No. 18 比観亭跡から見た阿字ヶ浦海岸

ひかんていあとからみたあじがうらかいがん

一言メモ 江戸時代の東屋跡と代表的海水浴場
市 町 村 ひたちなか市
東  経 140.37.26.1
北  緯

36.22.47.3


 詳しい地図↓

比観亭跡
阿字ヶ浦海岸

最終更新日:2003.5.31.

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比観亭から見た阿字ヶ浦 2001


比観亭から見た阿字ヶ浦 1997


比観亭跡


酒列神社の鳥居


阿字ヶ浦海岸 1998 summer


阿字ヶ浦海岸 2002 3月
(浸食が進んでいる)

【ここの概要(歴史、自然など)】

 比観亭跡は、非常に狭い!なので、駐車場もない。しかし、看板はでているので、注意していれば、見逃すことはないでしょう。
 ここからみる阿字ヶ浦海岸は、写真を見ての通り、木々や草木に遮られて、あんまりいい景観とは言い難いものがある。昔は、草木を伐採でもしていたのだろうか?柵を越えてぎりぎりまで行けばもっと景色はよいのだろうが、命が惜しいのでやめておいた。
 阿字ヶ浦海岸は、夏はもちろん海水浴客でにぎわっていたのだが、ここの波は高いので、四季を通じてサーファーがサーフィンをしていたりする。冬には決行波の高いときがあって、見物しているだけでも大丈夫かいなと思ったりすることがある。
 阿字ヶ浦の海水浴場周辺は、近年砂浜の浸食が激しいため、砂浜流出を防止する工事や防壁の復旧工事などを実施している。一方で、北関東自動車道が笠間から、海岸のすぐ北の海浜公園or常陸那珂港まで延び、これまで入れなかった砂浜の近くにも行けるようになったため、流出していない海岸近くの道路は車でいっぱいになる。こちらでは相変わらずサーファーなどが多く訪れているようだ。

【行ってみた感想】 2003.3

 ひたちなか海浜公園から、ここを通過し、大洗まで、海岸沿いの道が続く。なかなか良い道と評されているようで、以前、バイクのツーリング雑誌も特集記事を組んでいた。そういう理由で、比較的頻繁にここをとおったりする。ここを訪れるためというわけではないが、阿字ヶ浦の状況は結構気になっている。
 海岸流出が激しいのだ。
 この海岸流出については少し異論がある。ひたちなか市の地元の人と話すことがあったのだが、実は、戦後すぐくらいは今の流出した状況と同じ状況だったというのだ。年ごとに流出し、成長しを繰り返し、先年までの状況になったのであるから、今の状況は昔に戻っただけなのだと。また、もともと茨城県の海岸全体は長年浸食され続けてきており、外の地域では長い間浸食防止に苦慮したり、あきらめたりしていたが、たまたま阿字ヶ浦海岸は影響が小さかっただけで、それがいっきに来ただけだという意見もある。別の話だと、太平洋(外洋)の海流の流れが近年大幅に変化してしまったのが原因ではないかという人もいる(地球温暖化!)。
 実際、大洗海岸でも海岸流出は見られるし、鵜の岬では岸壁も削られていて散歩道がなくなっているところもある。二ツ島でも島の浸食は問題になっていると聞くし、百選ではないが、鹿島の波崎海岸でも同じような問題があるように見える。
 理由はどうあれ、海岸の浸食は進んでいるし、その変化は激しい。地元の人が言うように放っておけば回復する可能性もゼロではないが、だからといって放っておくのは楽観的に過ぎるかも。しばらくは様子を見続けることにする。

【看板説明文】

● 比観亭跡
  那珂湊市指定史跡
  昭和四十三年一月十六日指定
  那珂湊市磯崎町四六〇七−二
 寛政二(一七九〇)年一一月二〇日、水戸藩第六代藩主徳川治保(文公)は、酒列磯前神社神主磯前山城の屋敷を訪れた際、山城の屋敷の東方の見晴らしの良い小高い場所にお登りになり、ここから見た大海原と白砂青松の海辺の景色にとても感動した。そこで治保公はこの地に日除けをお建てになることを思い立ち、自ら小づかを抜き、九尺四方に土地をお決めになった。
 寛政三(一七九一)年、日除けのあづまやが建てられ、「比観亭」と名付けられた。比観亭に上げられていた扁額は、彰考館総裁立原翠軒が筆を取り、これを桜の板に彫刻したものである。
 治保公はさらに、長久保赤水に比観亭の「記」を作るように命じたが、赤水は「記」と「碑」を聞き間違えて「碑文」と作ってしまったと伝えられている。
 現在、扁額は酒列磯前神社に、碑文は水戸の彰考館と酒列磯前神社に保管されている。

【備考】

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