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第三中間期 テーベ大司祭国家

ピネジェム1世

Pinedjem I

在位年代;?
誕生名;ピネジェム・メリィアメン
(喜ばしきもの・アメン神に愛されしもの)
即位名;ケペルカラー・セテプエンアメン
(太陽神ラーの魂の出現・アメン神に選ばれしもの)
治世;


王朝の首都;テーベ 
埋葬地;テーベ対岸 王家の谷 
出身地;おそらくテーベ

家族構成;父・ピアンク 妻・ヘヌトタウィ 、イセトエムケブ 息子・マァサヘルティ、ジェドコンスイウフアンク(?)、メンケペルウラー

第20王朝の最後の王、ラメセス11世の娘ヘヌトタウィを妻とし、王族との婚姻関係をもって正当な王を主張するようになっている。その意味では第19王朝の後継でもあるのだが、ナイル下流域は第21王朝(タニスを首都とする国家)として分離独立しているため、上エジプトのみの支配にとどまっている。
両者の関係は険悪ではなく、むしろ友好的であったといわれる。ピネジェム1世およびその息子のメンケペルラーの時代に、中部エジプトのアル・ヒバに前線基地が築かれており、ここがテーベを首都とする国家の北限だったと思われる。

ファラオとして即位したのち、大神官の職は息子のマァサヘルティ(マサハルタ)が継いで5年程度勤め、そののち弟のジェドコンスイウフアンクがごく短期間(おそらく1年程度)引き継いでいる。この二人の在位期間はおそらくピネジェム1世と被っている。二人に続いて王を名乗るのが末息子のメンケペルウラー。

ピネジェム1世のミイラは1881年にテーベ西岸の墓TT320で発見され、カイロ考古学博物館に収容されたが、その後、博物館内で(!)行方不明となっている。


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