伝説紀行 だんご柳 東峰村(小石原)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第042話 2002年01月13日版
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

だんご柳

【関連資料:大友宗麟】

福岡県東峰村(旧)小石原村


小石原村役場裏庭に保存されているだんご柳

小石原川(筑後川の支流)の源流小石原村に、柳の枝にだんごを刺したような珍しい植物が自生している。

修験の山を攻めた大友宗麟

 ざっと400年以上もむかしの戦国時代。九州制圧の野望に燃える豊後(大分県)の大友宗麟(おおともそうりん)が、国境(くにざかい)の彦山(※)に4000人もの兵を繰り出して攻めたてた。一大勢力となって脅威を感じる彦山の僧を制圧するためである。僧たちも仏の山を守るべく武装して抵抗し、戦いは7年間に及んだ。

※彦山…平安初期までは「日子山」と書いたそうだが、嵯峨天皇の勅命により(810年)「彦山」と改められ、その後江戸期に入って(1680年)、霊元天皇から「英」の尊号を貰い「英彦山」と書くようになった。もともと仏教を会得しようと集まってくる修験僧の山だったが、明治以降神仏分離令で「仏」の霊仙寺は麓に退けられ、英彦山神社を柱とする神の山となり、今日に至っている。昭和50年に、英彦山神社は「英彦山神宮」に改められた。

僧兵が峠の茶屋に

 国道211号線と国道500号線が交わる小石原村の中心部を、少し甘木方面に向かった村営住宅のあたり合坂峠(ごうさかとうげ)400年前には見事な枝ぶりの神輿(みこし)の松(まつ)が聳えていた。
 峠で茶店を営むお杉婆さんが東の空を見あげて動転した。山の頂(いただき)付近からいく筋もの炎があがって天を焦がしている。
「なんてこったい。仏さんのおらっしゃる山ば焼くなんちゃ。この罰あたりめが」


写真は、宿坊が建ち並ぶ英彦山参道

 お杉婆さんが思ったとおり、彦山中に点在する本堂や修験道場・数百にも及ぶ宿坊に大友勢が火を放ったのだ。
 翌朝、表で人の声がする。「まだ用意しとらんで、勘弁してや」とお杉婆さんが断り文句を唱えながら表に出た。すると、夜露に濡れた縁台に、鎧を着た三人の僧が寝転がっている。
「そんなとこにおったら人に見られてしまうが。早う、早う、中に入りなさらんか」
 婆さんは、この三人が大友の追っ手を逃れてきた彦山の修験僧であることを直感していた。

だんごを一串突き刺して

「彦山は何人(なんぴと)たりとも犯すことのできぬ神聖な山である。それを大友め・・・」
 リーダー格の一老坊(いちろうぼう)が吐き捨てるように呟いた。
「お腹がすいとるじゃろう。昨日の売れ残りじゃが、よかったら食べてくださらんか」
 お杉婆さんがお皿に山盛りの串だんごを差し出した。
「ありがたい。この三日間何も食べずに戦っておった。あなたたちもいただきなされ」
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。遠慮なくいただきます」
 一老坊に促された同道の政所坊(まんどころぼう)と亀石坊(かめいしぼう)は、餓鬼(がき)のようにだんごに食らいついた。そのとき一老坊は手に持っただんごの一串を、御輿の松の根元に突き刺した。
「これは、むかしの偉い坊さんが、枯れ木に花を咲かせたという故事に習ったものじゃで

遺言残して…

 翌朝お杉婆さんが表の障子をあけて仰天した。神輿の松の下で三人の僧が川の字になって死んでいた。寝間には、遺言らしい置手紙が。
「お婆上、お世話になったついでにお願いでござる。もしも、松の根元に刺した串から柳の芽が出たら、山向こうの洞窟に隠れている弟子の覚仁に伝えてくだされ。そのときが反撃の好機だと」
 お杉婆さんへの遺言には、弟子の隠れ場が詳しく記されてあった。写真は、だんご柳の木
 ある朝、お汁に入れる野草を摘もうと裏庭に出たお杉婆さんは、見慣れない植物を目にした。あのとき一老坊が地面に突き刺した串だんごの柳だった。節目からは柳の芽が吹きだしている。それに、枝にはだんごに似た瘤(こぶ)が無数に。
 たまげたお杉婆さんは、その日のうちに彦山に駆け登り、一老坊が示した覚仁の隠れ穴倉に。
「かたじけない」
 覚仁坊は、婆さんへのお礼もそこそこに走り出した。その日を境に散り散りになっていた僧たちが再び集結し、日をおかずして大友の軍勢を追い出した。そして彦山はもとの仏が宿る静かな山に戻った。
 一方だんご柳は見る見るうちに成長し、その子孫が小石原のあちこちに自生するようになった。しかも、どの木にも鈴なりのだんごをつけて。
 お杉婆さんは、その日から毎朝毎晩東の空に手を合わせ、死んだ三人の僧の冥福と彦山の再興を祈った。(完)

 小石原には何度も足を運んだが、だんご柳のことは聞いたことがなかった。「むかしはだんご柳が村中に生息していたそうですが、最近は少なくなりました。そうそう、保存のために公民館の裏庭に植えてありますのでご覧になりますか?」と役場の人。
 案内されて裏手に回ると、大きな柳が葉を落とした姿で立っていた。ある、ある、枝のあちこちに小さな瘤を無数につけている。むかしの人は、修験の山・英彦山参りで賑わったよき時代を回顧して、この瘤つきの柳を串だんごに見立てたのだろう。そして、英彦山と小石原村が永久に栄えるようにと、お話を語り継いだに違いない。
(写真は行者杉)
 珍しいので我が家の庭に挿し木しようと一枝手折ってもらった。「無理だと思いますよ」と案内した役場の人が首を傾げた。刺し芽するのに半信半疑だったのがいけなかったのか、柳は瘤どころか根もつかなかった。

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