大庄屋の夢 袋野用水建設秘話
福岡県浮羽町
古図にみる袋野用水
今回の伝説紀行は、記念すべき100作目ということで、いつも以上に熱がこもった。
トンネルを2キロ掘って
筑後川には、大穀倉地帯に水を引くための大きな堰が4つある。すべてが石を積みあげて造っただけの、所謂「洗い堰」である。今回紹介するのは、その最も上流に位置する「袋野用水」。
このあたり、夜明ダムができるまでは大変な急流で、筑後川最大の難所と言われた。「難所だから適所」だと考えたのが、吉井町に住む大庄屋の田代弥三左衛門重栄とその息子の重仍である。
写真は、筑後川からの取水口(現夜明ダム)
川底の水を台地へ
ときは今から330年前の寛文13(1673)年。
「堰のあるところは、もともと三春や大石の土地だ。それなのに、あそこにできた堰で恩恵を受けているのは、みんな下流の奴ばっかりじゃねえか。こちとらは、役立たずの台地ばかりで困っているというのに」
ブツブツ言っているのは、先にできた大石堰近くの三春村に住む百姓たちである。
「そげんたい。あげな堰がこっちにもできりゃ、稲の花が咲くってもんだが・・・」
相槌を打つのは、隣村でやはり細々と百姓をしている利助。そんな話が伝わってか、大庄屋の田代重栄が見回りにやってきた。なるほど、これじゃ稲はおろか野菜も何も育つまい。あちこちに雑竹や役立たずの小松が点在するだけだ。掬い上げた土はすぐ指間からこぼれ落ちるほどに乾ききっている。
「あの水さえ上げられれば・・・」と利助が眼下を流れる筑後川の水面を眺めて呟く。重栄は彼らに案内させて筑後川の水辺に降りたった。
「これじゃ無理だ。大川(筑後川)の水面から台地まで100尺(30b)はあるばい。人力でも水車でも無理だ」
「それはわかっとります。じゃけん、大石・長野のごつ上流に堰ば造ればよかじゃなかですか、大庄屋さん」
「馬鹿言え、ここから2里上流がどんなところか、お前たちが知らんわけはなかろう」(写真は、現在の袋野地区)
「・・・・・・」
仲蔵も利助もそれはわかっている。そこは獺の瀬(うそのせ)といって名うての急流であり、両岸には高い山が迫っていて、どうしら三春まで水を引けるのか。
「それだけじゃなか。対岸は豊後たい。同じ久留米藩なら役人を介して何とか解決の道も開けようが、天領の代官さまでは話しをするのも難しか」
理屈では納得した二人だが、黙って「はい、そうですか」と引き下がるわけにもいかなかった。
途方もない工事計画
大庄屋は、農民の苦しみを解消する術を、息子の又左衛門に相談した。そこで親子して取水口の候補に上げたのが、最も困難な激しい獺の瀬あたりだった。現在の夜明ダムのあたりである。父子は、1日かけて川辺を上ったり下ったり。川岸の山の形、岩盤なども念入りに調べた。最後には船頭に舟を出させて、水面から岸辺も観察した。
水量は申し分ない。見上げる山のどてっ腹に大きな穴をあけて、トンネルを掘ったとして三春の台地までおおよそ半里(2`)。未だ測量技術や掘削機械などおぼつかない時代であった。暗闇のトンネルを最短距離で掘り進むにはどうすればよいのか。
「親父さん、ここは大石や長野の時と同じごと、久留米のお役人の力を借りましょう。第一、それだけの大工事を何日かけていくらの費用でやり遂げるのか、はたまた、実際働く人夫をどうして調達するのか、私ら素人がいくら考えても先には進みまっせん」
写真:夜明ダム、すぐ手前に取水口がある
さすが大庄屋の跡取りである。父親への進言も理路整然としている。こうして重栄が久留米藩に願い出た計画とは、「地下を迂回して巌層を貫鑿し、隧道七千余尺(約2300b)を溝となして水を通す」というもの。つまり、川沿いの岩山を1600bくり貫いて、地蔵岩と称する地点までトンネル化し、その先は普通の溝で水田まで水を引こうという計画であった。
切り札登場
重栄父子は土地の庄屋たちを引き連れて久留米のお城に上がった。応対したのは普請奉行の丹羽頼母。お話に登場した「大石・長野堰と用水造り」を指揮した大物奉行である。
だが大石・長野堰のときと違い、今回は未だ経験したことのないトンネルの工事である。また、堰を予定する獺の瀬は人も怖れる急流であり、初めから難工事が予想された。
「藩としても新田を増やすことに異論はない。むしろ推進する立場だ。だが、筑後川でも最大の難所にそんな用水道を築くことが可能なのか。できるとして費用はどれほど必要か。もう一度綿密な計画を作り直せ」
写真は、大庄屋父子を祭る田栄神社
いかに普請奉行といえども、そうやすやすと大庄屋の陳情を了承するわけにはいかなかった。大庄屋父子と数人の庄屋、それに頭の良い農民が、実地検証と机上の実験を繰り返した末に、新たな計画書を提出した。
「それなりに考えたようだな。書面の上での計画はだいたいこれでよし・・・と」
「まだ、何か足りんとですか?」
「これだけの計画で用水道ができると思うか、この馬鹿もん」
田代重栄のはげ頭に雷が落ちた。
「金はどうするのじゃ?」
もともと、大庄屋や農民にそんな大金を用意できるわけがない。当然久留米藩の財政をあてにしていた。
「藩の財政も苦しい。よいか、用水が完成すれば、いままで無だったところに相当の米が採れるようになる。得をするのは農民とか庄屋じゃないか。藩として金は出せぬが貸すことはできる。それでよいな」
