伝説紀行 八千代姫の復讐  神埼市(神埼町)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第213話 2005年06月19日版
再編:2017.11.26
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

八千代姫の復讐

佐賀県神埼市(神埼町)

【関連資料】
北部九州の戦国史  少弐氏の略歴

勢福寺城址(城山)

 来年(2006年)3月には、佐賀県神埼町と千代田町、それに脊振村の三か町村が合併して新しく神埼市が誕生する。神埼町と脊振村の大半は山岳地帯にあり、千代田町は佐賀の沖積平野に位置する。三つの村と町を城原川(じょうばるがわ)が結んでくれる。そんな美しい自然の中に貴重な文化遺産が数多く残されていた。
 言うまでもなくその第一は、全国的にも有名な「吉野ヶ里遺跡」である。その次が、城原川を挟んで東畔に建つ仁比山神社。このお宮、天平時代から祀られているという。紅葉の季節に必ず話題になる「九年庵」は、この神社の一角に佇む。また川を挟んで西畔には、戦国時代の名残りを残す山城跡がある。標高196メートルの「勢福寺城址」がそれ。
 近くの真正寺にはかつて「八千代桜」なる曰くありげな樹木があったと聞いて出かけることにした。

神埼は戦略の要

 世は、織田信長が今川義元を倒して天下をとる直前のこと。国盗り合戦真っ只中の時代であった。


城原川

 「八千代桜」の八千代とは、勢福寺城の主・少弐冬尚に仕える家老の娘八千代姫にちなんだもの。八千代姫は番茶も出頃の18歳で器量がよく、近郷近在の男どもの憧れの的だった。だが、姫には親も認めた片桐三太夫という許婚(いいなずけ)がいて、そんな申し出など眼中にない。
 そんなとき、少弐冬尚にも周辺戦国大名の毒牙が迫っていた。九州制覇を目論む豊後の大友宗麟や佐嘉の龍造寺隆信などで、戦略的拠点の神埼郡を押さえんと虎視眈々。鎌倉時代以来北部九州の一方の雄だった少弐氏にも、今では彼らと張り合う力はない。
 八千代姫にとって、事の成り行きによっては好きなお方との結婚など泡と消えかねない情勢であった。
少弐氏の略歴については、関連資料で詳細

横恋慕の策略

 八千代姫の美貌に惹かれて、力づくで我がものにせんとする男が城内にいた。名前を中島源太郎といい、殿さまお側つきの侍である。中島は、殿の覚えがよいことをいいことに、八千代姫の父親である家老に娘をくれるよう迫った。断られると今度は、許婚の三太夫殺害の非常手段を企んだ。
 佐嘉の龍造寺が神埼を攻めてくるという情報が伝えられると、
中島源太郎は小城の晴気城に援護を頼むよう殿に進言した。晴気城への遣いには、これまた中島の進言で片桐三太夫が命じられた。
 そんなこととは露知らず、お城の重大事を救う役目に男気を感じた三太夫は、八千代姫との別れもそこぞこに小城に向かって峠を越えていった。そこに中島の放った殺し屋が待っていて、片桐三太夫は敢え無い最期を遂げたのである。

敵討ちの願掛け

 愛しき人をなくした八千代姫は、殺めた者への復讐を誓った。だが、犯人が何処の誰かさえわからない。そこで姫は、近くの山王さん(仁比神社)に無事敵討ちができますようにと祈願した。朝晩のお参りが百日を越えた夜、八千代姫の前に白装束の童が立った。童は、「我は山王の神の遣いである」と告げ、「間もなく行われる城原川河畔での軍事訓練を指揮する栗毛に跨った赤軍の大将を討て」と言い残して消えた。
 夢は現実となり、城原川を挟んでの赤白に別れた訓練が始まった。加勢を申し出た家人5人とともに男装して赤軍に紛れている八千代姫は、鎧兜に身を固めて栗毛に跨った中島源太郎を討ち果たした。


城原川(佐賀県神埼町)


 晴れて許婚の敵をとった姫は、故人の供養をを生涯の勤めと心に決めて、髪を落とし尼寺を結んだ。その庵が、現在県道(川久保線)が城原川を跨ぐあたりに建つ真正寺の前身だといわれる。八千代姫は、片桐三太夫殿の思い出にと、庵の庭に桜の苗木を手植えした。かつて真正寺の庭を彩っていた「八千代桜」のことだが、それらしい古木を見つけることはできなかった。また八千代姫は、山王(仁比)神社にも感謝の念を込めて松を植えたという。境内に残る「操の松」なのだが、お尋ねする方が見当たらなくてわからずじまいになった。写真は、真正寺

やがて、全国統一の時代へ

 八千代姫が恋人の敵討ちを果たしてから間もなく、永禄2(1559)年。佐嘉の龍造寺隆信は東肥前の要衝である勢福寺城を攻めた。追い詰められた少弐冬尚は、駆け登ってくる敵兵と自軍の勢いの差を城山の頂上から確かめて自害した。鎌倉以来続いた名門少弐家は、このとき滅亡したのである。
 そして翌年、桶狭間の戦いで織田信長が今川を倒して天下をとり、戦国時代に一応の終止符がうたれることになった。

 八千代姫の足跡をたどってまず仁比山神社を訪れた。さすが千年を超すお宮だけあって、境内の樹木は貫禄たっぷりである。階段を登っていてチョロチョロ聞こえる水音に耳を澄ますと、「愛するお方の敵を討たせ給え」と願をかける八千代姫の差し迫った声が、苔むした岩の間から聞こえるような錯覚に陥る。


仁比山神社


 少弐冬尚の勢福寺山跡(城山)は、城原川と佐賀平野を見渡せるところにある。山というより物見の高台と言うほうが適切なくらいに低い。豊後の大友や佐嘉の龍造寺が、そして筑後の江上や背振の山中を縦横無尽に走ったという武将・神代勝利(くましろかつとし)が、国を盗るため・手柄を得るために、わずか200メートルたらずの山城を奪い合ったのだろうか。
 八千代姫が髪を下ろして庵を結んだという真正寺は、背振山中から流れてきた城原川に、勢福寺山(城山)あたりに端を発する菅生川が合流する場所に建っていた。本堂の落ち着きと、梵鐘台が印象的な寺である。
 背振の源流から千代田町の筑後川河口まで、城原川はどこを切り取っても絶景の連続である。そこに無粋な政治家や役人、それに何人かの欲の皮の突っ張った連中が、またぞろダムを造るというからたまらない。
やめとけ!

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