伝説紀行 英彦山の由来  福岡県田川郡


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作:古賀 勝

第269話 2006年08月13日版
再編:2018.03.25  2018.07.01

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 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

鷹の羽

英彦山由来

福岡県添田町

【関係資料:英彦山の名称】


英彦山神宮奉幣殿と上宮への道

 筑後平野から東を望むと、とっぺんが鋏のように割れた、ちょっと変わった山が見える。福岡県添田町と大分県山国町に跨る英彦山(標高約1200b)である。そのむかし、山全体を神格化して奥羽の羽黒山、熊野の大峰山と並ぶ修験道の霊山であった。坊舎が3600、檀家は九州一円に40万戸以上もあったというからすごい。
 ものの本によれば、もともとの山の名前を「霊山」といい、その後「日子山」になった。ここまでは謎多き神代のこと。平安時代に入った弘仁10(819)年に、嵯峨天皇の詔(みことのり)によって「日子」が「彦」に改められ、「彦山」になった。更に約1000年の年月を経た江戸時代には、「英」の尊号を受けて「英彦山」と改められたんだと。


銅の鳥居

 山と神仏の移り変わりも面白いが、そもそも「霊山」ができたいきさつも知りたいな。

山中に白い鹿が

 時代は祖先すらもあまり記憶にないとおっしゃる神代(継体天皇時代)のことだ。豊前と豊後、それに筑前と筑後の境目に聳える山は険しく、里人を寄せ付けない世界であった。
 山の下(現在の日田市あたり)に住むツネオは、獣を追うことが何より好きな男である。広大な山の裾野から、見上げる山の頂上まで、彼が知らない場所は一ヶ所もない。巨大な岩や洞穴、珍しい樹木や小動物など、どこに何があって何が動いているかもみんなお見通しだ。だからと言って、花を愛でたり景色に感動したりするような優男でもない。要は、猪や雉を捕まえるために必要な知識に過ぎなかった。


奈良公園の鹿

「おっ!あれは…?」、遥か彼方の崖から下界を見下ろしている四足(よつあし)の動物を見つけたツネオ。「あれは鹿だ。が、毛色が違う。真っ白だ」、ツネオの頭をよからぬ考えが過(よぎ)った。早速自慢の槍を投げつけた。

不思議な老人

 確かな手応えを得て崖を駆け登ると、首筋に槍を打ち込まれた鹿が倒れている。牛ほどにも大きな雄鹿だ。持っていた小刀で止めを刺そうとした。
「待たっしゃい!」
 山中に響くだみ声がツネオの手を止めた。顔を上げると見知らぬ老人が立っている。
「どこのどなたか知りやせんがね、この鹿は俺が射止めたんで。毛が真っ白な鹿なんて滅多にいるもんじゃねえ。街に持っていきゃ、縁起もんとして高く・・・」
 そこまで言ったところで、老人の杖がツネオの頭を直撃した。
「この、罰当たり奴が。これなる鹿を何と心得る!この鹿はな・・・」
「言いたいことがあったら早く言ってくれよ。鹿の血は冷えねえうちに抜いてしまわねえと後の始末が面倒なんでな、爺さんよ」


厳しい英彦山山中

 爺さんと言われて少しむかついたようで、老人の額がピクついた。

鷹が鹿を援ける

 世にも不思議なことがツネオの眼前で繰広げられる。
老人が、持っている杖を高く掲げて指笛を鳴らした。すると、どこにいたのか、鷹が3羽急降下してきた。老人の合図で1羽目の鷹が鹿の首に突き刺さっている槍を咥えて抜いた。2番目の鷹は、自分の羽で噴出している血を拭いた。3番目の鷹は、嘴(くちばし)に咥えた水の滴る檜(ひのき)の枝を鹿の傷口にたらした。
「爺さんよ、こりゃいったいどういうこったい?」
 あっけにとられてているツネオに、老人が語った。
「これなる鷹は、山の神さまのお遣いなんじゃよ」
「じゃ、このでっけえ鹿は?」
 老人がツネオに説明している間に、倒れていた鹿がむっくと起き上がった。そして、瞬く間に大樹の彼方に消えた。
「お爺さん、そこんとこ、もっとわかりやすう聞かせてくれねえか」 