「もちろんです」
後には引けない大庄屋父子は即座に藩からの借金を願い出た。これで万事うまくいくと思って立ち上がろうとすると、
「待て、おまえらの浅はかな頭では先が思いやられるわ。川岸の山のどてっ腹に穴をあけたりトンネルを掘るのは誰じゃ? トンネルの壁を掘る道具は? 真っ暗闇を照らす灯りはどうする?」
丹羽頼母の詰問に、一同しょげ返ってしまった。
粗末な鶴嘴(つるはし)と灯火
いよいよトンネル掘りが始まった。まず出口の三春側から掘り始めて、次第に獺の瀬の川底に向かっていく。山陰地方の鉱山から雇われてきた鉱夫たちは、与えられた鶴嘴を片手に、コツコツと山の壁に向かった。鶴嘴といっても現在道路工事などで使うような立派なものじゃない。長さが7〜80センチほどの金属製の棒きれのようなもの。サザエの殻に菜種油を注いだ灯火を頼りに先に進む作業なのだ。わずか数10センチしか届かない光だけが命綱であった。
比較的柔らかい岩盤のせいで、作業は予想以上に早く奥地に入っていった。竪穴を掘って地上から横穴の到着を待つ侍が、堪えきれずに入り口から中に入ると、鉱夫はまったく違った方向を向いていた。そこで何10bもあと戻りして、いちからやり直しである。そんなこんなで3ヶ月が経過して、横穴は獺の瀬の川岸直前に到着した。写真:江戸時代の鉱夫
「そこの壁をぶち抜けば、水はトンネルを通って三春台地に流れ込む・・・はず」と計算した重栄父子は、鉱夫や農民を避難させた上、丹羽頼母の配下の侍の次なる指図を待った。
水が流れない!
山の急斜面に外側から二間四方の大穴があけられた。だが、トンネルに向かって吸い込まれるはずの川の水が、素通りしてしまい、工事は失敗に終わった。がっくり膝を折る重仍の肩を父親の重栄が激しく叩いた。
「親父さま、これ以上工事を続けろと言われるのですか? ご奉行からお借りした資金は使い果たしましたのに、これから、鉱夫たちへの工賃をどのようにしますので?」
息子は今にも泣き出しそうな顔をしている。
「考えが浅かったのじゃ、俺たちは。この急流では、川岸に穴をあけただけでは流れが振り向いてくれるわけがなか」写真:袋野水道の出口「それじゃあ、どげんすればよかですか?」
「取水口に堰を築くのさ。流れを止めれば、行き場を無くした水はトンネルに向かうしかなか・・・はず」
「工事費の工面は?」
「家屋敷、それに田代家の財産を全部担保にして金を借りろ」
そこまで言われては、重仍も従うしかなかった。それではこの激しい流れに誰が杭を打つか、せき止めるための木材や岩石はどのように手当てをするか。
「そのために、これまで豊後の庄屋たちと付き合ってきたとじゃなかか」
杭を打つもの
金と材料の手当てはできた。だが、急流に飛び込んで杭を打ち込む勇気のあるものは、農民の中に一人もいなかった。
「わしがやる」
言い終わったとき、重仍は既に裸になって、命綱を胴体に巻きつけていた。流れが早いだけではない、水量も多くて、杭を打ち込む作業は思うようにいかない。見かねた仲蔵が飛び込んだ。続いて利助も。そうなると、農民たちは遅れをとるまいと次々に流れに身を投げていった。
こうして袋野の堰は何とか形をなし、今度は水がトンネルの中に猛烈な猛飛沫(しぶき)を上げて走りこんでいった。
水は順調に2`のトンネルを通過し、その先6`の水路を経て、下流の台地へと流れていった。
大庄屋田代父子の献身により出来上がった袋野用水は、完成後藩と農民に膨大な利益をもたらした。つまり、現在の浮羽町山北・三春・高見地区の大部分と古川町の一部、約465町歩を灌漑し、これにより新田開発が77町歩、古田の内136町歩に水が供給されたのである。
農民たちは、私財のすべてを投げ出して用水路を完成させた大庄屋親子の恩を忘れまいと、大明神として祀ることにした。獺の瀬を見下ろす岸壁に建つ「田栄神社」がそれである。その時築いたトンネルと用水路はいまだ現役として周辺の水田に貢献し続けている。(完)
数年前だったか、たまたま袋野用水道から水が抜かれることを高木助役さんから聞いて、懐中電灯と長靴を頼りにトンネルの中に入った。中は完璧な暗闇であった。川底に貯まったヘドロが長靴にまつわりついて先に進めない。懐中電灯を天井に向けた。そこには300年前に山陰の鉱山から連れてこられた鉱夫たちが、命がけで岩を砕いた鶴嘴(つるはし)の跡が生々しく残っていた。少し進むと、道が二又に分かれていて、一方の行く先はすぐ行き止まりだった。勘だけを頼りの工事で、進行を間違えた区間に出くわしたことが容易に理解できた。
大庄屋田代本家(2016年9月10日)
約500bの暗闇を探索した。外の明るさがこれほどまでかと驚く。300年前の河川と土木工事の典型を肌身で知ることができた。それにしても、これほどの大工事をたったの90日間で仕上げた昔の人は偉かったと考えるべきか、はたまた鉱夫や役夫の犠牲の上に成り立ったものなのか、判断が難しい。ただ言えることは、当時は必要があって工事を計画し、「実行は速やかに」なされたということだろう。大庄屋田代弥三左衛門重栄を祀った「田栄神社」には、今も当時使われた粗末な鶴嘴が錆ついたまま保存されていると聞いた。
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