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時の話題
2004-6
2004-07-12
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今月の目次
◇印は《日々雑感》より転載
ネットスキルとライブな生き方(04/6/22〜27) ◇子どもたちに伝えたい事(04/6/12〜30) ◇女子3000M再レースの感動(04/6/6) ◇佐世保小学生死傷事件に思う(04/6/1〜14)


【女子3000M再レースの感動】vol.202《日々雑感より》
◆前代未聞かつ感動的なレースが、陸上競技のインターハイ奈良県予選で展開された。女子3000M決勝再レースである。それは間の悪い突風が原因だった。本来の決勝でのこと。遅れだした6番手の選手を徐々に追い上げる選手がいた。追われるのは、kurochanもかつて勤務し顧問の一人を務めた、名門県立添上[そえかみ]高校の選手。追うのはこれまた健闘著しい強豪県立広陵高校の選手。最後の直線、懸命に追い上げようとする広陵高校の選手の前にフィールドから突風にあおられて競技用パラソルが飛んできたのだ。広陵高校の選手は咄嗟に腕でさえぎったが、ラストスパートの失速は免れず、そのまま7着でゴールイン。しかし着順が問題になる。近畿予選大会進出は6位まで。そこにはきわめて大きな落差がある。審判長や顧問等による協議の結果、恒例の最終レースであるマイルリレーのあとに、2人だけの3000M再レースが行なわれることになったのだ。レースが始まるまでは、おそらく誰も、こんなに感動することになるとは思わなかっただろう。近畿大会進出をかけた再レースは、序盤の激しい競り合いから、やがて広陵高校の選手が遅れだしたことで、早くもゴール待ちかと一時は思われた。しかし差は再び縮まり、激しい競り合いが展開されるのだ。普通はマイルリレーの盛り上がりで大会の幕は閉じられるのだが、この再レースのデッドヒートはまた違った感動の渦を引き起こした。双方の高校の生徒たちは当然懸命に応援するのだが、この二人の競り合いは、近畿大会進出はどちらかということ以上に、それがどちらであっても、それをめざして懸命に走り続けているという二人の姿が、見守る者たちの心を揺さぶらずにはおかなかった。現役の高校アスリートは自らのめざしてきたものと重なっただろうし、競技役員も、勤務校などでこれまで指導してきた選手たちの思いや、自らの現役時代の熱い記憶と重ね合わさずにはいられなかったと思われる。ラスト300M、広陵高校の選手が仕掛けるかに見えたが、ラスト200Mでもまったく予想は難しかった。最後の直線に入り、添上高校の選手が顔を歪めながらラストスパート。広陵高校の選手も最後まで諦めずに追いすがった。トラックになだれこみ、勝利を讃える添上高校の生徒たち。うなだれて立ち去る広陵高校の選手。スタンドや競技役員からもこの二人に盛大な拍手を送ったのはいうまでもない。目を赤くしている競技役員もたくさんいた。kurochanもその一人だけど。(516、04/6/6)[→6月目次]

