浮き沈みの少弐氏年譜

中世において、北九州の豪族。
元北家藤原氏の出で、藤原秀郷の後裔と称す。
鎌倉幕府の御家人。
太宰少弐、鎮西奉行となり少弐氏を名乗った。
元寇の際、経資・景資兄弟が奮戦。
南北朝時代には、頼尚らがときに応じて南・北朝に属したが、室町時代に衰え、1559年、龍造寺氏に滅ぼされた。

資料:数研出版刊「日本史辞典
西暦 年号 ことがら備考
1190 建久01 武藤資頼、筑前・豊前・肥前の守護となる。
1221 承久03 承久の乱、源氏正統断絶。北条義時追討の宣旨、大宰府に来る。
1226 嘉禄02 武藤資頼、太宰少弐となる。
1272 文永09 幕府、鎮西御家人に筑前・肥前の要害を守護させる。
1274 文永11 元軍、博多湾に上陸(文永の役)。少弐経資、諸士を率いて奮戦。元軍退却。
1275 建治01 少弐経資、九州御家人の蒙古警護番役の結番を定める。
1281 弘安04 元・高麗の軍船、志賀島・能古島に来襲。大暴風雨で元船沈没(弘安の役)。
1285 弘安08 少弐景資、兄経資と争い、岩門城で敗れる。
1286 弘安09 少弐経資、鎮西談議所奉行となる。
1290 正応03 少弐経資、幕府の命により雷山千如寺を造営。
経資の子但馬権守資法が少弐家の祖といわれる。
1304 嘉元02 少弐盛経、筑前国御家人に警固番役勤仕を命じる。
1316 正和05 少弐貞経、筑前国地頭に命じて、博多前浜石築地を修固させる。
1331 元弘01 正中の変。幕府、光厳天皇をたてる。
1333 元弘03 少弐貞経、鎮西探題北条英時を攻めて敗死させる。
1334 建武01 少弐頼尚、北条氏の党規矩高政らを攻め、平定。
1336 延元01 太宰府内山城の少弐貞経、菊池武敏に攻められ陥落。
足利尊氏、この日芦屋に着き、多々良川で菊池と戦い破って東上。
後醍醐天皇、吉野潜幸。南北朝時代へ。
1349 興国04 足利直冬、九州に下る。少弐頼尚らこれに従う。
1352 観応07 足利直冬、鎮西探題の地位を剥奪され長門に移る。
1353 文和08 少弐頼尚、宮方の菊池武光と連合して針摺峠で一色範氏を破る。
1359 文和14 少弐頼尚、筑後大保原で懐良親王・菊池武光と戦う。
1362 康安17 少弐冬資、筑前長者原で菊池武光・斯波氏経に敗れる。
1371 建徳02 今川了俊、九州探題として赴任。
1375 天授01 少弐冬資、今川了俊に肥後水島で誘殺される。
1392 明徳03 南北朝の合一。
1395 応永02 今川了俊、京都に召還される。
1397 応永04 少弐貞頼、探題渋川満頼・菊池武朝と戦う。
大内義弘・大友連合、少弐を破り大宰府を占領。
1399 応永06 応永の乱。幕府軍、堺城を陥落。大内義弘戦死。
1400 応永07 少弐貞頼が筑紫次郎に宛てた充行状が、「少弐」の名が出る初め。
1404 応永11 少弐貞頼、大内盛見と戦って討死。 
貞頼のあとを継いだ満貞、朝鮮貿易行い富を蓄える。
1419 応永26 応永の外冦。対馬来寇の朝鮮人を九州探題ら撃退。
1423 応永30 大内持世、朝鮮貿易で富裕になる少弐氏を警戒して攻める。
1424 応永31 少弐満貞、使者を朝鮮に派遣。
1431 永享03 少弐満貞、筑前萩原において大内盛見と戦って敗死させる。
大内持世、少弐満貞・資嗣父子を討ち取り、北九州を支配下におく。
少弐嘉頼・教頼ら、満貞の戦死で、対馬の宗氏を頼って筑前から逃れる。
1433 永享05 少弐、大内と戦う。少弐小法師戦死。
1435 永享07 少弐嘉頼、大内持世に敗れる。
1445 文安02 少弐教頼、筑前守護に還補。太宰府に復帰
1449 宝徳01 少弐教頼、大内教弘の攻撃を受けて太宰府に逃げる。
1453 享徳02 少弐教頼、朝鮮に使を派遣。
1467 応仁01 応仁の乱勃発。
少弐教頼、東軍に応じ、筑前に攻め入る。西軍の大内勢が迎撃、少弐教頼戦死。
1469 文明01 少弐(筑紫能登守)、筑前三笠郡に攻め入り大内軍と戦う。
少弐教頼の子政資、筑前回復に成功。
1471 文明03 大内・大友軍、陶弘護に破れ戦死。少弐・大友両氏、博多を分領する。
1473 文明05 少弐政資ら、朝鮮に使を出す。
1478 文明10 大内政弘、豊前に入り少弐政資と戦い、豊前・筑前を平定する。
さらに肥前東部にまで勢力を延ばす。
少弐政資、龍造寺氏の支援を受ける。
勢力を回復した政資、綾部城の九州探題渋川万寿丸を攻めてこれを追放した。
1492 明応01 少弐政資・高経、箱崎で大内方陶興房と戦う。筥崎宮焼亡。
1497 明応06 政資・高経父子、大内の少弐攻めで太宰府を失う。
岩門城・小城城・勢福寺城も失い、多久で討ち取られる。
1501 文亀01 少弐・大友軍、豊前馬ヶ岳城での大内義興との戦いに敗れる。
1530 享禄03 大内義隆、少弐資元・冬尚父子の討伐を筑前守護代の杉興運に命じる。
東肥前の三郡は大内軍に制圧される。
少弐氏、龍造寺氏らを動員し、神埼郡の田手畷で激突。大内方の敗北。
1533 天文02 少弐資元、大内軍の陶興房と筑前で戦う。
大内義隆、陶尾張守を大将として北九州に兵を進める。
戦いはふたたび少弐方の勝利となった。
1535 天文04 少弐資元・冬尚父子、大内義隆に肥前に追われる。
1536 天文05 大内義隆、太宰大弐に任じられる。
1537 天文19 大友義鑑が死去で大友義鎮(宗麟)が継ぎ、義鎮の弟義長が大内氏の跡継ぎに。
1551 天文20 陶晴賢、大内義隆を殺害。
1555 弘治01 毛利元就、陶晴賢を厳島で討つ。
1559 永禄02 少弐冬尚、龍造寺に追いめられ、肥前勢福寺城で自害。
少弐氏を支援する大友氏の思惑が崩れる。
1560 永禄03 桶狭間の戦い。織田信長、今川義元を破る。
1578 天正06 龍造寺隆信、筑前に侵入。
赤字は全国史
資料:山川出版社刊「福岡県の歴史
 第一学習社刊「日本史図表」ほか

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