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大友宗麟略歴

享禄3年 1530 大友義鎮(宗麟)は、大友義鑑の嫡子として誕生
天文19年 1550 「二階崩れの変」の混乱に乗じて、21歳で大友家の当主になる
弘治2年 1556 大友義鎮(宗麟)、秋月を討ち、高橋鑑種を筑前岩屋城に置く
大友、門司城を攻略
永禄2年 1559 宗麟、豊前・筑前の守護、九州探題となる。
永禄5年 1562 豊前松山城を攻略
大友軍、宇佐宮を焼き討ち
永禄9年 1566 高橋鑑種、大友に反する。この後、大友と毛利の鬩ぎあい激化
元亀元年 1570 北部九州6カ国を支配する大大名に。戸次鑑連(立花道雪)を立花城督とする
天正2年 1574 毛利元就死去。宗麟、九州6国の大名となる
天正6年 1578 キリシタンに帰依し、洗礼名をドン・フランシスコとする。
4万6000の大軍を率いて日向に侵攻。島津と決戦に及んだが、耳川の合戦で壊滅的な大敗を喫した。
天正9年 1581 大友、彦山を焼き討ち
天正12年 1584 大友家臣の立花道雪・高橋紹運(鎮種)、筑後へ出陣
天正14年 1586 島津氏、筑後・筑前に侵入、諸城を落とす。岩屋城の高橋紹運戦死
天正15年 1587 宗麟死去。享年58歳。墓所は、大分県津久見市に。
羽柴秀吉、島津から岩屋城を奪還
秀吉、博多に戻り国割り。豊前2郡を毛利勝信、6郡を黒田孝高に与える
天正18年 1590 秀吉の天下統一なる

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