の下には、「今年も暖冬というので、本来ならゴールデンウィークに催す祭りを4月に前倒ししました。ところが、開花直前になって想定外の寒波が押し寄せ、蕾は開かないままです(要旨)」と空のダンボール箱に言い訳が記されていた。自然界の悪戯に怒るものもいないのに、役場の方も気を使われるものだ。
「劒が渕」と猫尾城を再度丁寧に検証することにした。あの丸い山をなぜ猫尾城と言うのか。山の形が見方によって猫の尻尾に似ているからと聞くが、今回も解明できなかった。城主や家族が住んでいたという陣の内は、現在中学校として使用されている。ここに煌びやかな館があったのかと想像しただけで楽しい。川岸に下りるとそこが劒が渕。澱んだ淵は現在もそのままだが、この水嵩では怖ろしさは伝わってこない。やはり上流に日向神ダムができたせいであろう。
 春日の局の怨念をも飲み込んだ劒が渕は、今のところ波静かといったところ。更に1キロ下流の本分あたりを歩いてみた。春日と13人の侍女の遺体が上がった場所である。

 鎌倉の時代、侍大将が複数の妻を持つことはそんなに珍しいことではなかったろうに。しかし、「真の妻は我ひとり」と信じる女の執念もまたすさまじい。
(2007年4月17日)

黒木町の歴史

仁安2(1167)年 源助能、大隅の国大根占院(おおねじめいん(現鹿児島県肝付郡)より黒木に移る。  平清盛、太政大臣に。
嘉応元(1169)年 助能、豊州津江荘(現大分県中津江村)より津江権現を勧請し、黒木に津江神社を創建する。
治承2(1185)年 黒木(源)助能、黒木の今村に善能禅寺(宗真寺)を建立。
治承4(1180)年 源頼朝、挙兵。
文治元(1185)年 壇ノ浦で平家滅亡。
文治2(1186)年 黒木助能、木屋に猫尾城を築く。

                  【町村合併35周年記念「黒木町年表」より】

 この頃、東京在住のお方から、「お母さん」から聞いた話として、本編について貴重なご意見をお寄せくださいました。お母さんは、筑紫次郎の地元である久留米のご出身で、90歳を超えた今、病魔と闘っておられるそうです。早く元気になって、ふるさとの想い出をたくさん聞かせてください。(2006年12月10日)

 この話(劒が渕悲話)は、私が若い頃、母方の伯父から聞いたことがあります。その時、私の母方は黒木氏の末裔あるいは傍流と知りました。
私が聞いた話と、古賀様の記述との若干の違いは、後鳥羽上皇の種を宿した侍宵小侍従を助能に下賜され、喜び勇んで帰 郷したが、既に男子を設けていた春日は夫を討とうとして果たせず、劒が淵に身を投げた。
跡を継いだ侍宵小侍従の子も若くして死に、義兄たちは菩薩像を作って祭った。今、その菩薩像は太宰府天満宮に納めてあり、写真で見たその木像はかなり痛んでいました。

 築地御前社の場所が判らなかったと書いておられましたので(今はお判りかもしれませんが)老婆心ながら申し上げます。
八女市方面から黒木町に入って本分の集落に入り本分の信号を右に曲がります。
黒木西小学校の近くで車を停めて小学校脇の北側の道を東側に300メートルほど歩くと築地御前社はあります。小さな社です。
私は久留米郷土研究会に属しており、自分もホームページで歴史散歩のコラムを書いております。先生に習って郷土の歴史を自分なりのスタイルで書きつづっていきたいと思っています。(2007年7月15日)
久留米市在住Hさん

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