無益な殺生はダメ

 ツネオは、自分の頭がおかしくなったのかと戸惑っている。
「鷹も鹿も、山の神さまの遣いなんじゃよ。神さまは、殺されかけた鹿を援けよと3羽の鷹に命令された。鷹は鹿の傷口を塞ぎ、谷川から運んできた命の水で蘇らせたんじゃ」


写真は、現存する坊舎跡

「へえ、そんなことって有りかよ。だけどよ、俺は獣や鳥を打ち殺すことで飯食ってんだ。それが悪いってのかい?」
「神さまは、生き物どうしの必要最小限の命のやりとりをお認めなさっておられる。そうでなければ、地上にあるすべてが生きていけないからな。山に生えている草や木もみんな、お互いに譲りあって生きておる。数え切れないほどの獣や鳥、虫や魚も、神さまの許しを得てわずかばかりの食べ物をいただきながら・・・。そこが、無益な殺生を繰り返すお前と違うところさ」
「わからねえ。虫も獣もほかの生き物を食っているって言うのに。ところで・・・」
「まだ、何か?」
「爺さまって、いったい何者なんだえ?」

改心して寺を開く

 訊かれて、老人が初めて自らのことを語り始めた。名前は「善正」。仏の教えを極めるために北魏(中国)からやってきた僧である。九州の海岸に下り立った善正僧は、神と仏が同居するこの山に落ち着いた。


霊仙院の仏さま

 来る日も来る日も山中を走り、断崖の壁に向かって神仏からの教えを聞いた。そうこうするうちに、山の神の言葉を理解できるようになり、神の遣いの鷹や鹿とも共存できるようになった。
 話を聞くツネオの頭(こうべ)が次第に下がっていく。
「そのように偉いお坊さんとは露知らず、失礼の数々をお許しください」
 ツネオは、すべてを投げ打って善正僧に弟子入りした。名前を「忍辱(にんにく)」と改めたツネオは、断崖に庵を築き、師匠がお国から持参した仏像を祀った。山の名前も「霊山」と定めて、朝な夕な拝み続けた。
 これが信仰の山「英彦山」の始まりである。

 しかし、善正と忍辱が築いた英彦山信仰も、次第に寂れていった。大宝年間(701〜4)には役の行者が入山して寺の再興を図ったがままならず、更に100年が経過した。その頃、嵯峨天皇から、「霊山を改めて霊仙寺と名づけ、九州一円を檀家とし、四方七里を寺領にあて、比叡山に準じ3000の宗徒を置いて天台の学を学ばしめ、勅願寺とせよ」との詔を賜ったところから、英彦山が九州一円からの篤い信仰を受けるようになる。写真は、名物「英彦山ガラガラ」
 その証が、参道に建つ銅(かね)の鳥居と山中腹に建つ奉幣殿である。鳥居は肥前(佐賀)の大名鍋島氏が寄進したもの。高さが7b、柱の周囲が3b。一方の奉幣殿(タイトル写真)は、神仏混淆の時代に大講堂と呼ばれた建物で、肥後(熊本)の大名細川氏が寄進している。両大名とも英彦山信仰に大変熱心であったわけだ。(完)

英彦山を題材にした「伝説・物語」は、これまでにもいくつか紹介してきた。

第42話 だんご柳

第50話 行者のおまじない

第57話 我慢比べ

第92話 彦山参り

第255話 花月の座り石

など。英彦山は、伝説紀行の執筆には欠かせない舞台である。江戸時代まで栄えた山も、今では、坊舎跡や宿坊跡が僅かに残るだけ。英彦山ガラガラなど、参拝者が競って買い求めたみやげ物売り場や旅館も、2軒だけが営業しているのみとなった。
 参道の急階段に代わって登場したモノレールには、幼子を連れたお祖父ちゃんやお祖母ちゃん、そして登山姿の熟年者の姿が目立つ。熟年者は、中宮から上宮へのお参りを兼ねて大自然の四季を楽しむ予定。すっかり様変わりした英彦山神宮を目指す僕も、やっぱり足は車とモノレールだった。
 歴史と伝説と大自然が織りなす英彦山は、今も間断なく、大量の水を筑後川や遠賀川に贈り続けています。

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