伝説紀行 尼の長者  うきは市(浮羽町)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第241話 2006年01月22日版
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

尼の長者と一朝堀

福岡県うきは市(浮羽町)


かつては役立たずの台地だったが・・・

 日本有数の穀倉地帯である筑紫平野の全域は、筑後川が運んできた土砂が積もってできたもの(沖積平野)。気が遠くなるほどの歳月をかけて造り上げられた平野の最東端は、福岡県浮羽町(現うきは市)山北地区あたりにあたる。「道の駅うきは」の裏手から見下ろすと、平野の生い立ちがはっきり見て取れる。
 道の駅から2キロ北側を流れる筑後川までのまっ平らな田園地帯は、大むかしには何一つ農作物が期待できない荒地であった(第13話大野原の女狐 第100話大庄屋の夢参照)。目の前の水量豊かな大川の水さえ汲み上げれれば…、農民のため息が聞こえてくるような、そんな時代のお話しである。

栄耀栄華の長者にも悩み事が

 時は江戸時代よりずっと以前の頃である。男子島(現うきは市)に、周辺の山と田んぼと漁業権を独占する男がいた。人呼んで「尼の長者」は栄耀栄華の生活を送っている。
 だが、そんな彼の唯一悩みの種といえば、跡継ぎに恵まれないことであった。庭先に建てたお堂の中の観音さまにお願いしているのだが、いっこうに聞き入れてくれない。それどころか、夢枕にお立ちになる観音さまは、彼の素行に注文まで出される。
「人々が汗水たらしてもたらした富を、粗末にするとは何ごとぞ」
「とんと思い当たりませんが…」
「言い訳をするでない。仏は、そなたの行いはもちろん、考えていることまでお見通しである。先日、肥前の長者が視察に来たとき、そなたはどのような罪を犯したか、申してみよ」
「ははあ」

仏が「民のためになることをせよ」と

 観音さまが指摘なさる肥前の長者の来訪の一件とは・・・
 尼の長者の富がどれほどのものか、川下の肥前の長者が視察にやってきた。それもただの視察では「肥前の長者」の名がすたるということで、三春の港から長者屋敷まで、千両箱を敷き詰めて飛び石代わりにしたのである。その間、なんと3里以上。 応対する尼の長者も負けてはいない。池の水を酒に入れ替え、その「水上」に純金で設(しつら)えた舟を浮かべて出迎えた。肥前の長者もこれには度肝を抜かれて、挨拶もそこぞこに退散したというわけ。
「あれは、長者としての面子を保つためにやむをえない措置だったのでございます」
 長者はひたすら言い訳をした。それが聞こえているのか聞こえないのか、観音さまは横を向いたまま何ごとか呟いていらっしゃる。そして一言。
「そんなに跡継ぎが欲しければ、まず将来にわたって百姓が喜ぶことをしなされ。それも、ゆっくりと計画を立ててな」

役立たずの台地を水田に変えられないか

 将来にわたって百姓が喜ぶこととはどんなことなのか。長者は、大野原の原野を歩きながら千歳川(筑後川)に出た。そこで踵(きびす)を返して今来た原野を眺めてみる。見渡すかぎりの乾いた土と、糞の役にもたたない小松や雑竹ばかりが目に入る。この土地を米の取れる田んぼに変えられないものか。観音さまは「ゆっくりと計画を立てて」とおっしゃるが、そんな悠長なことは言っておれない。今すぐに我が子が欲しいのだ。
 長者は使用人を呼び集めて、川から原野一帯への水路を作れと命じた。それも、一晩で完成させよと。
「長者さま、川は高きから低きへ流れるもの。千歳川の水面はこの大地のはるか下を流れております」
 使用人の反論を聞くような長者ではない。


写真は、夜明ダムから大野原台地へ袋野水道

「水路さえできれば、あとはお前たちが水を汲んで流せばいいではないか!」
 従わない者は直ちに打ち首とまで言い放った。

でも、…短気が災いして

 突貫工事が開始されたが、水路はなかなか伸びない。そのうちに工事現場から1人、2人と人夫が姿を消していった。気がつけば、作業する人夫は幾人も残っていない。これでは、水路を作ることは不可能である。
「やめた!もう跡継ぎなんかいらねえ」
 尼の長者は、号令を発して工事を中止してしまった。その残骸が戦前まで男子島に残っていた「一朝堀」と言われる堀の跡であるとか。そのスケールたるや、実に幅12間(21.6b)、長さ150間(270b)、深さ15間(27b)という途方もないものだったそうな。濠を掘ってできた土砂が積み上げられた場所は、現在も僅かに地名が残る「古賀の土手」という話。
 長者が観音さまの「ゆっくり計画を立てて…」の言いつけも無視したお陰で、江戸時代までずっと雑竹松だけの役立たずの台地のままだった。(完)

 町村合併後の「うきは市浮羽庁舎」を訪ねた。一朝堀や古賀の土手の所在を教えてもらうためである。応対してくれた若い職員は、現存する地名はわかってもそれ以上のことは見当もつかないと答えた。奥にいた課長風の人が出てきて、「その後の農地整理などで、そんなものはとっくに消えてなくなりました」とそっけない。
 教えてもらった男子島に出向いたが、一面水田で、どこからどこまでが男子島なのやら女子島なのやら区別もつかない。改めて、袋野用水ができる前の山北地区や三春地区を想像してみる。大自然が造り出した台地は、遥か筑後川を越えて筑紫山地まで、文字通りの平地である。尼の長者や大庄屋でなくても、誰だってこの土地で米を作りたいと思うだろう。
 ここを出発点として、筑後川下流の福岡県南部と佐賀県東部に広がる大穀倉地帯(筑紫平野)の歴史も、僅か三百数十年しか経っていないのである。

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