【佐世保小学生死傷事件に思う】vol.201《日々雑感新掲示板レスより》
◆佐世保の小学校で、給食の時間に女児が女児に首などをカッターで切られ死亡するという事件が起こりましたが、「命を慈しむ心」を奪われた子ども(たち)という点では、今日の事件はけっして特異なケースではないと思います。日曜日に子どもたちを連れて川遊びをし、日々雑感にも書いたテントウムシを3歳のゆうひの掌にのせて遊ばせていたのですが、地面に落ちたテントウムシをゆうひは摘みつぶしてしまいました。しかも指で土にねじりつけたのです。痛みや命について3歳の子に説教したわけですが、人間の肉体的な痛みや死についてさえも想像できない子どもたちがそのまま大きくなる風潮は、何がそうさせているのでしょうか?自己の「生のリアリティー」も捉えにくい時代は何に原因があるのでしょうか。ブームの去ったペットは生きたまま毎週の生ごみに出されているといいます。「他に痛みを与える」ということが、隠された目的とされる抑圧と衝動の短絡的時代になってしまったのでしょうか?他者への関心の歪みや欠落は、公共の場に平気でゴミを捨てたり、騒音を撒き散らすことが迷惑だという意識があまりに希薄であることにも現われていますよね。学校教育の基本は、「想像力トレーニング」だと思ってきたkurochanなのですが、対症療法の域を出ないのかもしれません。(eatyhiroさんへの掲示板レス、04/6/1)
◆佐世保女児殺害事件は、二人が相次ぎHPを開設し、チャットでの中傷が殺意を引き出したとの報道がされている。HPのデータ改竄もあったという。人権教育と切り離した情報教育がいかに危険であるかを示す例にもなりそうだ。昨年の研修で、コンピューターの授業でチャットをさせると、同じ教室にいる同級生にたいして、面と向かってなら言えないようなことを、匿名でもないのにあっさりと書いてしまう傾向があるとの中学からの報告を聞いたが、これはネットに日々接しているものにとっては容易に想像できることだ。ネット上の言葉は、書き手の意図をはるかに越えて先鋭化し、抑制のきかない言葉は、なおさら鋭いナイフと化す。ネット上の憎悪の渦は看過できない人権問題だが、生身の人間関係においても、他を顧みない傾向が強まっていることが拍車をかけていることを忘れてはなるまい。佐世保の女児をとりまく、ネット上の、または生身の、大人たちのそうした歪んだ意識をも掘り下げていくべきだろう。そう、それはこの僕にも、あなたにも関わる問題なのだろう。(515、04/6/4)
◆子どもたちの内面の過程をゆっくり丁寧に育てていくことが、とてもおろそかになっていますね。教員の世界もまた、結果主義的管理主義に走る教委や度量のない管理職による弊害がもろに出てきています。「良いとこ取りでツケは他人に背負わせる」という風潮が、国際政治にも政財界にも、庶民の暮らしにも拡がっていることもまた、教室に持ち込まれているのだと思います。「不器用でも誠実に生きる美しさ」を自らにも子どもたちにも改めて問いかけたいと思います。今回の佐世保の事件では、「荒れ」を見せ始めていた子どもの信号を見落としていたのではないかと言われ始めています。「子どもの荒れは宝である」と言う言葉がありますが、まさに「子どもの荒れ」に向き合う・向き合おうとすることから、様々なことが導き出せるはずだったのにと思われてなりません。僕自身も、そのへんから教員としての自分を振り返ってみたいと思います。井上防災担当相の「元気な女性が多くなってきた」発言も、谷垣財務相の「放火は女性の犯罪だった」発言にしても、事の本質に向き合おうとする意識からはほど遠く、プロとしての政治家以前の問題だろうと思います。(小竹安勘さんへの掲示板レス、04/6/7)
◆とりわけ高学年の小学生を子に持つ親御さんにすれば、今回の事件に大きな不安を感じざるをえないんでしょうね。日焼けするとか膝を擦り剥くとかとは全然次元の異なる、しかも極めて見えにくい変化が、ネットの闇の広がりとともに我が子に陰を落としているかもしれないのですから。文科省が「ネットとの付き合い方」を子ども達に教育せよと全国の学校に指示しましたが、すでにネットとの多様な付き合い方をしている子ども達に、その光と陰を理解させ、自他の人権尊重をも含めたネチケットを身につけさせるのは、容易ではないと思います。また、今回の事件の少女たちのHPや交換日記などがあれこれ分析されていますが、これが現代の子どもたちを理解し課題を探るものであればいいのですが、「我が子とは違う特異な存在」であることを強調しつつ視聴率や購読部数を確保するための、いつものマスゴミの手口であれば、結局、自分が楽になるために人の命を軽んじるということを、社会一般に刷り込むことになってしまうでしょう。ここにも罪があると考えます。真相も方途も、僕にもあまり見えてこないのですが、自らが生きている現実に引き付け重ね合わせて、課題を探る営みを続けたいと思います。(しおんさんへの掲示板レス、04/6/14)[→6月目次]


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